第73話「山②」
山の夜は、思っていたより静かで、思っていたよりうるさかった。
川の流れは遠くで絶えずゴーッと鳴っているのに、テントの内側にいると、誰かの寝返りひとつでもやけに近く響く。草いきれと土の匂い、その上をすべる冷たい空気。いつもより深く吸い込むたび、胸の中まで山の色に染まる感じがする。
寝袋を並べた順番は、右から、ひかりん、しおりん、わたし――かおりん、ゆはりん、奈々りん。しおりんとわたしは強制的に入れ替えさせた。
ひかりんはヘッドライトを額にちょこんとつけたまま、「キャンプの夜は即寝が勝ち~」とか言いながら、五分で“スー”を“ズぅ”に進化させた。あの人、切り替え速すぎる。
しおりんは、「歯みがいた? 水筒のフタ、しっかり締めてね」と全員を見回してから、最後にわたしの寝袋の端をきゅっと直してから、寝袋ごと抱きしめまくってきた。暑いと文句を言おうとしたら、すでに目を閉じていた。
奈々りんは軍隊。寝袋に入った瞬間に肩幅ぴたり、呼吸一定、まばたき停止。「消灯!」の号令を自分にかけて、すぐ夢の国。さすがだ。
問題は、真ん中の二人――わたしと、わたしの左隣のゆはりんである。
*
消えかけたランタンの明かりが、テントの天井を薄い琥珀色に染めている。
寝袋の中で手を組んで、耳をすます。虫の合唱が層になって重なり、その奥で木が“みし”と鳴る。遠くの県道をトラックが一台だけ通り過ぎ、静けさはまた元に戻った。
――そのときだ。左から
ごそっ。
わたしは反射的に目を開ける。暗闇に慣れた瞳に、ゆるい影がにじんだ。寝袋が、ゆっくりわたし側へ寄ってくる。
まさか。いや、まさかね。ゆはりんは小動物みたいに寝相がいい……と、思っていたのに。
「ん……かおりん……」
耳のすぐそばで、ひどく近い声。
次の瞬間、小さな体が、どんとわたしに重なってきた。
「ちょっ……!」
声はささやきより小さく漏れただけで、喉の奥で止まった。
ゆはりんは完全に寝たまま、わたしの腕を枕にして、ぎゅっと抱きついてくる。寝袋ごしでも伝わる体温。前髪がわたしの顎にふわりと触れ、くすぐったい。
(う、うそでしょ……近い……!)
息を止めていれば、心臓の音だけがやたら大きくなる。ゆはりんの呼吸はとても整っていて、まるで小さな波が砂浜を往復するみたいだった。
抜きたい――腕を、そっと。けれど動かすたび、「んぅ……」と小さな声が漏れて、かえって抱きつく力が強くなる。睡眠の謎パワー、侮れない。
右を見る。しおりんが目を閉じたまま、薄く笑っているように見えた。気のせい、だよね? いや、絶対気のせいであってほしい。
わたしは覚悟を決め、喉だけでつぶやく。
「ゆ、ゆはりん……やわらか――じゃなくて、重くない? 寝袋、戻ろっか……」
「ん……あったかい……かおりん……」
だめだ、通じない。寝言に近い甘え声が耳たぶをかすめ、背中にぞわっと寒気(のような熱気)が走る。
「ん……おっぱい……」
――っと、寝袋の上からわたしの胸のあたりをまさぐりだした。
(ちょ、ちょっと!? これは……!)
思わず心臓が破裂しそうに跳ねる。鼓動の音が耳の奥から脳まで突き抜け、暗闇の中で自分だけが爆音を鳴らしているみたいだ。
寝袋の布越しとはいえ、指先が小さく、でも確かに「そこ」に触れてくる。迷子の子猫みたいに、もぞもぞと動き回っては――時折、ピタリと止まり、軽く握ってみたり。
「ん……やわらか……」
――ゆはりんの寝言。
耳のすぐそばで囁かれたそれは、まるで爆弾の信管を引かれたみたいに、わたしの理性を吹き飛ばす。
(だ、だめだってば! 今の完全にアウトでしょ!?)
全身が熱くなる。冷たい山の空気なんて、今のわたしにはまるで役立たない。寝袋の中で汗がじんわり広がり、喉がひどく渇く。
「……あっ……ん……」
思わず変な声が漏れちゃった。しおりんに聞かれちゃうよー。
次に、その手は胸だけで満足せず、今度はお腹のほうへ、さらに鎖骨のほうへ……と、寝袋の上をゆっくりとさまよい始める。指先が生地をすべり、肌を想像させる。思わず声を上げそうになって、必死に唇を噛んだ。
「ん……あったかい……」
寝言は続く。小さな吐息がわたしの首筋にかかり、ぞわぞわっと背中を駆け上がる。
「……ああっ……だめ……」
(や、やばい、これはほんとに……やばい!)
*
まずい、下の方も熱くなって来てる……どうにかしなきゃ――そう思って、わたしは意を決してゆはりんの手をぎゅっと掴んだ。
「……ゆはりん、ね、寝袋、戻ろうね……?」
声にならない声。喉からかすれるように漏れただけ。でも、それで伝われば……そう願った。
けれど。
「んぅ……いや……かおりん……」
――逆効果だった。掴んだ手をほどこうとするどころか、ぎゅっと握り返される。そのまま体ごとさらに寄ってきて、寝袋ごしに頬と頬が触れた。髪がわたしの頬をかすめ、甘いシャンプーの香りが鼻先に落ちてくる。
「ん……大好き……」
さらにとどめの寝言。甘えきった声で、わたしの耳元に。
(ひゃあああああああ!?)
声を出すわけにはいかないから、心の中で絶叫するしかない。頭の中で鐘が乱打されるように鳴り響き、理性の糸がぷつぷつ切れていく音まで聞こえそうだ。
逃げることもできない。腕を抜こうとするたびに「ん……」と可愛く鳴いて、さらに抱きついてくる。わたしの胸元に顔を埋めて、すりすりと頬をこすりつけながら。
「こ、これは……無理ゲーだってば……!」
唇からこぼれた声は、もはや消え入りそうな悲鳴だった。そして思わずゆはりんのオデコに軽いキスッ!
その瞬間――
「……楽しそうだね」
右側、しおりんの寝袋から低い声が聞こえた。
(っ!?)
心臓が今度こそ止まりかけた。
暗がりの中、わたしは慌てて振り向く。しおりんは目を閉じているのか、半開きなのか判然としない。けれど、その口元がほんのりと笑っているように見えた。
(ちょ、ちょっと待って!? 見られてたの!? いやいやいやいやいや! これ、違うから! わたしは被害者!無実!証人を呼びたい!!)
脳内で裁判が始まる。わたしは両手を挙げて叫んでいた。
けれど、現実のわたしはただ布団の中で固まっているしかなかった。抱きついてくるゆはりんを振り払う勇気も、しおりんに弁明する勇気も、どこにも残っていなかった。どうか聞き間違いであるように……と祈りをささげる。
「……楽しそうだね、真ん中」
やっぱり、起きてた。やばい。あのトーンは、お姉さんモードの奥からちょっとだけ“姉の影”が顔を出してるときのやつだ。
「た、たまたま! いま戻すから!」
「ふーん。戻せるなら、どうぞ?」
挑発? いや試験? どっちにしろ、『失敗したら説教』の未来が見える。
わたしは全神経を左腕に集中し、寝袋の布をちょっとずつたぐり寄せる作戦に出た。カサ……カサ……音をできるだけ立てないように。糸でも引くみたいに、数ミリずつ。
――が、わたしの努力を鼻で笑うかのように、ゆはりんは『ぴとっ』と額をわたしの肩にくっつけ、さらに腕を絡めてきた。完全包囲。
寝袋の中で、ため息が溶ける。
(もう、こうなったら……このまま朝まで……? いや、いやいや!)
*
そのときだった。
ガサリ
テントの外で枝が踏まれ、落葉がこすれる音。
ずし……ずし
続けて、重みのある足音。
「今の、何?」
しおりんが、目は開けずに聞く。わたしは首だけで左右に小刻みに振った。わからない。
ひかりんはというと、無理やり起こしたロボットのように上体を起こし、「クマじゃね?」と、誰もが考えたくない第一候補を口にした。
「やだやだやだ、静かに……!」
「動くな、声を潜めろ」
奈々りんは一度で起きて、テントのファスナーの位置を確認し、ペグの方向まで目で追っている。完全に対峙モード。どこの山岳救助隊?
テントの壁に、影がうっすら映った。丸っこい頭。長いしっぽ。
……ん? しっぽ?
「猫、だと思う」
しおりんの声が、今度は少しだけほっとしている。
ヘッドライトを細くしてテントの裾へ向けると、黒い小さな影がぴょん、と軽く跳ね、草むらへ消えた。
――猫だった。
「よ、よかったぁ……」
「誤認だ。危険なし」
ひかりんと奈々りんが同時に息を吐く。
わたしはといえば、外の騒ぎが収まったのに、内側の騒ぎは収まりそうになかった。だって、ゆはりんがびくっと体をすくめ、わたしの胸の辺りに顔をぎゅむっと押しつけてきたのだ。
「こ、こわ……かった……」
「だ、大丈夫。猫。猫だったから」
言い聞かせるように囁くと、ゆはりんはこくりと小さくうなずき、けれど抱きつく力は解けない。むしろ増した。
まるで“ここが安全地帯”と言われてしまったみたいで、わたしは立場を失いつつあった。いや、寝袋の中で立場とか言ってる場合じゃない。
*
こうなったら、座道部の合言葉――静坐――を思いだすしかない。
背筋を心の中で伸ばし、呼吸を整える。吸って、吐いて。肩の力を抜いて、目の前の“あたたかい現実”だけを、ただ現実として受け止める。そう、これは現実。落ち着け、わたし。
……いやでも、近い。ちか……
近い。
思考がひらがなと太字を往復している間にも、時間は過ぎていく。
右では、しおりんが寝返りをうたずに静かにしている。けれど、その“静かさ”が逆にプレッシャーだ。怒ってはいない。けど、面白がってもいない。どこか観察者めいた温度。見守っているのか、見張っているのか、たぶん両方。
「……かおりん」
「な、なに?」
右から、ごく小さい声。
わたしは首だけを右に傾ける。すぐそこに、しおりんの輪郭。暗闇の中の目が、ほんの少しだけ光った気がする。ヘッドライトの残照か、それとも――。
「明日の朝、最初の湯沸かし、やってくれる?」
「や、やる! なんでもやります!」
即答。反射。まるで“条件闘争に負けた”感じだけど、これで空気が柔らかくなったのは確かだ。
しおりんは小さく笑って、「じゃ、おやすみ」とだけ言った。声の端っこに、少しだけ優しさが戻っている。助かった……のか?
*
時計は見ない。見たところで、時間はわたしの味方をしてくれないから。
虫の声の重なり方が少し変わった気がする。たぶん一時間、いや二時間は経った。
ひかりんの寝息は、時に“ズぅ”から“すぴ”へ変化し、彼女の夢の内容をうっすら想像させる。
奈々りんは無音。あの人、息してるよね? と心配になるくらい規則正しい。
しおりんは、寝ている。たぶん寝ている。でも、わたしがうっかり動くと……
それに気づく程度には浅く。
ゆはりんは――あいかわらず、わたしの腕を枕にして眠っている。
重いわけじゃない。むしろ軽い。けれど、ずっと同じ姿勢で支え続けるのは、別の筋肉が悲鳴を上げる。
わたしはそっと手首を返し、血を巡らせ、じんじんする痺れをやり過ごす。ゆはりんは「ん」とだけ言って、また落ち着いた。
(ねむれない。けど、嫌じゃない)
困ったことに、その本音が喉の奥でぬるい灯のように揺れている。
近すぎる距離。だけど山の夜は、すべてを受け入れて包み込む。わたしたちはいま、テントという小さな世界で、寄りかかることを許されている。
*
テントの外に出ると、湿った草の匂いが濃くて、胸いっぱいに朝が入ってきた。息が白くならないのが不思議なくらい、空気はすんとしている。
わたしは最初の湯沸かし担当だ。……約束だから。
ストーブに火をつけると、ボッという控えめな音とともに青い炎が揺れ、お湯の表面がやがて小さな泡をたくさんつくり始めた。
ひかりんが寝ぼけ髪で顔を出し、「コーヒー……」とだけ言ってマグを差し出す。
奈々りんはすでに靴紐を結び直しており、「朝のストレッチ」と言って木陰で姿勢を伸ばした。
しおりんは鍋を持ってきて、お粥の準備に入り、わたしの動きをちらりと確認する。火力よし、水量よし。黙って親指を立ててくれた。
最後に、ゆはりん。テントの入り口であくびをしながら、わたしに向けて、小さく手を振る。
わたしは笑って、湯気の向こうから手を振り返した。
「昨日の……ごめんなさい。勝手に……」
「ううん。わたしも、ありがと。あったかかった」
*
出発前、わたしはこっそりしおりんのそばに行った。
言うべきか、言わずにおくべきか。朝の光の中で迷って、結局、短く切り出した。
「……ねえ、しおりん」
「なに?」
「昨日、なんというか、“見逃してくれて”というか……」
「ちゃんと見てた」
「ひぃ」
「これでおあいこ……かな?」
サラッと言うの、ずるくない? 心のどこかをつままれたみたいに、胸がちくっとした。
「……ごめん。腕、ちょっと痺れた」
「湿布あるよ」
二人で吹き出す。
山の朝が、また動き出す。




