第72話「山①」
七月の終わり。
セミの声が耳を埋め尽くすように鳴き響く午後。
わたし――かおりんは、窓の外に広がる山の景色をじっと眺めていた。青々とした木々、ゆらゆらと立ち昇る夏雲。海でのドタバタ合宿から、まだ数日しか経っていないのに、今度は山にやって来るなんて思ってもいなかった。
正直、まだ心の中ではちょっとモヤモヤしている。
――そう、旅館の布団事件のこと。
ゆはりんがしおりんの布団に潜り込んで、ぎゅーっと抱きついて寝てしまったあの夜。薄暗い中で鼻の下を伸ばしたしおりんの顔、そして翌朝、眠そうなしおりんの顔を見た瞬間、胸の奥で何かがチクリと痛んだ。
(なんで……わたしじゃなくて、ゆはりんなんだろう)
そう思った自分に驚いて、それからつい、しおりんに冷たく接してしまった。
あの人、わたしの姉なのに。
でも、姉だからこそ、余計に気持ちがぐちゃぐちゃになるんだよ……。
*
「かおりん、そんな顔してどうしたの?」
不意に声をかけられ、ハッとして振り向く。
隣の席で、しおりんが窓の外を見ながらつぶやいていた。
「……山って、虫多いよね」
なんだ、それ。もっと深刻な話かと思った。
わたしはわざと笑って言い返す。
「ヘイヘイ! ビビってる?」
「べ、別に! バカ!」
顔を赤くしてそっぽを向く。
――やっぱりちょっと可愛い。だけど、それを口に出すのはなんか悔しい。
*
わたしたちを乗せたマイクロバスは、山道をくねくね登っていく。窓の外には広い空と深い緑。どこまでも続く森の景色に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
後部座席では、黒いビキニトップをチラチラさせながら、奈々りんが地図を広げて「熊出没注意!」と興奮気味に叫んでいた。
「出会ったらどうする? 正座で睨み合うとか!?」
「やめてよ! 笑ってる場合じゃないって!」
ピンクのワンピースを着たゆはりんが小さな声で抗議する。ウトウトしながらも、ちょっとだけ笑顔を浮かべていて可愛い。
ひかりんはというと、相変わらずサングラスを頭に引っ掛け、スマホで音楽を流してノリノリだ。
「いいね、この景色! 最高のキャンプになりそうじゃん!」
――海の時とは違う空気。
太陽は強いけど、吹き抜ける風はひんやりしていて、森の香りが肺にしみ込んでいく。
*
キャンプ場に着くと、わたしたちは荷物を抱えて木々の間に広がる広場に降り立った。
辺りにはテントの骨組みや、木製のテーブルが並んでいる。遠くから川のせせらぎが聞こえ、葉っぱの揺れる音がリズムのように重なっていた。
「よーし! 座道部、山での極意を会得するぞ!」
奈々りんがドーンと胸を張る。
「また適当言ってる……」
わたしは思わずため息をつく。
でも、しおりんが真剣な顔で言った。
「山道ってゴツゴツしてるけど、正座すれば心も体も落ち着く。……座道は、場所を選ばないんだよ」
その言葉に、みんな一瞬だけ黙った。
やっぱりこの人、妙に説得力がある。むかつくけど、尊敬もしてしまうのだ。
*
まず始まったのは「焚火の準備」。
みんなで薪を集めに森へ入ったけど……。
「ひゃああああっ!!!」
突然、先頭を歩いていたしおりんが悲鳴を上げた。
見ると、手の甲にセミが止まってバタバタしている。
「ちょ、しおりん、虫ダメすぎ!」
「だ、だって! 羽音が! 羽音があああ!」
必死に振り払っている姿に、わたしはつい吹き出してしまった。
「ほら、お姉ちゃんなんだから落ち着いて!」
そう言って彼女の手を取ると、しおりんが顔を真っ赤にして黙り込んだ。
(……ふふ、やっぱりわたしの勝ち)
*
集めた薪に火をつけると、パチパチと小さな炎が広がっていく。
夕暮れのオレンジ色と混じり合って、キャンプ場が一気に幻想的な空気に包まれた。
「こうやって火を囲んで正座すると……なんか心が引き締まるね」
ゆはりんが小さくつぶやく。炎の光に照らされる横顔が、ほんのり赤い。
「だろ? 山座道だ!」
奈々りんがドヤ顔で言う。
「極意その十一、自然と一体化!」
ひかりんが笑いながら叫ぶ。
わたしは膝を正して火を見つめた。
木々のざわめき、虫の声、火のはぜる音。全部が混じり合って、心臓の鼓動まで大きく聞こえる気がする。
隣を見ると、しおりんが静かに火を見つめていた。
その横顔にドキッとする。
でも、すぐに目を逸らした。――だめだ、意識しちゃう。
*
夜、テントに戻って寝袋を広げると、奈々りんが「右から順番!」と勝手に配置を決めた。
……そして、わたしはしおりんの隣になった。
寝袋に潜り込むと、山の夜の冷気がひやっとして、自然と彼女の方に体が近寄ってしまう。
暗がりの中で、しおりんが小声でつぶやいた。
「……ごめんね、かおりん。まだ怒ってる?」
胸がドクンと跳ねた。
――ズルいなあ、そういうこと言うの。
「うん。まだちょっと。……でも、今日の虫のときの顔、可愛かったから、許してあげる」
「えっ!? か、可愛かったって何それ!?」
しおりんが慌てて赤くなる。暗くても分かるくらい、耳まで真っ赤だ。
その様子に、わたしはニヤッと笑った。
「内緒。わたしだけの秘密」
「ず、ずるい……」
二人で顔を背けたまま、静かな夜に包まれる。
森のざわめきが、子守歌みたいに聞こえてくる。
*
こうして、山での一日目が終わった。
でも、胸の中のドキドキは全然収まらなくて、目を閉じてもなかなか眠れなかった。
(ねえ、しおりん。わたしは、いつまでこんな気持ちを抱えたままでいるんだろう――)




