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第59話「あやとり」

 6月の午後3時、大学の和室教室は、畳の清々しい香りと窓から漂う夏の花の甘い匂いに満たされていた。窓の外ではセミの初鳴きが遠くに響き、陽光が畳にまだらな影を落としている。


 今日の映画研究会は、いつもと違ってスクリーンもDVDプレイヤーもない静かな空間。わたし、しおりん、ひかりん、安達さん、山野くんの四人で、畳に円座になって正座していた。


「ねえ、今日は座道の練習で、ちょっと新しいことやってみない?」


 ひかりんが、いつものキラキラした目で提案してきた。彼女の手には、先週見せてくれた『座道入門』の古びた冊子。――ほんと、座道って実在するんだよね……。わたしが適当にでっちあげた架空の部活が、こんな形でわたしの前に現れるなんて、未だに信じられない。


「新しいことって?」


 わたしが少し緊張しながら聞くと、ひかりんがバッグから色とりどりの毛糸を取り出した。


「あやとり対決!」


 ひかりんの声が弾む。安達さんと山野くんが「え、なにそれ!?」と同時に目を丸くした。


「ルールは簡単。正座のまま、二人一組であやとりをして、相手より先に『座道の形』を完成させるの。姿勢を崩さず、心を落ち着けて、指先の動きに集中する。それが座道の精神!」


 ひかりんが冊子をパラパラめくりながら説明する。ページには、糸で作る「静の結び」や「調和の輪」なんて名前の図形が載っていて、なんだか神秘的だ。彼女によると、綾取りの繊細な動きは、映画の演技やシーンの「間」に通じるんだって。


「面白そう! 映画のクローズアップショットで、手の動きを表現する練習になりそうだね」


 安達さんが、眼鏡を少し上げながら興味深そうに言う。彼の真面目な顔が、なんだか頼もしい。


「う、うん、でも俺、あやとりなんて小学生以来だぞ……できるかな」


 山野くんが、少し照れくさそうに笑いながら言う。彼の長身が正座でピンと伸びていて、まるで背筋の教科書みたいだ。


「大丈夫、山野くん! 座道は心の集中が大事だから、ゆっくりやればいいよ!」


 ひかりんが優しく微笑むと、山野くんも「よし、やってみるか!」と小さく気合を入れた。


 畳の上、まずはわたしとひかりん、安達さんと山野くんでペアを組んで正座で向かい合う。膝が畳のざらりとした感触に触れ、6月の陽光が汗ばむ肌を照らす。


 ひかりんの手元には、赤、青、黄色の毛糸が並んでいて、見るからに楽しそうだ。わたしは赤い毛糸を選び、ちょっとドキドキしながら手に取った。


「じゃあ、始めよう! まずは『ゆりかご』から『田んぼ』への変化をやってみようか」


 ひかりんが提案する。『ゆりかご』は、綾取りの基本の形。そこから指を動かして『田んぼ』を作るんだって。彼女の指先はまるで魔法みたいにスムーズに動く。


「しおりん、こうやって指を引っかけて……うん、いい感じ!」


 ひかりんが優しく指導してくれる。わたしはぎこちなく糸を操りながら、彼女の動きを真似る。糸が指に絡まるたび、ちょっと焦るけど、ひかりんの笑顔に励まされてなんとか形を作っていく。


 ――それにしても……


 時々ひかりんが、指導しながらわたしの指を触ってくるのだが、普通の触り方じゃない。つつっーっという爪先で撫でるような……指がわたしの指先に軽く触れるたび、なんだかゾクッとするような感覚が走る。


 彼女の爪先が、まるで意図的にわたしの手の甲をなぞるように動く。いや、きっと気のせいだよね……? ひかりんはただ、熱心に教えてくれてるだけだ。うん、絶対そう!


「しおりん、ちょっと力抜いて! 糸がピンと張りすぎると、形が崩れちゃうよ」


 ひかりんが、キラキラした笑顔で言う。彼女の声はいつも通り明るくて、まるでこの和室全体を照らすみたいだ。でも、なぜかわたしの心臓はドキドキと早鐘を打っている。畳の感触が妙にリアルで、汗ばむ膝が少し震える。


「う、うん、わかった! こう、かな?」


 わたしは慌てて糸を調整し、なんとか『田んぼ』の形を完成させようと集中する。ひかりんの指先がまたわたしの親指に触れた瞬間、思わず「ひゃっ!」と小さな声を上げてしまった。


「ふふ、しおりん、敏感すぎ! そんなんじゃ座道の精神、乱れちゃうよ?」


 ひかりんがくすくす笑いながら、いたずらっぽく目を細める。彼女の長いまつ毛が、陽光に照らされてキラキラ光ってる。な、なんでこんなにドキドキするんだろう……。これは座道の集中力のせい? それとも、ひかりんの……?



「これ、意外と難しいな……」


 一方、安達さんと山野くんはと苦笑いしながら挑戦している。安達さんの真剣な表情と、山野くんの「うわ、崩れた!」って笑い声が、和室に心地よい空気を運ぶ。


「できた! これ、『田んぼ』だよ!」


 ひかりんが得意げに完成した図形を見せてくれる。わたしも必死に糸を動かし、なんとか『田んぼ』を完成させた。ちょっと歪んでるけど、初めてにしては上出来だよね?


「おお、しおりん、いいじゃん! これ、映画のワンシーンみたいだよ」


 安達さんが感心したように言う。彼女の言葉に、わたしは少し照れながらも嬉しくなる。


「ほら、しおりん、ぼーっとしてないで次! 『田んぼ』から『川』に変えるよ!」


 ひかりんの声にハッと我に返り、急いで糸を動かす。彼女の指はまた私の指先に触れるけど、今度はさっきより少し控えめだ。いや、でも、やっぱりちょっとわざとっぽい気が……!


 隣を見ると、安達さんと山野くんのペアも真剣そのもの。安達さんは眼鏡の奥で眉を寄せ、まるで数学の難問を解くみたいに毛糸をじっと見つめている。一方の山野くんは、ぎこちない手つきで糸を引っ張りながら、「うわ、絡まった!」と小声で焦ってる。二人とも、ひかりんの提案した「座道の精神」に本気で取り組んでるみたいだ。


「安達さん、いい感じ! その集中力、めっちゃ座道っぽい!」


 ひかりんが振り返って声をかけると、安達さんが「ふ、映画のクローズアップに耐えうる手の動きを意識してるだけだよ」とクールに答える。けど、耳がちょっと赤い。やっぱり彼も緊張してるのかな?


「山野くん、ゆっくりでいいよ! 糸は心の鏡だから、焦るとすぐバレちゃうんだから!」


 ひかりんのアドバイスに、山野くんが「心の鏡って……なんか深いな」と苦笑いしながら糸をほどく。背筋は相変わらずピンと伸びていて、まるで座禅中の修行僧みたいだ。



「よし、第一ラウンド終了!」


 ひかりんが手を叩く。


 私とひかりんのペアは、なんとか『川』の形までたどり着けたけど、安達さんと山野くんは『田んぼ』でストップ。山野くんが「俺の指、でかすぎるんだよな……」とぼやくと、みんなで笑いが起こる。


「次は、もっと難しい『静の結び』に挑戦するよ! これ、冊子によると、座道の達人が心を完全に無にして初めて完成できる形なんだって!」


 ひかりんが冊子を掲げながら、目を輝かせる。ページに描かれた『静の結び』は、複雑に絡み合った糸の図形で、まるで曼荼羅みたいだ。ほんとにこれ、できるの……?


「しおりん、ペア変えてみない? 今度は私と安達さん、しおりんと山野くんで!」


 ひかりんの提案に、なぜかまた心臓が跳ねる。山野くんとペアか……。彼の大きな手で、あやとりなんてできるのかな? でも、なんか新鮮で楽しそう!


「よ、よろしくな、しおりん。俺、めっちゃ下手だけど……」


 山野くんが照れくさそうに頭をかきながら、私の向かいに正座する。彼の膝が畳に触れる音が、静かな和室に小さく響く。私は青い毛糸を手に取り、ちょっと緊張しながら笑顔を返す。


「うん、ゆっくりやろう! 座道の精神で、ね!」


 ひかりんが「じゃ、スタート!」と号令をかける。山野くんと私は、ぎこちなく糸を渡し合いながら『ゆりかご』の形を作り始める。彼の指はほんとに大きくて、糸がちょっと滑りそうになるけど、意外と丁寧な動きにびっくりする。


「しおりん、こうやって引っかけるんだよな?」


 山野くんが真剣な顔で聞いてくる。陽光が彼の短い髪に反射して、なんだかキラキラしてる。うわ、なんか、めっちゃ集中してる顔、かっこいいかも……?


 一方、ひかりんと安達さんのペアは、まるでプロの綾取り師みたいにスムーズに進んでる。


 和室には、畳の香りと夏の花の匂いが漂い、セミの声が遠くで響く。陽光が畳にまだらな影を落とし、私たちの指先を照らす。この不思議な「座道」の時間は、なんだか映画のワンシーンのように、心に刻まれていく気がした。


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