第33話「あっちむいてホイ」
まだゴールデンウィーク。時計の針は、午後二時半を指していた。
今日も、久しぶりに私と――かおりんのふたりだけ。
家の中はしんとしていて、テレビの音もラジオの声もない。
ただ、キッチンから漂う紅茶の香りと、外の風がカーテンをふわりと揺らす音だけが、空間をやさしく満たしていた。
「……なんか、いいね。こうやって、しおりんと2人きり」
かおりんがソファに寝転びながら、私を見上げて言った。
脚を伸ばし、ゆるいトレーナーの裾が少しだけめくれて、白い足首がのぞいている。
私は一瞬、目をそらす。
――昔から変わらない仕草。でも、少しだけ、違って見える。
「ねえ、なんか遊ばない?」
「また?」
「うん。……なんか、2人だけで遊べるやつ、したい気分」
私は少し考えて――ふと思い出した。
「じゃあ、“あっちむいてホイ”は?」
「それ、めっちゃ懐かしいやつじゃん!」
かおりんの顔がぱっと明るくなる。
「やろやろ、それ、やりたい!」
*
「ふふ、本当にいいのかね?かおりん君」
「なにそれ」
キャッキャッと笑いながら、ソファの上で転がる。
トレーナーの首回りがゆるくて、白いものがチラ見えする。
「私は昔、あっちの部だったのだよ」
いつものように本当かどうかわからない謎の部を言う。
「あっち?どっち?」
「基本あっちだね。あっちを向く事を生業とする非情な部」
「なんだそれ。わかんないよー」
*
私たちはちゃぶ台の前に座って、正面に向かい合った。
「いくよ、せーの……じゃんけんぽん!」
「勝ったー! あっちむいて――ホイ!」
私が右を指差す。かおりんの顔は、左。
「ふふ、反射神経はまだまだね、しおりん」
「ちょっと油断しただけだし!」
「あっち部ダメじゃん」
「これからだよ」
次のラウンド。
じゃんけんで勝ったかおりんが、私の目をじっと見つめてくる。
――見つめすぎ。
「……いくよ?」
その“間”が妙に長い。
その目が、まっすぐで、やさしくて――でも、ちょっと挑発的で。
「あっちむいて……ホイ」
右を指された瞬間、私は条件反射で左に顔を向けていた。
「やった、勝った!」
「くぅ……悔しい……!」
「次で勝負つけようか?」
「いいよ。負けたら、おやつ係ね」
「えー、それ罰ゲーム!?」
「しおりん、チョコクッキー焼くの上手いし♪」
かおりんが悪戯っぽく笑う。その笑顔に、少しだけドキリとする。
*
2回戦が始まる前に、私は一度深呼吸した。
かおりんは、そんな私の様子をじっと見て、ニヤッと笑う。
「緊張してる~?」
「してないし! こっちはあっち部OBなんだからね!」
「さっき“非情な部”って言ってたのに、今はOBなの?」
「そこは柔軟性よ」
笑いながら、もう一度向き合う。ちゃぶ台の上には、半分溶けかけたアイスティーのグラスがひとつ。
「じゃ、いくよ! せーの、じゃんけんぽん!」
「よし、勝った!」
私が勝ち、指を構える。
「いっくよー? あっちむいて……ホイ!」
左!
でも、かおりんの顔は、しっかり右を向いていた。
「ふっふっふ、無駄だね。こちとら“姉トラップ”には慣れてるのです」
「なにそれ!? 聞いたことないよ!」
「しおりんのそういう急に真顔になるクセ、読めるもん」
言われて、私はちょっと赤くなる。
――他の気持ちも見えてる?
「じゃあ次、いっくよ~!」
「かかってきなさい!」
*
3回戦──
「じゃあ、仕切り直して……いくよ!」
ちゃぶ台の前で、私たちは正座して向き合う。さっきまでふざけ合っていたのに、今はどちらも真顔。
「じゃんけん――ぽん!」
「やった、私が勝ち!」
かおりんが笑顔で勝利の手を挙げる。勝負の瞬間、ふっと笑みを引っ込め、目つきが変わる。
「いくよ……あっちむいて――ホイ!」
かおりんが“下”を指差した瞬間、私は条件反射で“上”を向いていた。
「くっ、また外したか……」
「しおりん、ちょっと動き早すぎ!」
「反射神経には自信あるの」
「じゃあ私も負けない!」
顔を見合わせて、お互いにふっと笑う。
「勝負だね、次こそ!」
*
4回戦──
今度は私がじゃんけんで勝利。
「よっしゃ!」
少し身を乗り出して、かおりんの目をじっと見つめる。
「……あの顔は、フェイント来るやつ」
かおりんがじりっと警戒態勢に入る。私は目の奥で笑いながら、わざとゆっくりと――
「あっちむいて……ホイ!」
左だ!
でも、かおりんの顔も……左。
「やったーーー!!」
私の声が部屋に響く。
「え、ちょ、うそ、今のは引っかかった……」
「ほほほ、ついにしおりんの勝利である!」
私は得意げに鼻を鳴らす。
「ちょっとー、今の絶対タイミングずらしたでしょ!」
「戦術だよ。心理戦」
「むむむ……これは次で巻き返さなきゃ」
ちゃぶ台の向こうで、かおりんが拳をぐっと握る。
*
どちらかが連勝することもなく、勝ったり負けたりが続いていく。
気がつけば、お互い真剣なまなざし。
それでも、間にふっと笑いがこぼれる。
――こうしてると、なんだか時間がゆっくりになる。
日差しがカーテン越しにふわっと部屋を照らし、風が二人の髪をそっと揺らす。
勝敗よりも、この瞬間が心地よくて、私は思った。
「ねえ、勝ったらさ、おやつ一緒に作ろっか」
「え? なんで?」
「一緒の方が楽しいじゃん?」
かおりんはちょっとだけ目を丸くして、それから笑った。
「うん、そうだね。……じゃ、次は“おやつ係一緒”をかけて、最終戦!」
「いいよ。覚悟しなさい、妹よ!」
*
最終戦。
「じゃんけん――ぽん!」
私が勝つ。
指を構えて、目を細めてかおりんを見つめる。
かおりんのまつ毛が、ふるふると揺れる。
口元は、少し緊張しているみたいで……でも、それでも笑ってた。
「あっちむいて――」
一瞬、私は迷った。
(どっちに向ければ、かおりんは顔をそらしてくれるかな)
その考えが、たぶん、私を遅らせた。
「ホイ!」
指は右。
そして――かおりんの顔も、右。
「……あ」
「やったーーー!! 勝ったー!」
かおりんが手を挙げて跳ねるように喜んだ。
でも、私はそれを見て、ちょっとだけぽかんとしてた。
(なんで……一緒に向いちゃったんだろう)
まるで、わざと同じ方向を向いたみたいに。
勝ち負け以上に、何かが、そこにあった気がした。
*
そのあと、おやつをつくっていると、
「……しおりん」
と、かおりんが台所の後ろからそっと声をかけてきた。
「さっきね、同じ方向向いたとき、ちょっと……ドキッとした」
「……私も」
「“あっちむいてホイ”って、ただの遊びだと思ってたのに、なんか……目とか気持ちとか、全部つながってたみたいだった」
私は振り返って、かおりんを見つめた。
その目が、昔から知っているのに、今は少しだけちがう目に見えた。
私はそっと言った。
「……もう一回、やってみる?」
「うん。……今度は、わたしが勝ちたい」
「じゃあ、勝ってみせて」
「しおりんが手加減しなかったら、ちゃんと喜ぶよ」
その笑顔に、私はまた、心を撃ち抜かれた。




