第30話「怪談」
春の風はまだやさしくて、だけど夕暮れの時間になると、空気が少しずつ硬くなっていく。
その日の部活は、少しだけ肌寒かった。
和室の窓を開け放ったまま、私たちは静かに座っていた。
「今日も“座道”する?」
ひかりんが、お茶を注ぎながら言った。
「うん。でも……ちょっと、違うテーマにしてみたいかも」
「違う?」
「“怪談”とか、どうかな」
その言葉に、場の空気がぴしりと張った気がした。
「座道……で、怪談?」
山野くんが顔をしかめた。
「無言の演出で、空間に“何か”を漂わせる……そういう意味では、すごく相性がいいと思うの」
ひかりんの声は真剣だった。
安達さんがぽつりとつぶやいた。
「確かに、怖い話って“音”より“無音”のほうが怖いかもね……」
こうして、“座道怪談”という謎の試みが始まった。
*
夕方五時、和室の窓をすべて閉める。
障子をぴたりと閉じて、ランタンの明かりだけにする。
畳の上に、正座。
呼吸を整える。心を“沈める”。
「じゃあ、しおりから……“話す”んじゃなくて、“空気”で演出してみて」
ひかりんが優しく促す。
私は、目を閉じた。
目を開けたとき――その空間に、“誰かがいる”ような気配をつくりだす。
ひとつの空所に向かって、じっと視線を向ける。
手をそっと、空中に伸ばす。
まるで、誰かの肩を触るように。
何もない空間に、誰かがいると“思わせる”。
その演技が始まった瞬間、和室の空気が変わった。
ひかりんが、息を詰めるのがわかった。
そして。
コトリ……
部屋の奥、棚の上に置いた急須のフタが、ひとりでに揺れて落ちた。
「……え?」
誰も、触れていなかった。
風も、なかった。
ランタンの明かりが、わずかにゆれている。
私たちは動けなかった。
“誰か”が、この部屋に入ってきたような、そんな感覚。
「……今の、演出じゃないよね?」
山野くんの声が、わずかに震えていた。
私はゆっくりと息を吐いた。
「……私、何もしてないよ」
「でも、今の……しおりの動きに、呼応したみたいだった」
ひかりんが、私を見つめる。
*
しばらくの沈黙のあと、安達さんが立ち上がった。
「……わたし、やってみる」
彼女は、壁際に向かって正座した。
まるで、そこに誰かが座っているかのように。
何も語らず、ただ、その空間に向けて、深い礼をひとつ。
しばらくの間、誰も動かなかった。
その時だった。
すう――っと、和室の障子が、わずかに音を立てて揺れた。
「風……?」
私が立ち上がって確認しようとすると、
「だめ、開けないで」
ひかりんが、私の袖をつかんだ。
「“開けたらいけない気がする”って、感じた」
その言葉に、私はふと気づいた。
“座道”は、目に見えない何かを“感覚”で受け取る稽古でもあった。
ひかりんの感覚が、何かを拒んでいる。
だから――
私たちは、そのまま、静かに、正座を続けた。
*
静かな、静かな時間だった。
誰も、声を出さない。
ただ、呼吸だけが、ほんのかすかに、空気を震わせていた。
正座したまま、私は意識を集中させる。
まるで、この空間にいる全員の心が、一本の糸でつながっているような感覚だった。
でも、ふと。
その“糸”に、混ざっていない、別の“何か”が、近づいて来る気がした。
ひかりんの手が、わずかに私の袖をきゅっと引く。
何も言わなくてもわかった。
(……来る)
確かに、障子の向こうに、“何か”がいる。
*
その瞬間だった。
パチッ――
ランタンの火が、わずかに音を立てた。
明かりが、一瞬だけ小さく、脈打つように揺れた。
私は目を閉じた。
そして――音を、聞いた。
障子の向こう、廊下を、誰かが――
コツ、コツ、と、裸足で歩くような、乾いた音を立てて近づいてきていた。
間違いない。
誰かが、和室の前まで、来ている。
でも、その「誰か」は、人じゃない。
心の奥で、冷たい確信が芽生えた。
「しおり……」
ひかりんの声が、かすかに震えた。
「大丈夫、ここにいる」
私は、できるだけ落ち着いた声で答えた。
怖くても、動いちゃいけない。
それだけは、直感でわかっていた。
*
次の瞬間――
障子の向こうから、「トン」と、小さな音がした。
まるで、誰かが軽く、指先で障子を叩いたかのように。
私は、心臓が跳ねるのを必死で押さえた。
(動いちゃだめ……動いたら……)
――何かに、引き込まれる。
そんな予感が、背中を冷たく撫でた。
*
トン……トン……
間隔を空けて、また音がする。
そして、その音は――少しずつ、こちらの正面に、移動してきていた。
(……わたしたちを、“見てる”)
障子一枚を隔てた向こう側に、何かが立っている。
息を潜め、じっとこちらを窺っている。
音が止まった。
あたりは、再び静寂に包まれる。
でも、わかる。
そこに、いる。
誰かが、いや、“何か”が、確かに立っている。
*
「しおり……どうする……?」
ひかりんの声が震えている。
私も、震えそうだった。
でも。
「……静かに、座って。絶対に、騒がないで」
そう告げて、私はそっと、ひかりんの手を握った。
絶対に、見てはいけない。
*
どれくらいそうしていただろう。
十秒? 一分? それとも、もっと?
やがて、風のように、気配がふっと遠ざかっていった。
障子の外から聞こえていた足音も、いつのまにか消えていた。
私たちは、しばらく動けなかった。
ただ、握り合った手のぬくもりだけが、静かに、そこにあった。
*
と、そのとき。
バサ――ッ
突然、天井の隅から、何かが落ちる音がした。
「っ!」
私は反射的に顔を上げた。
見ると、畳の上に、古びた和紙が一枚、落ちていた。
そこには、墨で、こう書かれていた。
《ここに、いた》
――ぞわり。
全身の毛穴が、いっせいに開く感覚。
誰が、何のために?
そんな理屈はもうどうでもよかった。
ただ、確かに、“それ”はここに存在していた。
*
その日の練習は、予定よりも早く終わった。
お茶を飲みながら、わたしたちはほとんど言葉を交わさなかった。
ただ、ふとした視線や、湯飲みの向きだけで通じ合う感覚があった。
「……あのさ、しおり」
「うん?」
「さっきの……本当に“何か”いたのかな?」
「たぶん……いたとしても、怖がらせたかったんじゃないと思うよ」
「……どうして?」
「ひかりんが、“感じた”って言って、止めたから。守ってくれたのかも」
そう言うと、ひかりんは少しはにかんだように笑った。
「だったら、ちょっと嬉しいかも」
彼女の笑顔に、私はそっと手を伸ばした。
そして、彼女の指先を握る。
冷たくて、でも安心できる、春の夕暮れの温度だった。
*
後日。
和室の棚の裏から、古い名簿が見つかった。
それは、かつてこの和室で活動していた、演劇部のものだった。
その中には、事故で亡くなった部員の名前が記されていたという。
名簿に挟まれていた紙。
そこには、滲んだ墨文字で、こう書かれていた。
《また、演じたい》




