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第30話「怪談」

 春の風はまだやさしくて、だけど夕暮れの時間になると、空気が少しずつ硬くなっていく。


 その日の部活は、少しだけ肌寒かった。


 和室の窓を開け放ったまま、私たちは静かに座っていた。


「今日も“座道”する?」


 ひかりんが、お茶を注ぎながら言った。


「うん。でも……ちょっと、違うテーマにしてみたいかも」


「違う?」


「“怪談”とか、どうかな」


 その言葉に、場の空気がぴしりと張った気がした。


「座道……で、怪談?」


 山野くんが顔をしかめた。


「無言の演出で、空間に“何か”を漂わせる……そういう意味では、すごく相性がいいと思うの」


 ひかりんの声は真剣だった。


 安達さんがぽつりとつぶやいた。


「確かに、怖い話って“音”より“無音”のほうが怖いかもね……」


 こうして、“座道怪談”という謎の試みが始まった。



 夕方五時、和室の窓をすべて閉める。

 障子をぴたりと閉じて、ランタンの明かりだけにする。


 畳の上に、正座。


 呼吸を整える。心を“沈める”。


「じゃあ、しおりから……“話す”んじゃなくて、“空気”で演出してみて」


 ひかりんが優しく促す。


 私は、目を閉じた。


 目を開けたとき――その空間に、“誰かがいる”ような気配をつくりだす。


 ひとつの空所に向かって、じっと視線を向ける。


 手をそっと、空中に伸ばす。


 まるで、誰かの肩を触るように。


 何もない空間に、誰かがいると“思わせる”。


 その演技が始まった瞬間、和室の空気が変わった。


 ひかりんが、息を詰めるのがわかった。


 そして。


 コトリ……


 部屋の奥、棚の上に置いた急須のフタが、ひとりでに揺れて落ちた。


「……え?」


 誰も、触れていなかった。


 風も、なかった。


 ランタンの明かりが、わずかにゆれている。


 私たちは動けなかった。


 “誰か”が、この部屋に入ってきたような、そんな感覚。


「……今の、演出じゃないよね?」


 山野くんの声が、わずかに震えていた。


 私はゆっくりと息を吐いた。


「……私、何もしてないよ」


「でも、今の……しおりの動きに、呼応したみたいだった」


 ひかりんが、私を見つめる。



 しばらくの沈黙のあと、安達さんが立ち上がった。


「……わたし、やってみる」


 彼女は、壁際に向かって正座した。


 まるで、そこに誰かが座っているかのように。


 何も語らず、ただ、その空間に向けて、深い礼をひとつ。


 しばらくの間、誰も動かなかった。


 その時だった。


 すう――っと、和室の障子が、わずかに音を立てて揺れた。


「風……?」


 私が立ち上がって確認しようとすると、


「だめ、開けないで」


 ひかりんが、私の袖をつかんだ。


「“開けたらいけない気がする”って、感じた」


 その言葉に、私はふと気づいた。


 “座道”は、目に見えない何かを“感覚”で受け取る稽古でもあった。


 ひかりんの感覚が、何かを拒んでいる。


 だから――


 私たちは、そのまま、静かに、正座を続けた。



 静かな、静かな時間だった。


 誰も、声を出さない。


 ただ、呼吸だけが、ほんのかすかに、空気を震わせていた。


 正座したまま、私は意識を集中させる。

 まるで、この空間にいる全員の心が、一本の糸でつながっているような感覚だった。


 でも、ふと。


 その“糸”に、混ざっていない、別の“何か”が、近づいて来る気がした。


 ひかりんの手が、わずかに私の袖をきゅっと引く。


 何も言わなくてもわかった。


(……来る)


 確かに、障子の向こうに、“何か”がいる。



 その瞬間だった。


 パチッ――


 ランタンの火が、わずかに音を立てた。


 明かりが、一瞬だけ小さく、脈打つように揺れた。


 私は目を閉じた。


 そして――音を、聞いた。


 障子の向こう、廊下を、誰かが――


 コツ、コツ、と、裸足で歩くような、乾いた音を立てて近づいてきていた。


 間違いない。

 誰かが、和室の前まで、来ている。


 でも、その「誰か」は、人じゃない。


 心の奥で、冷たい確信が芽生えた。


「しおり……」


 ひかりんの声が、かすかに震えた。


「大丈夫、ここにいる」


 私は、できるだけ落ち着いた声で答えた。


 怖くても、動いちゃいけない。


 それだけは、直感でわかっていた。



 次の瞬間――


 障子の向こうから、「トン」と、小さな音がした。


 まるで、誰かが軽く、指先で障子を叩いたかのように。


 私は、心臓が跳ねるのを必死で押さえた。


(動いちゃだめ……動いたら……)


 ――何かに、引き込まれる。


 そんな予感が、背中を冷たく撫でた。



 トン……トン……


 間隔を空けて、また音がする。


 そして、その音は――少しずつ、こちらの正面に、移動してきていた。


(……わたしたちを、“見てる”)


 障子一枚を隔てた向こう側に、何かが立っている。

 息を潜め、じっとこちらを窺っている。


 音が止まった。


 あたりは、再び静寂に包まれる。


 でも、わかる。


 そこに、いる。


 誰かが、いや、“何か”が、確かに立っている。



「しおり……どうする……?」


 ひかりんの声が震えている。


 私も、震えそうだった。


 でも。


「……静かに、座って。絶対に、騒がないで」


 そう告げて、私はそっと、ひかりんの手を握った。


 絶対に、見てはいけない。



 どれくらいそうしていただろう。


 十秒? 一分? それとも、もっと?


 やがて、風のように、気配がふっと遠ざかっていった。


 障子の外から聞こえていた足音も、いつのまにか消えていた。


 私たちは、しばらく動けなかった。


 ただ、握り合った手のぬくもりだけが、静かに、そこにあった。



 と、そのとき。


 バサ――ッ


 突然、天井の隅から、何かが落ちる音がした。


「っ!」


 私は反射的に顔を上げた。


 見ると、畳の上に、古びた和紙が一枚、落ちていた。


 そこには、墨で、こう書かれていた。


《ここに、いた》


 ――ぞわり。


 全身の毛穴が、いっせいに開く感覚。


 誰が、何のために?


 そんな理屈はもうどうでもよかった。


 ただ、確かに、“それ”はここに存在していた。



 その日の練習は、予定よりも早く終わった。


 お茶を飲みながら、わたしたちはほとんど言葉を交わさなかった。


 ただ、ふとした視線や、湯飲みの向きだけで通じ合う感覚があった。


「……あのさ、しおり」


「うん?」


「さっきの……本当に“何か”いたのかな?」


「たぶん……いたとしても、怖がらせたかったんじゃないと思うよ」


「……どうして?」


「ひかりんが、“感じた”って言って、止めたから。守ってくれたのかも」


 そう言うと、ひかりんは少しはにかんだように笑った。


「だったら、ちょっと嬉しいかも」


 彼女の笑顔に、私はそっと手を伸ばした。


 そして、彼女の指先を握る。


 冷たくて、でも安心できる、春の夕暮れの温度だった。



 後日。


 和室の棚の裏から、古い名簿が見つかった。


 それは、かつてこの和室で活動していた、演劇部のものだった。


 その中には、事故で亡くなった部員の名前が記されていたという。


 名簿に挟まれていた紙。


 そこには、滲んだ墨文字で、こう書かれていた。


《また、演じたい》

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