第29話「テスト勉強」
「……はああああぁ、無理、頭が爆発しそう……」
午後の部室、畳の上にばったりと倒れ込んだ奈々りんの声が、静けさを少しだけ乱した。
「奈々りん、まだ30分しか勉強してないよ」
「でもその30分がめちゃ濃かったの。英語の仮定法と、数学の確率が同時に頭に来ると、脳がバグるの」
私は苦笑しながら、彼女に冷たいお茶を差し出した。
今日は放課後の“座道部特別活動”──テスト前恒例の“静寂勉強会”の日。
畳の部室に机を出さず、座布団と筆記用具だけで挑む。正座、呼吸、沈黙。そして、集中。
「この空間、静かすぎて逆に集中できるっていうか……でも、ちょっと怖い」
奈々りんはふふっと笑った。
「わたし、家だと弟がテレビ見てたりして集中できないから、ここだと落ち着くの」
と、ゆずはちゃん──ゆはりんがいつもの丁寧な口調で話す。
彼女の前には、びっしり書き込まれた英語ノート。
「さすが、座道の申し子……」
「やめてください、そんな大げさな」
「いや、ほんとすごいと思う」
私たちは、自然と円を描くように座り、それぞれの教科書を開いた。
畳の上に本。シャーペンの音が、時間の流れを刻む。
*
「……“would have+過去分詞”って、どんな意味だっけ?」
奈々りんが小声で尋ねる。
「“もし~だったら……していただろうに”っていう、過去の仮定だよ」
「え、そんなさらっと出てくる? やば、かおりん先生やん……!」
私は笑いながら、「じゃあ問題出すね」と言って、即席の英作文問題を出した。
「“もし昨日雨が降っていたら、私たちは遠足に行かなかっただろう”」
「……えっと、“If it had rained yesterday, we…… wouldn’t have gone on the trip”!」
「正解!」
「やったーっ! 座道効果かも!」
「たぶんそれは、地道な努力の成果だよ」
「それを“座道”って呼んでるの、今うちの部だけかもね……」
みんなが小さく笑う。
*
「ねえ、ちょっとだけ“呼吸タイム”入れよう」
わたしがそう提案すると、三人は教科書を閉じて、自然と目を閉じた。
「息を吸って……吐いて……自分の中心を感じて……」
静けさが部室を包む。
「お菓子食べたい」
重厚な静けさが、奈々りんの一言で崩された。
「そうねえ……」
たしかにお腹空いてきた。頭を使うと腹が減る。昔の人は言ったものだ。
「一休みして、おやつ食べましょうよ。私お茶用意しますね」
さすが、ゆはりん。テキパキとお茶を点て始める。
わたしは鞄をごそごそと探り、小さな包みを取り出した。
「じゃーん。今日は特別に“座道部・おやつ用”持ってきたんだ」
「えっ、なにそれ、気になる!」
奈々りんが顔を輝かせる。
わたしが広げたのは、和菓子屋さんで買った「春の詰め合わせ」。
薄紅色の桜もち、ころんとした形のいちご大福、小さなきんつばに、かすかに金粉がのった上生菓子──
「わあ……! すごく、きれい……!」
ゆはりんも、目を丸くして見つめている。
「ほら、“目で味わう”のも座道ってことで」
「かおりん、言い方うまい! 最高!」
奈々りんがぴょんっと小さく跳ねた。
畳の上に、お盆の代わりにハンカチを広げて、その上にお菓子たちを並べる。
ゆはりんが淹れてくれたお茶の香りが、ふわりと部室を満たした。
*
「じゃ、いただきます」
静かに手を合わせる。
まずは、桜もちを一口。
もっちりとした生地の中に、ほんのり塩気の効いた桜の葉。そして、甘さ控えめの餡。ああ、どこかで味わったもっちり感。そう奈々りんの……ゴホン
「……ああ、しあわせ」
思わず声が漏れた。
奈々りんも、いちご大福をもぐもぐしながら、うっとりしている。
「いちごが、じゅわって……餡といちごって、なんでこんなに合うの……!」
「春だからこそですね。旬のものをいただくって、心も満たされます」
ゆはりんが、きんつばを小さな手で丁寧に持ち、きれいにひとくち。
「ゆずはちゃん、食べるときまで座道……」
「え、そんなことないですよ?」
恥ずかしそうに微笑むその姿が、とても穏やかで、わたしまであったかい気持ちになった。
*
お菓子とお茶で小休止した私たちは、自然と輪になって座り、のんびりと話を続けた。
「ねえ、テスト終わったらさ、またみんなでどこか行こうよ」
「うん! あ、前言ってたお祭りとか?」
「浴衣着てね!」
奈々りんが目をキラキラさせる。
「でも、まずは目の前のテストだよね……」
「そうね……お菓子パワーで乗り越えよう」
わたしは、お茶を一口含み、ほっと息をついた。
「じゃあ、続きやるかあ」
*
「ねえ、数学の“反復試行の確率”ってどうやるの?」
「それは“nCr×p^r×(1-p)^(n-r)”のやつだよ」
「え、ちょ、急に数式の洪水きた……!」
奈々りんの混乱した顔に、ゆはりんがやさしく説明を始める。
「たとえば“成功確率0.3で5回投げて2回成功する確率”って場合、n=5、r=2、p=0.3になるので……」
「おお……説明がゆはりん先生……!」
「ちょっと緊張しますけど、こうやって話すと、自分の中でも整理されます」
「わかるー! 誰かに説明するって、すごい勉強になるよね!」
そんなふうに和やかに問題を解きながら──ふと、奈々りんがにやりと笑った。
「ねえ、ゆはりんってさ、絶対なにか隠してるよね?」
「えっ……?」
ゆはりんの手がぴたりと止まった。
「いや、別に悪いことじゃないと思うんだけど~? なんかこう、座道ガチ勢なのに、ちょっと天然というか、抜けてるとこあるっていうか……」
「うんうん、わたしも思ってた」
わたしも乗っかると、ゆはりんはますます焦った顔になる。
「な、なにも隠してなんかないですよ……!」
「逆に怪しい!!」
奈々りんが身を乗り出す。
わたしたちもじりじりと距離を詰めると、ゆはりんは耐えきれず、小さく声を絞り出した。
「……じつは……」
「じつは?」
「わたし……」
「うんうん?」
「……家で、ぬいぐるみに名前つけて、お茶を点てる練習してます……っ」
「……」
「…………」
一瞬、時間が止まった。
そして──
「か、かわいい!!!」
わたしと奈々りん、声を揃えて叫んだ。
「えええ!? どんなぬいぐるみ? どんな名前!? ねえ教えて!!」
「え、えっと……くまさんで、“小次郎”っていうんですけど……」
「小次郎!!」
「しかも……正座させようとするんですけど、ぬいぐるみだからできなくて……それでも、“はい、小次郎さん、お辞儀です”とか言いながら……」
ゆはりんの耳まで真っ赤になっていた。
かわいすぎる。反則だ。
「そんなの、尊すぎるよ……っ」
奈々りんが泣きそうな顔で両手を握りしめる。
「でも、わたしにとっては練習相手なんです。座道って、相手を思いやる気持ちも大事だから……小次郎さんに、感謝してるんです」
ゆはりんは、ちょっとだけ胸を張って言った。
その言葉に、わたしの胸がじんわりとあたたかくなる。
「……いいね、ゆはりん」
「うん、最高だよ」
お菓子とお茶の香りが残る部室で、私たちはまた少しだけ、ゆはりんの新しい一面を知った。
やがて、わたしたちはそれぞれの教科を教え合いながら、黙々とノートを埋めていった。
*
夕方、窓の外がほんのり朱に染まりはじめた頃。
「……ふぅ、もう2時間経ってるのか」
「こんなに集中できたの、久しぶりかも」
奈々りんが伸びをしながら、嬉しそうにつぶやいた。
「わたし、もうちょっとだけ残って復習してってもいいですか?」
ゆはりんが、おずおずと聞いてきた。
「もちろん。わたしも少し残るよ」
「じゃあ、私も付き合う!」
ふだんの部活とは違う静かな一日。でも、それはそれで、ちゃんと“部活”だった。
*
帰り道。
三人で並んで歩く。
風が少しだけ冷たくて、でも肌に心地よかった。
「今日の座道、すごくよかったね」
「え、座道なの、これ?」
「うん。静けさの中で、自分と向き合って、心を整えて、誰かと共に進む……これ、座道の本質でしょ?」
「……たしかに。じゃあ、テストも“座道の段位”だと思って頑張ろうかな」
「“段位テスト”って言われると、急に武道っぽい……」
私たちは笑いながら、校門を出た。
春の陽が、まだ少しだけ空に残っている。




