第28話「練習」
〇〇大学 午後三時の和室教室。
窓の外からは、ほんのり甘い風のにおいが漂ってくる。
春の陽射しに包まれた畳の上、今日は映画のスクリーンも、DVDプレイヤーも置かれていなかった。
「今日はちょっと趣向を変えて、“座道”の練習をしてみない?」
そう提案したのは、ひかりんだった。
「映画観ないの?」
「うん。映画もいいけど、せっかく“映画研究会”って名乗ってるんだから、ちょっと文化的なこともしようかなって」
そして、彼女がバッグから取り出したのは、一冊の古びた冊子。
『座道入門 ─静と動の美学─』
――うそ……ホントにあるなんて
そもそも座道部ってのは帰宅部だった私が妹――かおりんへの言い訳に使った架空の部で、座道なんてものが実在するなんて思ってもいなかった。
「図書館で見つけたんだ。なんか、面白そうで」
ページを開くと、正座の姿勢、呼吸法、所作、さらには“無言の対話”という章まであった。
「これ、映画にも通じる気がするの。静けさの中にある緊張とか、目線とか、間とか」
「な、なるほど……静かな映画って、座道っぽいもんね」
――冷や汗をかいてる私を見て、 安達さんが真剣な顔でうなずく。見透かされそう。
「よし、やろう。こういうのって、経験しないとわかんないしな」
山野くんも珍しく乗り気だった。
*
それからの1時間、私たちはいつも映画を観る円座のまま、座道の練習に入った。
まずは呼吸法。
口から息を吸って、吐く。その長さを八拍で数える。
ゆっくり、深く、そして静かに。
呼吸のリズムに合わせて、周囲の音がどんどん遠くなっていく。
そして今度は鼻から息を――
――ひかりんのいい匂いが鼻から……とても精神統一なんかしてられないじゃない
次は、目線の練習。
相手の目を見て、そこに“意志”を込める。
でも、決して圧をかけてはいけない。ただ、そこに“在る”ことを伝えるように。
ひかりんと目が合った。
彼女の目は、いつもよりずっと澄んでいた。
でも、どこかやわらかい光をたたえていて、私は思わず微笑みそうになる。
けれど、“笑ってはいけない”のが座道のルール。
頬を引き締めて、私はまっすぐ彼女の目を見つめた。
――まつ毛長い、そして陽光を反射した瞳が怪しく煌めいている。目の美しさと怪しさは、もともと彼女の持っている一番の魅力だ。
そう……私はこの魅力にやられたのだ。ああ……無理、直視すると変な気分になる。
「はい、目線終了」
ひかりんの合図で、わたしたちは一斉に目を伏せる。
――危なかった。
*
次は、“無言の会話”。
言葉を交わさずに、意志を伝え合う。
題材は──「お茶のおかわりが欲しいかどうか」。
互いに湯飲みを前にしながら、目と所作だけで伝える。
「えっと……こうやって、湯飲みをちょっと前に出したら“ください”の合図らしいよ」
最初はお遊びのような雰囲気だったけれど、だんだんと空気が変わってくる。
私の前に置かれた湯飲みに、ひかりんが手を伸ばす。
何も言わず、そっと急須を持ち、注ぐ。
それだけの動作なのに、心がすっと通じたような、そんな気がした。
――ふふ。ひかりんが微笑んでいる。
――欲しいのは、これだけじゃないよね?ひかりんが無言で語りかけてくる。
――ふふ。しおりんってわかりやすい。
拷問かこれ……
「……なんか、落ち着くね」
私が疲れ切った時に、誰かがぽつりとつぶやいた。その声は、小鳥のさえずりのようだった。
*
休憩のあと、最後にやったのは「演出」。
テーマは“無音のワンシーン”。
「みんな、好きな映画のワンシーンを、セリフなしで再現してみて」
「演技するの?」
「ううん。身体で“その空気”を再現するだけ」
たとえば──
ある日の雨の日、駅のホームで別れを惜しむ恋人たち。
あるいは、無人の教室で一人ぼんやりと外を見る少女。
そんな情景を、それぞれが静かに演じる。
私の番が来たとき、私はあえて“ホラー映画の中の沈黙”を選んだ。
ランタンを灯し、正座したまま、空間の“気配”に耳を澄ます。
誰かが、後ろにいる──その“気配”だけで、演出する。
観ている人たちの空気が、ぴしりと変わったのを感じた。
終わったとき、誰も言葉を発さなかった。
「……すごかった」
安達さんがぽつりとつぶやいた。
――でも本当は
――ひかりんからの気配が、圧がすごすぎて固まってただけだったんだよね
*
その日、和室の教室は、映画のない静かな一日だった。
でも、心の中では、いくつもの“映画”が上映されていた。
静けさの中にある、濃密なやりとり。
それが、私たちの“座道”だった。
「ねえ、しおり」
帰り際、ひかりんが私に寄り添いながら言った。
「次は……即興で“物語”を演じるっていうの、やってみたいな」
「座道×即興劇?」
「うん。きっと、新しい表現が見つかると思う」
その目が、どこか冒険を前にした子供みたいに輝いていた。
私は思わずうなずいてしまった。
「いいね。やってみよう」
そう言ったとき、春風が、ふわりと私たちの間を通り抜けていった。




