第20話「座道部」
放課後、私はひとりで校舎を歩いていた。
というのも、心の中に一つ決めていたことがあったから。
──座道部。
それは、しおりんが高校時代に立ち上げたちょっと変わった部活だった。
「座ることを極めるなんて、変だけど、すごく奥が深いの」
そう語っていたしおりんの横顔が、今でも印象に残っている。
正座、胡座、椅子の座り方、姿勢、所作。礼儀作法や表情の作り方まで、すべてを「美しく座る」という一点に注ぐ部活。
でも、その座道部は去年で活動停止になった。しおりんの卒業とともに、部員がいなくなったから。
……という話だけれど……本当にあった部なのかな?
「誰もやらなくなっちゃうの、もったいないよね……」
そう話した私に、しおりんは言った。
「じゃあ、かおりんがやればいいじゃん」
……やっぱり、あのときの言葉、冗談じゃなかったんだな。
私は、奈々を誘って旧部室があるという棟へ足を運んだ。
ドアの前で深呼吸。緊張で足が少し震えたけど、ノックしてからドアを開けると、そこにはひんやりとした空気と、畳の匂いが漂っていた。
きれいに片付いた和室。
窓から差し込む午後の陽射しが、畳の縁をやさしく照らしている。
──ここで、しおりんも毎日練習?してたんだ。
そう思うと、自然と背筋が伸びた。
奈々が怪訝な顔をしていたが、気にせず足を踏み入れる。
そして部屋の真ん中に正座して、静かに手を膝に置いた。
目を閉じて、耳を澄ます。春の風の音。遠くから聞こえる吹奏楽部の練習。
──そして、自分の呼吸。
「私もやる」
奈々も同じように部屋の真ん中に座る。
「……ここから、また始めるんだ」
小さくつぶやく。
やってみせる。
新入生勧誘ポスターも、しおりんが使ってた資料も、ぜんぶ引き継いで、伝統として続ける。
その先に、どんな仲間と出会えるのか、どんな経験が待っているのか、わからない。
でも、きっとそのすべてが、高校生活を彩る色になる。
*
もう一度立ち上げり、空いていた部室のドアを閉める。
ドアが静かに閉まると、外の喧騒が嘘みたいに遠のいて、部室の中にぽっかりと空間が生まれた。
畳の香り、ほんのりと湿った春の空気。そして、窓の隙間から入り込んでくる柔らかな陽の光。
私は畳の真ん中に、もう一度ゆっくりと正座した。
静かに、深く、呼吸をひとつ。
「──これが、“座る”ってことなのかもね」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
「んー……よくわかんないけど、なんか落ち着くかも」
横に座っている奈々が、ちょっと照れくさそうに笑う。その表情を見て、私は少し安心した。
誰かといっしょに“無言の時間”を過ごすって、案外すごいことだ。言葉がなくても、気持ちが通じてるような気がする。
しばらくそうしていると、奈々がちょっと膝を崩しながら、こちらをちらりと見た。
「かおりってさ、意外とこういうの、真面目にやるよね」
「なにそれ、失礼だなあ……」
「だって、最初は“座道部”って聞いて、正直笑いそうだったもん。“座る”ってなに、って」
「わかるけどさ……でも、お姉ちゃん、ほんとにこれに真剣だったんだよ」
そう言って、部室の奥にある木製の棚に目をやる。そこには、しおりんが使っていたという資料や、座り方の基本を書いたプリント、活動記録みたいなノートがきちんと整って残されていた。
──本当に活動してたんだ
私はそっと立ち上がって、そのノートを手に取る。ページをめくると、丁寧な文字でこう書かれていた。
「座り方は、心の形を写す」
その言葉に、ぐっと胸が締めつけられる。
──やっぱり、しおりんはかっこいいな。
「ねぇ、かおり。お姉さんって、どんな人だったの?」
不意に、奈々がぽつりとつぶやいた。
私は少し驚いたけど、口元に微笑みを浮かべながら、ゆっくりと答える。
「優しくて、厳しくて……ちょっとだけ意地悪。あと、すごく綺麗で、真っ直ぐな人」
「ふーん……なんか、“憧れの先輩”って感じする」
「うん、たぶん……わたし、お姉ちゃんにずっと憧れてたんだと思う」
そう言って、思わず口を閉じた。
本当は、「憧れ」だけじゃなかった。
しおりんの隣にいると、どきどきして、変に胸が苦しくなって……
同じ制服を着ていた頃は、その理由がよくわからなかったけれど、今はなんとなく、わかる。
あれは、きっと「好き」だったんだ。
そんな私の心を読んだように、奈々がそっと身体を寄せてきた。
「……ねぇ、かおり。なんかさ、あたし、ちょっとだけ嫉妬してるかも」
「嫉妬?」
「だって……かおり、お姉さんのこと、すごく想ってる感じがする」
その言葉に、私はびっくりして奈々の方を見た。
でも奈々は、目を逸らさずにじっと私を見つめていた。いつもみたいな冗談っぽさはなくて、ちょっとだけ泣きそうな目だった。
「……ごめん、変なこと言って」
「変じゃないよ。でも、奈々がそんなふうに言ってくれるの、嬉しい」
私も奈々を見返す。
彼女の髪の間からのぞく白い首筋。制服の襟元から少し見える鎖骨。その全部が、いつもより近くに感じた。
「……じゃあ、さ」
奈々が、小さな声で言った。
「かおりが、あたしのことも、ちょっと……」
「奈々……」
わたしの言葉は、そこで止まった。奈々の手が、そっとわたしの指に触れてきたから。
その指先はすごくやさしくて、少しだけ震えていた。
私たちは、畳の上で向かい合って座ったまま、しばらく無言だった。だけど、その沈黙は不安じゃなくて、あたたかかった。
「かおり……目、閉じて?」
「え……?」
「お願い、ちょっとだけ」
奈々の声が、ほんのり掠れている。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
息が止まりそうになった。心臓の音が、耳の奥でバクバク鳴ってる。
「……さあ、帰ろう。おいてきぼりー」
「ああっ、ひどい」
春の風が、窓を揺らした。遠くで吹奏楽部の音が聞こえる。まるで映画のワンシーンみたいな、ゆったりとした時間。
畳の上、和室の静けさの中で、ふたりの気持ちはゆっくりと溶け合っていく。
しおりんが遺してくれた“座道”の場所で──
私たちは今、少しずつ“自分”を知っていく。




