第19話「入学式の姉」
電車の中で、ヒールのつま先がコツコツと床を鳴らす。ぎこちない。わたしは窓に映る自分をそっと見つめる。
柔らかく巻いた髪。グレーのセットアップ。目元を少しだけ強くしたメイク。
制服じゃなくなった自分に、まだ慣れない。
今日は大学の入学式。
一人きりで電車に乗るのも、知らない駅で乗り換えるのも、久しぶりだった。
「かおりんは、もう学校に着いたかな……」
そうつぶやくと、少しだけ緊張がほどける。
妹のかおりんは、今日から高校一年生。
あの子は新しい制服を着て、早起きして、きっと緊張しながら登校してるはず。
「高校デビューってやつだな~」
そう言いながら、鏡の前で前髪を巻いてた姿が目に浮かぶ。
……うん、大丈夫だよ、かおりん。
あんたはちゃんとやれる。わたしが保証する。
*
大学の最寄り駅に着くと、人波の中にまぎれた。
黒、紺、ベージュ、グレー。
スーツ姿の新入生たちがわらわらと歩いていて、みんな、どこか緊張している。それが少しだけ、救いだった。
「すみません、経済学部ってどっちですか?」
声をかけてきた女の子は、わたしと同じくらいの背丈で、ピンクのリップが似合っていた。
「わたしもそっち。ついてきて」
「ありがとうございます!ほんと助かります~」
見知らぬ子と並んで歩くのが、こんなに安心するとは思わなかった。
「一人で来たんですか?」
「うん、妹は高校の入学式で。そっちも今日なの」
「え、奇遇!うちの弟も今日から高校生。なんか、変な感じですよね」
「うん……『姉』って、いつまでたっても慣れない」
会場に着くまでの短い会話が、すごくあたたかくて、
少しだけ大学って場所が、怖くなくなった気がした。
*
式典は広い講堂で行われた。
きちんとした服に包まれた大人たちが、壇上で話をしている。
わたしはその声を、なんとなく遠くで聞いていた。
心の中では、ずっとかおりんのことを考えてた。
……うまくクラスに馴染めてるだろうか。
……部活、どうするんだろう。
……またお昼、コンビニのパンで済ませてないだろうか。
……うるさいかな。
もう高校生なんだから、放っておいてもいいはずなんだ。
でも、心配してしまう。
それは、たぶんわたしが「姉」であることから逃げられない証拠。
――思えば、あのプールの日から、あんまり経ってないのに。
笑いながら泳いで、ふざけて、ジュースの罰ゲームとかやって。
あのときのかおりんは、まだ中学生だった。
でも、今はもう……同じ制服じゃない。
同じ時間を、別々の場所で生きてる。
わたしは、ちゃんと姉として見守れてるかな。
大事なこと、伝えられてたかな。
講堂の天井をぼんやり見つめながら、そんなことを思っていた。
*
式が終わると、キャンパスの外は人であふれていた。
グループになって写真を撮る子たち、親と来ている子、スマホで地図を確認する子。
わたしは、人の波から少し離れたベンチに腰を下ろした。
バッグを開いて、スマホを取り出す。
すると、一通のLINEが届いていた。
《しおりん、無事入学した?あたしも入学した》
かおりんからだ。
短いメッセージなのに、胸がじんわり熱くなる。
《無事、大学生になりました。こっちも入学おめでとう。制服の写真、あとで送って》
すると、すぐにスタンプが返ってきた。照れてるパンダのやつ。ちょっと笑って、わたしはもう一通送った。
《あんたなら大丈夫。ちゃんと高校生になれる。っていうか、あたしもまだ大学生になりきれてないけどね》
それは、自分への言葉でもあった。
不安はある。
知らない教室、知らない授業、知らない人ばかり。
でも、ここから新しく始まるんだ。
わたしの毎日も、かおりんの毎日も。
*
朝のあの緊張はどこへやら。わたしは少しだけ、足取り軽くキャンパスの中を歩いていた。入学式が終わったあと、構内のサークル棟に案内されて、いくつか気になるサークルのチラシを手にした。
その中に、一枚だけ、目を引いたものがあった。
「映画研究会」
女子歓迎。BL・百合・海外ドラマなんでもあり。
観て語って、笑って泣いて、たまに飲み会。
恋愛に疲れた人、恋に悩んでる人、フィクションに逃げたい人――
おいで。
「……へぇ、ちょっと気になるかも」
そんな軽い気持ちで、わたしはサークル棟の2階の一室をノックした。
*
「いらっしゃいませ~、新入生?」
部屋の奥から声をかけてきたのは、グレーのパーカーにタイトなジーンズ、そしてラフに結ばれた短い髪の女の子だった。
一瞬、男の子かと思った。だけど、声とまなざしの柔らかさが、わたしを「女の子だ」と確信させた。
「あ、うん……あの、映画研究会ってここで合ってますか?」
「うん、正解。わたしは副代表の篠原ひかり。みんなには“ひかりん”って呼ばれてるよ。しおりちゃんは?」
「しおり、です……経済学部の一年です」
「しおり、いい名前だね」
その言い方が、あまりにも自然で、あたたかくて――思わずドキッとした。
サークル室はこぢんまりとしていて、壁にはポスター、机の上にはDVDの山。ひかりんはわたしを隣に座らせて、活動内容をざっくり説明してくれた。
「基本、月に2~3本映画観て、感想語ったり、本読んだり……あとは、まったり雑談とか」
「……語ったりするんですか?」
わたしがそう聞くと、ひかりんは少し口元をゆるめて、くすっと笑った。
「わたしの初恋は二次元の女の子だったよ。あと、リアルの先輩にも憧れてた」
「先輩……?」
「うん、ちょっとだけ“そういう”関係だったかもしれない」
ひかりんの目が少しだけ遠くを見ていた。恋の匂いがする瞳。その空気に、わたしの心臓がほんのり跳ねた。
*
ひかりんは、サラッと自然に距離を詰めてくる子だった。腕と腕が触れる。小指がふいにあたる。ふとしたタイミングで髪を撫でてくる。
そして、わたしの名前を呼ぶ声が、やけに甘い。
「しおりって、触れたくなる雰囲気あるよね」
「えっ、なにそれ……」
「ちょっとだけ、ね?」
そう言って指先が、わたしの耳の後ろにふれた。微かに、ぞくりとするような感覚が背筋を走った。
*
わたしたちはサークル室で、映画を一緒に観ることになった。
タイトルは『青い花の咲く頃に』。
女子高生同士の微妙な恋愛模様を、淡く描いた作品だった。
終わったあと、しばらくふたりとも無言だった。
静かな時間。スクリーンにはエンドロールが流れ続けている。
そのとき、不意にひかりんが言った。
「……ねえ、しおりって、キスしたことある?」
「えっ?」
その唐突な問いに、心臓がドクンと跳ねた。
「……い、いきなり何……」
「映画観てて、思っただけ。あのふたりの、手が重なるシーン……ドキッとした?」
「……うん、した。なんか……胸がぎゅっとなった」
「わたしも」
ひかりんがゆっくりとわたしのほうを向いた。
その瞳は、いつものようにふわっとしてて――でも、いつもより深くて、まっすぐだった。
「キスって、そんなに特別なことじゃないと思うんだ。想いがあるなら」
その言葉のあと、彼女の手がわたしの頬に触れた。熱い。わたしの呼吸が、浅くなる。
「……しおり、今、ちょっとだけ目が潤んでる」
「……うそ……やだ」
恥ずかしくて目をそらす――
*
その夜。
ひとりで帰る電車の中、わたしはスマホを開いた。
かおりんからのLINEが届いていた。
《部活、まだ迷ってる。明日、吹奏楽と写真部見てくる》
その一文に、わたしは小さく笑った。
同じ制服じゃなくても――




