第12話「ドロケイ」
高校を卒業してから、時間の流れが少しだけ変わったと思う。
大学の入学式まではまだ少し先。バイトも始めていないし、特にこれといった予定もない。最近覚えたばかりのスマホをいじったり、動画を観たり、本を開いては閉じたり。友達とも少しずつ距離ができて、昼間の空白がぽっかりと空いている。
だから、今はちょっとだけ――妹――かおりんの時間だ。
「ねえ、しおりん、退屈だよ」
リビングで毛布にくるまっていたら、かおりんがひょこっと顔を出してきた。部屋着に着替えて、髪はゆるく結んでいる。この子のちょっとだけ大人っぽくなった姿を見るたび、時の流れを感じる。
……かおりんもわたしと同じように退屈なんだな……
春休みになってから妹の友達もちょっと疎遠になっているようだ。
「ゲームでもやる?またフォー〇ナイト?」
「うーん、今日は違うの!」
かおりんがぱっと笑顔になって、言った。
「ドロケイやろ!」
「……ドロケイ?あの、外でやるやつ?」
「そうそう、でも今日は家の中で!」
「家の中で……ドロケイ?」
「うんっ!"ドロケイ・イン・ハウス"だよ!」
――なんだそれ。
一瞬、吹き出しそうになったけど、かおりんの真剣な表情と、なによりその楽しそうな目を見て、私の中にふっと灯がともった。
「ふふっ、じゃあ、ルール説明してもらおうか」
「任せて!」
*
家限定ドロケイ:ルール説明
プレイヤーは二人。警察(ドロボウを追いかける側)と泥棒(捕まらないように逃げる側)に分かれる。
家の中限定。使える範囲は、リビング、廊下、洗面所、寝室。キッチンとお風呂場は安全地帯(入れば一時的に無敵)。
泥棒は10分逃げきれば勝ち。警察はその間に泥棒に「タッチ」できれば勝利。
見つかっても、泥棒は「3秒静止チャレンジ」で逃げられる(目を閉じて3秒静止、警察が正確にカウントできなければ成功)。
捕まったら罰ゲーム。冷蔵庫のアイス、おごり!
*
「なにそれ、けっこう本格的じゃん」
「でしょ?ルール、今さっき考えた!」
「完全に今考えたのか……でも、面白そうかも」
「じゃあ、やる?」
「やろう。警察は私で」
「わー、しおりんが追いかけてくるなんて怖い~」
家の中が、急にアスレチックに変わる。
廊下の電気を消して、リビングの灯りだけにすると、影が深くなって、ちょっとだけスリルが増す。かおりんが勢いよく逃げ出して、私はリビングの時計を見て、タイマーを10分にセットする。
「タイムスタート!」
小学生のころのドロケイとは違って、今はもっと静かで、もっと緊張感がある。どこかに隠れたかおりんの気配を探しながら、私は廊下をそっと歩く。
……物音ひとつしない。
寝室の扉が少しだけ開いている。慎重に覗くと、かおりんの髪がクローゼットの影にちらっと見えた。
「……そこだっ!」
「ぎゃあああ!」
私はすかさず飛び込んで、タッチ。
「ほら、つかまえた!」
「くっ、早すぎ……まだ3分しか経ってないじゃん!」
「アイス、いただきました!」
「うう……悔しい……!」
それでも、かおりんの目はキラキラしていた。まるで小学生のころに戻ったみたいに、無邪気に笑っていた。
「じゃあ、今度はわたしが警察ね!」
「いいよ、逃げ切ってみせる!」
「ふふ、あなどるなよ?」
再戦。今度は私が泥棒役。懐中電灯を片手にしたかおりんが「タイムスタート!」と叫んでゲームが始まる。
押し入れに隠れたり、ソファの後ろに身を潜めたり。キッチンへ走って一息ついたり。あちこちに気配を感じながら、頭をフル回転させてルートを考える。家の中って、こんなにスリリングだったっけ?
「しおりーん、見えてるぞ~!」
「え、うそっ……!」
寝室のベッドの下から這い出そうとした瞬間、かおりんが現れて、私は思わず飛び出す。
「逃げろーっ!」
「待て~!おしおきだ~!」
まるでコントみたいに走り回って、ソファの横でつまずいて転びそうになる。
「つかまったっ!」
「……くっ……」
「じゃあ、アイスふたつね♪」
「この勝負、恐るべしかおりん……」
「ふふん、これで一勝一敗だね」
かおりんがアイスを冷蔵庫から取り出しながら、どや顔で言った。勝者の余裕、というやつだろう。袋を開けると、棒アイスがぴょこっと顔を出す。
「はい、しおりんには2本分の借りがあるからね」
「まって、それ冷凍庫ルール的にアウトじゃない?私のお気に入りの分まで……」
「勝負の世界は非情なのです!」
くそう……どっちが大人かわからないな……
私はソファに沈み込みながら、アイスの棒を受け取る。
「……で?このまま終わるわけないよね?」
「もちろん!」
かおりんの目が、キラッと光る。
「さぁ、3戦目だ!」
*
今回は、私が泥棒、かおりんが警察。
タイマーがスタートする前から、かおりんは謎の準備を始めていた。
「え、なにしてんの?」
「戦略配置中」
「なにその物騒な言い方」
洗面所の入り口にはクッションが立てかけられ、廊下にはスリッパが横一列に並べられている。明らかに“引っかけ”を狙ってる。
「完全に罠やんこれ!」
「わたしの名は“トラップ警察・かおりん”。逃がしませんよ?」
「ふふふ、舐めてもらっちゃ困るな。こちらは“頭脳派泥棒・しおりん”」
「それ、さっきつけたでしょ」
「イメージが大事なの」
冗談を交わしながらも、ふたりとも目つきは真剣。
タイマー、スタート!
「いくよ!」
「来いっ!」
私はすばやくリビングを抜け、物音を立てずに廊下を通る。スリッパトラップは予想通り。ふわっと足を浮かせるように飛び越えた。
……ふっ、こんなもの――
「はいそこーっ!」
「え、はやっ!」
廊下の物陰から、かおりんがにゅっと現れる。まるでマンガのワンシーンみたいな動き。反射的に洗面所へ逃げ込む。
「セーフ!」
「うわっ、安全地帯か……ちぇ」
洗面所の洗剤の匂いがやけに清々しい。
「ふふん、ここまでは計画通り」
「ま、いいよ。タイマーは進んでるからね?10分逃げきれるのかな?」
私はそこから寝室に向かってダッシュ、と思わせて急旋回、クローゼットの中に身をひそめる。奥に入ると、毛布や冬物がごそっと体に触れて、ちょっと落ち着く。
数十秒後、廊下を歩く足音が近づく。
「しおりーん?」
かおりんの声。静かに、でも甘く。
「どこかな~?またベッドの下かな~?それとも、キッチンでアイスでも?」
足音が近づく。気配が目の前に。
「……あれ?」
足音が遠ざかる。今だ――!
私は音を立てずにクローゼットを抜け、今度はソファの後ろへ。
「あと3分……!」
息をひそめる。時計の音が、やけに大きく聞こえる。
しかし――
「いた!」
「うわっ!」
背後から、柔らかくも鋭いタッチ。
「はい、捕まえたー!」
「まって、なんでわかったの!」
「しおりん、アイス食べたあと、冷たいの我慢してたでしょ?手の跡、クッションについてたもん」
「そんなん名探偵じゃん!」
「警察ですから!」
「くぅぅ……!」
*
「よーし、ついに2勝目~♪」
「もうこれ罰ゲーム大会じゃん……」
「じゃあ、もう一戦しよ?今度はしおりんが警察」
「よし、追い込んでやる……!」
私は、台所のキッチンタイマーを10分にセットしながら、今度こそ勝ちにいくと心に誓った。
「タイマー、スタート!」
かおりんは全速力で廊下を駆け抜ける。
「無音ダッシュじゃん……忍者かあの子……」
私はすぐには追いかけず、まずは部屋の電気を確認。薄暗くすると、動きがより見やすくなる。リビングの照明を落とし、廊下の先にそっと立つ。
一歩。二歩。まるで映画のワンシーンのように、気配で探る。
寝室の引き戸がわずかに開いている。
「……いるな?」
私は音を立てないように、そっと戸に手をかける。
――しかし、そこにいたのは、クッションだけ。
「やられた……フェイントか!」
急いで洗面所へ。すると、シャワーカーテンの向こうに人影が。
「ついに追いついた!」
だが――
「3秒静止チャレンジ!」
「うっ!」
かおりんは、カウント中の私の目の前で、ぴたりと動きを止めた。薄暗い洗面所で、静かに目を閉じるその姿は、なんだか神聖にすら見える。
「1……2……3」
「セーフ!」
「むぐぐ……!」
再び逃げ出すかおりん。時計を見ると、残り2分。
私はすべての安全地帯を封鎖しつつ、最終追跡モードへ。
「かおりーん……?」
「あっ」
「見っけ!」
ソファの後ろ、ぴょこっと覗くつま先。
最後の力を込めて突撃!
「タッチー!」
「うわぁー!くやしいー!」
「やったああああっ!」
私はソファに倒れ込みながら、大きく息を吐いた。
「はあ……これ……運動だよね」
「うん……ダイエットになるかも」
ふたりして、ゼーゼー言いながら笑う。
「じゃあ、アイス……半分こね」
「え、また食べるの?」
「これがドロケイ・イン・ハウスのルールだから!」
アイスを割って、ソファで並んで食べる。冷たいバニラの甘さが、汗ばんだ体に染みわたる。
「ねえ、しおりん」
「ん?」
「こういう春休みも、悪くないね」
「うん……悪くない」
*
そしてその夜、寝る前。
「ねえ、しおりん」
「ん?」
「……いつか、家を出ても、ドロケイしようね」
「え?」
「LINEとか通話とか使って、タイマーとか、場所とか、全部家の中じゃないかもしれないけど」
「……それってもはや、ドロケイじゃないのでは」
「いいの!心が逃げてるか、追ってるか、それだけで十分!」
「ふふっ……じゃあ、かおりんが指名手配されたときは、ちゃんと追いかけるよ」
「ふふ、絶対だよ?」
「うん、約束」
そのまま、私はかおりんの頭をぽんぽんとなでた。眠る前のあったかい時間。何気ない一日だったはずなのに、たった数時間のドロケイで、こんなにも心が満たされるなんて。




