3話 赤い目の誓い
須藤は一瞬、自分の目を疑った。目の前にいたはずの文太郎が忽然と消えたのだ。だが、次の瞬間、右横にその姿を捉え、驚きながらも咄嗟に左の正拳突きを繰り出した。ところが、またしても文太郎は視界から消える。ハッと左を振り返ると、そこに文太郎が立っていた。そしてその刹那、須藤の左脇腹に鋭い痛みが走った。文太郎の肘打ちが直撃したのだ。
よろめきながらも、須藤はすぐに体勢を立て直した。驚愕の眼差しで文太郎を見つめる。
(まさか、俺の正拳突きをこんな貧弱そうな奴が避けるなんて……)
近くにいた恭子も目を丸くして二人を見ていた。
「てめぇ、弱そうなフリして俺を騙してやがったな……何かやってんだろ、空手か?」
須藤の声は低く、凄みを帯びていた。
文太郎は一瞬、息を呑んで須藤を見た。
「いや……これは……違っ……」
言い終わる前に、須藤が突進してきた。右の正拳突きが唸りを上げて迫る。だが、それすらも文太郎は軽やかにかわし、今度は須藤の右脇腹に肘打ちを叩き込んだ。再度よろける須藤。すぐに体を立て直し、文太郎を睨みつける。その眼光の恐ろしさに、文太郎は体がすくんだ。
(しまった……咄嗟に避けて攻撃しちまった……やばい……)
須藤が前蹴りを繰り出す。文太郎は後退し、続く右フックを左腕でガードする。だが、ガードの上からでも須藤の拳は凄まじい威力で、文太郎は吹っ飛ばされた。すぐに立ち上がるものの、その衝撃に心が折れそうになる。
(なんて威力だ……こんな攻撃、まともに食らったら終わりだ。一発殴られて許してもらおうなんて甘かった……)
恐怖に駆られ後ずさる文太郎。それを見逃さず、須藤が一気に間合いを詰めてきた。
(もう駄目だ……死ぬ……)
その瞬間、意外な声が響いた。
「文太郎くん! ちゃんと闘ってよ! 負けないで!!」
黙って見守っていた恭子が叫んだのだ。須藤と文太郎は驚いて彼女を見た。須藤の表情は驚きから怒りに変わっていく。恭子が自分ではなく文太郎を応援したことに、嫉妬と憤りが湧き上がった。
「お前はもう終わりだ!」
怒りを込めた右正拳突きが文太郎を襲う。
だが、文太郎の顔も変わっていた。驚きから覚悟の表情へ。彼は再び須藤の拳をかわし、斜め前に踏み込んで須藤の右横に回り込む。文太郎が須藤の攻撃を避ける際、決して後ろに下がらず、常に死角に入る動きが鍵だった。それが、須藤に「消えた」と錯覚させていた理由だ。
文太郎の肘打ちが再び須藤を捉え、よろめく須藤に追い打ちをかけるように前蹴りを放つ。腹に命中すると、左右交互に前蹴りを連打。全てが須藤にヒットし、彼の体力は急速に奪われていった。肩で息をする須藤。劣勢に追い込まれながらも、怒りで曇った頭が徐々に冷静さを取り戻しつつあった。
(落ち着け……こんな状況は何度も経験してきた。必ず俺が勝ってきたんだ。逆にチャンスだ。伊達に勝ちを確信させて油断させれば、そこに俺のローキックを叩き込める!)
須藤のローキックは無類の威力を持つ。彼の自信の源だ。
(空手部主将の和田も、ボクシング部の池澤も避けられなかった。一度食らえば耐えられる奴はいねぇ!)
恭子をチラリと見る。彼女は文太郎を見つめていた。
(最後は必ず俺が勝つ。勝てば恭子の気持ちは俺に戻る!)
須藤は呼吸を整え、構え直した。恭子が文太郎を応援したことに驚きはしたが、ショックはなかった。彼女が強い男を好む性格を理解していたからだ。今、文太郎が優勢に見えたことで、恭子の気持ちが傾いたのだろう。それに怒りを覚えつつも、彼女が予想通りの女であることに奇妙な安心感すら抱いていた。
(恭子……お前は不思議な女だ。俺はお前に認められたい。それだけを考えてる。お前が認めるなら、誰とでも戦うし、誰にも負けねぇ! お前を一番理解してるのは俺だ。だから、お前は俺と一緒にいるべきなんだ!)
(まだ終わってねぇ。俺が伊達より強いって証明してやる!)
須藤は文太郎の動きを分析していた。
(奴には俺の攻撃が見えてるらしい。正面から行っても避けられ、死角から反撃される。悔しいが、あの攻撃をかわすのは難しい。だが、わざと隙を見せれば、追い打ちをかけてくるはずだ。そこにカウンターのローキックを合わせる!)
文太郎はジリジリと間合いを詰めてくるが、攻撃は仕掛けてこない。しばらく睨み合いが続いた後、業を煮やした須藤が一歩踏み込み、右正拳突きを繰り出そうとした。だがその瞬間、信じられない光景が広がった。文太郎が驚異的なスピードで須藤の懐に飛び込んできたのだ。
須藤は目の前に文太郎が現れたと分かっていながら、拳を止められなかった。文太郎は両手で須藤の頭を掴み、カウンターの頭突きを顔面に叩き込む。凄まじい衝撃に須藤が仰け反ると、文太郎は握り潰した拳で金的を強打。須藤は飛び上がるほどの激痛に襲われた。さらに文太郎は須藤の後頭部を左手で押さえ、頭を下げさせ、右手の鉄槌をこめかみに容赦なく叩きつけた。
須藤はその場に崩れ落ち、動けなくなった。文太郎に敗れたのだ。顔面は頭突きで血だらけ、鼻血が止まらない。
「まだ……終わってねぇぞ……」
血まみれの顔で文太郎を睨みつけるが、立つ力は残っていなかった。
呆然とする文太郎の耳に、どこからか怒鳴り声が響いた。須藤の手下が数人、こちらへ走ってくる。
「ただじゃ済まねぇぞ、おい!」
焦る文太郎の手を、誰かが掴んだ。恭子だった。
「文太郎くん、走って!」
戸惑いつつも、文太郎は恭子と共に走り出した。
その二人を、須藤は哀しげに見つめていた。手下が追いかけようとすると、彼は叫んだ。
「やめろ! あいつらを追うんじゃねぇ!」
手下たちは驚いて振り返る。
「でも、須藤さん! このまま逃がしたら評判が……」
「そんなのどうでもいい! いいから放っとけ。鼻血が止まらねぇ、タオル持ってこい!」
手下たちは困惑しながらも従った。
タオルを受け取った須藤は鼻に当て、独り言ちた。
「俺は一人で車で帰る。お前らは好きにしろ。誰も付いてくんな。」
ゆっくりと歩き出す須藤を、手下たちは黙って見送った。喧嘩に負け、女を取られたばかりの須藤に何を言えばいいのか分からず、下手に機嫌を損ねれば八つ当たりされる恐怖もあった。
須藤は車に辿り着き、感傷に浸っていた。
(まさか俺が喧嘩に負けるなんて……女まで取られるとは……)
夢であってほしいと願ったが、現実だった。鼻血が止まらず、シートを汚したくないため、車の前で待っていると、ふと人の気配を感じた。
20メートル先に、男が立っていた。ゆっくり近づいてくる。手下だと思い、須藤は怒鳴った。
「おい! 何だ? 一人で帰るって言っただろ。アマゾンに戻れ!」
だが、男は止まらず近づいてくる。訝しがりつつ見つめると、その顔に須藤は目を見開いた。男の目は異様に真っ赤で、獣のような唸り声を上げていた。
(何だ……病気か?)
「おい! 何だてめぇ! 止まれ!」
男が飛びかかってきた。須藤は正拳突きを繰り出すが、よろけるだけで止まらない。両腕を掴むと、牙が見え、噛みつこうとする。
「化け物かこいつ!」
突き飛ばすが、化け物は再び襲いかかる。ローキックを放つが効果はなく、痛みを感じないと悟った須藤に恐怖が走った。
(まずい……このままじゃ殺される! だが、攻撃は単純だ。なら……)
化け物の突進をかわし、足を引っ掛けて転ばせる。後頭部を掴み、顔面を地面に何度も叩きつけると、グシャリと頭蓋骨が砕ける音が響いた。痙攣する化け物はやがて動かなくなった。
「やっぱ頭を潰せば死ぬか……人間じゃねぇなこいつ……」
困惑しつつ携帯を取り出し、手下を呼ぼうとした。殺してしまったのはまずいと思い、最悪、手下を身代わりにしようと考えながら後ろを振り返った。
そこには、もう一匹の化け物が立っていた。
「何!?」
驚く間もなく、化け物の拳が顔面に直撃。よろめく須藤に追い打ちの殴打が続き、膝をつく。馬乗りになった化け物は顔を殴り続け、須藤は気を失った。そして首筋に牙が突き刺さった。
しばらくすると、化け物は立ち上がり、歩き出した。だが突然、頭から血が吹き出し、倒れる。車の陰から黒い迷彩服の男二人が現れた。
「おい、島木、ちゃんと死んでんだろな?」
「もちろん。俺の腕を信じてくださいよ、柏木さん。」
島木が持つ消音器付きアサルトライフルを自慢げに見せた。
柏木が呆れ顔で尋ねる。「そっちの男はどうだ?」
島木が須藤の首を確認する。「噛まれてますね。すぐゾンビになりますよ。頭打ち抜きます。」
「待て! 撃つな!」柏木が制した。「こいつ、初めて見たゾンビを素手で殺したんだ。こんな奴、見たことねぇだろ?」
「確かに冷静に対処してましたね。相当強い。でも、それが何です?」
「こいつ、『レア』かもしれんぞ。」
島木が首を傾げる。「『レア』って何です?」
「日本じゃ確認されてねぇが……ゾンビウィルスは思考能力を壊し、闘争本能を増幅する。だが、元々闘争本能が強い奴は意識を保ったままゾンビになる場合がある。極めて稀で『レア』と呼ばれてる。」
「そんなのがいるんですか? で、こいつがそうかもってことですか?」
「ああ。殺さず様子を見る。『レア』なら貴重な研究材料だ。そろそろ目覚めるぞ。隠れろ。」
二人が車の陰に隠れると、須藤の体が痙攣し始めた。10秒ほどで止まり、ムクッと起き上がる。ぼんやり立ち尽くす須藤に、島木が囁く。
「普通のゾンビじゃないですか?」
「静かにしろ。見ろ。」柏木が睨む。
須藤は自分がなぜここにいるのか分からず、頭がぼうっとしていた。フラフラと歩き出し、カーブミラーに映った自分の顔を見る。血だらけで目が真っ赤だ。
(なぜ血だらけなんだ……目が赤い?)
記憶を辿ると、断片が蘇る。
(そうだ……俺は喧嘩に負けた……大事な何かを盗られた……あいつだ、伊達文太郎に負けたんだ!)
怒りが込み上げ、叫びたい衝動に駆られるが、声が出ない。獣のような唸り声しか出ず、もどかしさを感じながらも、文太郎の顔を思い出すと殺意が湧いた。
何とか声を出そうと奮闘し、たどたどしく呻くように言葉を紡ぐ。
「だて……ぶんたろう……ころす……」
赤い目がさらに妖しく光り、須藤は暗闇へ消えた。文太郎を追って。