21話 洞窟の逃亡者と不死の追跡者
恭子と純一は、古谷から教えられた道を必死に進んでいた。息が上がり、足が重く感じられる中、二人は闇に包まれた細い道をひたすら走っていた。風が冷たく頬を叩き、周囲の木々がざわめく音だけが彼らを包み込んでいた。
「恭子、大丈夫か?」
純一が息を切らせながら、隣を走る娘に声をかけた。額に汗が滲み、その声には深い心配が滲んでいた。
「……ええ」
恭子は短く答えたが、その声はどこか遠く、上の空だった。彼女の視線は前方ではなく、内側へと向かっているようだった。何か重い考えが彼女の心を捉え、足取りにも微かな迷いが見えた。純一はその様子に気づき、走りながらも時折、彼女の横顔を盗み見た。娘の表情が硬いことに胸が締め付けられる思いだった。
突然、恭子が足を止め、立ち尽くした。
「きょ、恭子、どうしたんだ?」
純一は慌てて振り返り、驚きと不安が入り混じった声で尋ねた。「急に立ち止まって、怪我でもしたのか?」
恭子は答えず、ただじっと下を向いていた。長い髪が顔を覆い、その表情は見えなかった。純一は再び、柔らかく、しかし切実な声で呼びかけた。
「恭子、どうしたんだ?」
彼女はゆっくりと顔を上げ、純一の目を見つめた。その瞳に宿る光は、驚きと決意に満ちていた。そして、思いがけない言葉が彼女の口からこぼれた。
「お父さん、伊達くんの所に戻りましょう。」
「な……何?」
純一は一瞬、言葉を失った。「何を馬鹿なことを言ってるんだ! 今戻っても、我々にできることは何もない。殺されに行くようなものだぞ! どうしたんだ、恭子?」
「わからない……」
恭子の声は震えていた。「でも、このまま進むのは何か嫌な予感がするの。お父さん、引き返しましょう。」
「嫌な予感……?」
純一は眉を寄せ、娘の言葉に戸惑った。「そんなことで引き返すわけにはいかないよ。恭子、伊達くんが心配なのはわかるが、彼のためには私たちがここから一刻も早く脱出するしかないんだ。」
「……うん」
恭子は渋々といった様子で頷いたが、その表情には納得しきれていない影が残っていた。
二人は再び走り出した。足音が地面を叩き、息が白く夜気に溶ける。やがて、道の突き当たりに差し掛かった。そこには古びた木製の扉が立ちはだかっていた。純一が慎重に手を伸ばし、軋む音とともに扉を開けると、その先には暗い洞窟が広がっていた。どうやらこの洞窟を抜ければ外に出られるらしい。
「行こう。」
純一が短く告げ、二人は洞窟の中へと足を踏み入れた。
洞窟の内部は意外にも広く、高さは10メートル、幅は15メートルほどあった。壁には等間隔に松明が灯され、揺れる炎が石壁に不気味な影を映し出していた。足場も整備されており、思ったより歩きやすかった。純一と恭子は再び走り出し、息を合わせて進んだ。そしてしばらくすると、遠くに洞窟の出口が見えてきた。
「恭子! 出口だ! もうすぐだぞ!」
純一が振り返り、希望に満ちた声で叫んだ。だが、その瞬間、恭子が驚いた顔で立ち止まった。
「お父さん、静かに。」
彼女の声は小さく、緊張に震えていた。「出口の方に何か……人のようなものが見えたわ。」
「本当か?」
純一は目を凝らし、出口の方向を見た。
「ええ。慎重に進みましょう。」
二人は腰を落とし、周囲を警戒しながらそろりと歩き出した。洞窟の出口から漏れる月明かりが徐々に広がり、彼らの影を長く伸ばした。そしてさらに進むと、純一が突然立ち止まり、恭子に手で合図を送った。もっと腰を落とせ、という仕草だった。
「お父さん、どうしたの?」
恭子の声は囁きに近かった。
「恭子。出口の近くにゾンビが一匹いる。」
恭子が目を凝らすと、確かにそこにいた。じっと動かず、下を向いたままのゾンビ。その不気味な静けさが、逆に恐怖を煽った。
「お父さん、どうしよう?」
「しばらく様子を見よう。」
純一は冷静に答えた。「もう出口も近い。あのゾンビはこちらに気づいていないから、慌てる必要はない。伊達くんが無事にここまで来てくれるのを待とう。」
「うん。」
純一は近くの松明を手に取り、火を消した。たちまち二人の周囲は闇に包まれ、わずかに残る出口の光だけが頼りとなった。二人はその場に腰を下ろし、純一はゾンビの方をじっと見つめ、気づかれないよう警戒を続けた。
「あのゾンビ、私たちに気づかないかしら……」
恭子が不安げに呟いた。
「あのゾンビ、まるで動かない。じっとしていれば大丈夫だと思うが……念のため、今来た道を少し戻るか。」
純一が静かに立ち上がったその瞬間、異変が起きた。
それまで微動だにしなかったゾンビが、突如顔を上げたのだ。
純一と恭子は凍りついた。恐怖が全身を貫き、その場から動けなかった。ゾンビは犬のよう鼻をくんくんと鳴らし、辺りをうろつき始めた。純一は恭子に目配せし、人差し指を唇に当てて黙るよう合図した。そして彼女の肩に手を置き、音を立てないよう慎重に歩き出した。
二人は息を殺し、ゆっくりと後退した。純一が時折振り返ると、ゾンビは臭いを嗅ぎながら徐々にこちらへ近づいてきていた。焦りが純一の胸を締め付けた。彼は歩く速度をわずかに速めたが、その時だった。焦りすぎたのか、足元がもつれ、純一はつまずいて転倒した。
バタン!
大きな音が洞窟内に響き渡った。ゾンビがその音に反応し、純一と恭子の方を振り向いた。そして、低く唸るような声を上げた。
「恭子! 走れ!」
純一が叫んだ。
二人は一斉に走り出した。同時刻、ゾンビが奇声を上げながら彼らに向かって突進してきた。
「はぁはぁ、頑張れ恭子! さっきの扉に入ればゾンビは追ってこれない!」
「うん!」
純一は娘を励ましながら後ろを振り返った。ゾンビが驚異的なスピードで迫ってくるのが見えた。このままでは追いつかれる。純一は覚悟を決めた。
「恭子! 全力で走れ! 後ろを振り返るな!」
そう叫ぶと、純一はゾンビに向かって走り出した。勢いそのままにゾンビの腹へタックルを仕掛けた。二人は地面に倒れ込み、純一はゾンビの首と肩を押さえつけ、起き上がらせないよう力を込めた。
「お父さん!」
恭子が叫び、純一の方へ駆け寄ろうとした。
「恭子! こっちに来るな。お父さんなら大丈夫だ!」
だが、その言葉とは裏腹に、ゾンビは純一の抵抗をものともせず、力強く起き上がった。純一とゾンビは睨み合った。
「恭子。お前は今来た道を戻って、伊達くんを連れて来てくれ。その間、このゾンビはお父さんが引きつけておく。」
「お父さん、だ、大丈夫なの?」
「ああ。だが早く伊達くんを連れて来てくれ。頼んだぞ!」
そう言うと、純一は洞窟の出口へ向かって走り出した。ゾンビは純一を追いかけた。
「お父さん! 待ってて、すぐに戻ってくるから!」
恭子は叫び、踵を返して今来た道を全力で走り出した。
(恭子、お前は生きてこの町から脱出してくれ。伊達くん、恭子を頼んだよ)
純一は後ろを振り返らずとも、ゾンビが徐々に距離を詰めてくるのを感じていた。
恭子は息を切らせながら、来た道を急いで戻った。だが、まっすぐ進んだはずの道は、いつの間にか複数の扉が並ぶ迷路のような場所へと変わっていた。どの扉の先に伊達がいるのかわからず、焦りが彼女の心を締め付けた。
(伊達くん、どこにいるの……早くしないとお父さんが……)
恭子は一つずつ扉を開けながら進んだが、どの部屋にも伊達の姿はなかった。薄暗い部屋の中には埃と静寂だけが漂い、彼女の不安をさらに煽った。
一方、別の場所では、文太郎、柏木、島木の三人が、獣のような雄叫びを上げる須藤の前に立ち尽くしていた。古谷は須藤に押し潰され、動かなくなっていた。口や耳、鼻から血が溢れ、全身が血に染まるその姿は、もはや生きているとは思えなかった。文太郎ら三人は、死を覚悟した。
だが、須藤は雄叫びを上げるだけで襲ってこなかった。
「柏木さん……どうして須藤は襲ってこないんですかね?」
島木が小声で尋ねた。
柏木は唇に指を当て、静かにするよう合図を送ると、同じく小声で答えた。
「島木、須藤はおそらく目が見えないんだ。だからこのままじっとしていろ。」
首と胴が切断されたダメージが、須藤の視力を奪っていたようだった。それでも須藤は動き出し、三人に緊張が走った。
(まずい。このままだと、いずれ気づかれる。少しずつでも移動しなければ)
柏木がそう考え、島木に目配せすると、半歩後退した。島木は驚いた顔で柏木を見たが、幸運にも須藤は突然、別の方向へ歩き出した。須藤は感覚で人の位置を察知する能力を持っていたが、古谷との戦いでその力も失われていたらしい。
島木も柏木に倣い、ゆっくりと後退を始めた。須藤との距離が徐々に開いていく。
文太郎は動かず、じっと様子を見ながら考えていた。
(あの二人についていくのはまずい。須藤から逃げられても、結局あの二人に捕まる。この状況を利用して、須藤からも二人からも逃げなければ)
柏木は後退しながら、次の策を練っていた。
(とりあえず近くのコンテナに隠れるしかない。面倒なのは、出口と逆方向に進んでいることだ。だが仕方ない。須藤は出口から少し離れただけだ。俺たちが近づけば気づかれるだろう。逃げるチャンスができるまで、今は隠れるしかない。そしてそのチャンスは、自分で作るしかない。悪いが伊達、お前を囮にさせてもらうぜ)
柏木が島木を見ると、島木は不安げな表情で柏木を見つめていた。
(どうやらあいつ、伊達を囮にするのは気が進まないようだな。だが、ここから逃げるにはそれしかない)
島木は小さく頷いた。渋々ながら、柏木の案に同意したのだ。
(伊達、悪いな……)
島木は心の中で呟いた。
文太郎は須藤を警戒しつつ、柏木と島木の動きを観察していた。
(確か名前は柏木と島木だったか。あの二人、須藤から逃げるにしても出口と逆方向に進んでいる。近くのコンテナに隠れて、隙を見て出口へ向かうつもりだろう。でも、どうやって須藤から逃げるんだ? 何か嫌な予感がする……まさか!)
文太郎は二人の思惑に気づいた。
(まずい。あいつら、俺を囮にするつもりだ。俺と須藤が戦っている間に逃げる気だ。どうする……)
文太郎は須藤と二人を交互に見ながら、頭をフル回転させた。
(考えろ! どうすればいいか考えろ!)
緊張で額に汗が滲む。
(こうなったら一か八かやるしかない!)
文太郎は須藤を鋭い目で睨みつけた。そして突然、銃を取り出し、須藤に発砲した。銃弾が須藤の背中に命中し、須藤は勢いよく振り返って文太郎へ突進してきた。文太郎はさらに銃弾を撃ち続けたが、須藤はそれをものともせず迫ってきた。
文太郎は須藤をギリギリまで引きつけ、突然走り出した。その先には柏木と島木がいた。島木がそれを見て焦り、銃を構えて叫んだ。
「伊達! てめえ!」
「島木! 待て!」
柏木が制止しようとしたが、遅かった。島木が引き金を引くと、銃弾は文太郎を掠めたが命中せず、そのまま須藤の胸に当たった。柏木と島木の顔から血の気が引いた。須藤は攻撃の矛先を文太郎から二人へと変えた。
「まずい! 島木、逃げるぞ!」
「はい!」
二人は懸命に走ったが、須藤は徐々に距離を詰めてきた。
「島木! あそこに扉がある!」
「はい!」
柏木が扉を開け、廊下に出ると、島木も続いた。島木が扉を閉めた瞬間、車が激突したような衝撃音が響いた。須藤が止まらず突進してきたのだ。扉は衝撃で歪み、くの字に曲がっていた。
「島木、扉が破られるぞ。上へ逃げるしかない!」
「柏木さん、上に逃げてもゾンビがうじゃうじゃいますよ!」
「須藤よりゾンビの方がマシだ。いいから逃げるぞ!」
「はい!」
二人は院長室行きのエレベーターに乗り、1階のスイッチを押した。
「くそ! 伊達め、やってくれたな!」
柏木が珍しく毒づいた。
「柏木さん、このままあいつに逃げられちゃいますね。」
「ああ、仕方ねえ。だがもう、伊達のことは諦めよう。今はここから無事に逃げることを考えるしかない。」
「はい。」
エレベーターの扉が開き、二人は院長室から出て慎重に1階の出口へ向かった。だが、ロビーに到着した瞬間、目の前の光景に凍りついた。病院の1階には、100匹近いゾンビがうろついていたのだ。
「……柏木さん、もう駄目ですかね。俺のアサルトライフル、弾がほとんどねえっす。」
「諦めるな、島木……何か策があるはずだ。」
そう言ったものの、柏木の声に力はなかった。二人は絶望に飲み込まれていた。そのため、後ろからゆっくり近づくゾンビに気づかなかった。ゾンビが二人との距離2メートルまで迫った時、奇声を上げて島木に襲いかかった。
島木が振り返り、アサルトライフルの引き金を引いた。銃弾がゾンビの額に命中し、ゾンビは崩れ落ちた。だが、その銃声で他のゾンビたちが一斉に二人に気づいた。
「柏木さん!」
「おう! こうなったらやってやるぜ! 島木、ありったけの弾をゾンビどもに食らわせてやれ!」
「はい!」
二人は雄叫びを上げ、勇ましくゾンビたちに立ち向かった。だが、心の底では、ここから生きて出られないと覚悟していた。
須藤は柏木と島木を追わず、その部屋に留まっていた。まだ誰かがいることを感じていたのだ。その人物は、柏木や島木よりも須藤にとって重要な存在だった。だが、古谷との戦いのダメージで記憶を失った須藤には、それが誰だか思い出せなかった。
須藤は鼻をくんくんと鳴らし、匂いを頼りに探し始めた。そして、その人物の匂いを感じ取り、ゆっくりと歩き出した。
不思議だった。その人物が全く動かないのだ。だが、須藤は深く考えず近づいていった。そして、距離が5メートルほどに縮まった時、その人物が口を開いた。
「須藤、ここで決着をつけよう。」
その声に、須藤は聞き覚えがあった。声の主は、伊達文太郎だった。