19話 決意の囮
「初めまして、伊達文太郎くん。」
古谷の声は静かで、どこか冷ややかな響きを帯びていた。伊達は鋭い眼光で古谷を睨みつけ、その視線に一歩も引かぬ気迫が宿っていた。
「そう、怖い顔で見ないでもらいたいな。」
古谷が軽い調子で言うと、伊達は一層声を張り上げた。
「恭子は関係ない。離せ!」
「ああ、もちろん分かってるよ。君の要望通り離してあげよう。ただし、私の条件を飲んでもらいたい。」
古谷の言葉に、伊達の眉が険しく寄った。
「条件だと?」
「そうだ。伊達くん、私たちはどうしても須藤を捕らえたいんだ。」
「何……須藤を捕らえるだって?」
「ああ、だが、君も知る通り、彼を捕らえるのは極めて困難だ。だから君に協力してほしい。須藤を捕らえる手助けをしてくれるなら、恭子くんとそこの男性はここから無事に逃がすことを約束しよう。」
古谷の提案は冷静で、まるで取引を持ちかける商人のように淀みなかった。
「バカな。お前ら全員、須藤に殺されるぞ……。」
伊達の声には警告と諦念が混じっていたが、古谷は小さく笑った。
「そうならないように、君に協力してほしいんだよ。どうかね?」
伊達は一瞬、目を閉じて考え込んだ。頭の中で選択肢が渦巻き、恭子の顔が浮かぶ。そして、やがて決意を固めたように口を開いた。
「分かった、協力しよう。その代わり、二人はここから逃がしてくれ。」
「それは約束しよう。向こうの扉を出て左に曲がり、まっすぐ進めば町の外れに出られる。」
古谷が淡々と説明すると、伊達は恭子と純一に視線を移し、静かに頷いた。
「俺はここに残る。二人はこの町から脱出してくれ。」
その言葉に、恭子が心配そうな顔で伊達を見つめた。
「文太郎くん……。」
「恭子、大丈夫だ。すぐに片付けて後を追うよ。」
伊達は力強く言い切り、彼女を安心させようと微笑んだ。
「純一さん、恭子と一緒に行ってください。」
純一が深く頷き、感謝の意を込めて応えた。
「伊達くん、ありがとう。必ず無事に俺たちと合流してくれ。」
「ああ。」
伊達は二人が部屋から出て行くのを確認すると、古谷に向き直り、静かに尋ねた。
「さあ、俺はどうしたらいい?」
「伊達くん、須藤は君を狙っている。だから囮になってもらう。須藤はこの部屋に必ず来る。その時、君は須藤と真正面から対峙するんだ。」
古谷の指示は明確で、迷いのないものだった。
「……分かった。」
伊達は短く答え、覚悟を決めたように頷いた。古谷はそばに控える柏木と島木に目を向けた。
「柏木、島木、お前ら二人は隠れてチャンスを伺え。須藤が伊達くんに気を取られている隙に、後ろから攻撃しろ。私は別の場所に隠れ、須藤がお前らを攻撃しようとした瞬間、さらに後ろを取って仕掛ける。」
二人は無言で頷き、即座に動き出す準備を整えた。
「それと、須藤を生かして捕らえる必要はない。恐らくそれは不可能だ。だから全力で叩け。さあ、位置につけ。」
古谷の命令が響くと、柏木と島木は素早くコンテナの影へと身を滑らせた。古谷は再び伊達に視線を戻す。
「伊達くん、頼んだよ。俺たちを裏切らないでくれ。」
「ああ、大丈夫だ。」
「この部屋の中央で須藤が来るのを待つんだ。」
「ああ。」
伊達が頷くと、古谷は不敵に笑い、まるで風のようにその場から消えた。超人的な速さが残像を残し、伊達は一瞬だけその動きに目を奪われたが、すぐに気を取り直し、部屋の中央へと歩を進めた。
これからあの化け物と戦うのだ。伊達は深く息を吸い、覚悟を固めた。古谷に「裏切るな」と言われたが、そんなつもりは毛頭なかった。それどころか、これは千載一遇のチャンスだと考えていた。たとえこの町から脱出できたとしても、須藤に命を狙われ続ける人生は終わりがない。恭子の身も危険に晒されるだろう。それなら、ここで決着をつけるべきだ。
先ほど見た古谷の戦闘は圧倒的だった。自らゾンビウイルスを打ち、人間を超えた力を手に入れたその姿は、希望の光とも言えた。さらに、柏木と島木の戦いも見事だった。あの二人は十人近い敵を瞬く間に殲滅したのだ。自分一人では須藤に歯が立たないが、この三人と協力すれば勝機はある。そう確信し、伊達は古谷たちとの共闘を選んだ。
アサルトライフルのマガジンを確認する。弾は十分だ。安堵の息をついた瞬間、突然「ドゴン、ドゴン」と重い衝撃音が部屋に響き渡った。誰かが壁を壊そうとしているような、鈍く荒々しい音だ。伊達は驚いて音の方向を見た。そして、次の瞬間、爆発音が轟き、壁が吹き飛んだ。
辺りを見回すと、煙の中から人影がゆっくりと近づいてくる。伊達は反射的にアサルトライフルを構えた。人影が姿を現す。やはり、それは須藤だった。
須藤は伊達をじっと見つめ、たどたどしく口を開いた。
「だ……だて、ぶ、ぶんたろう……。」
変わり果てた須藤の姿に、伊達の胸が締め付けられた。だが、すぐに表情を硬くし、須藤の目を真っ直ぐ見据えて言った。
「須藤、ここで決着をつけよう。」
柏木と島木はコンテナの影に身を潜め、息を殺して須藤の到来を待っていた。
「さっきの小僧、背が低くて弱そうだったな。あれが本当に伊達か? もっとデカい男を想像してたぜ。」
島木が軽い調子で呟くと、柏木は呆れたように目を細めた。
「人は見かけで判断できねえってことだ。それより、島木、そろそろ須藤が来るかもしれねえ。警戒しろ。」
「了解っす。だけどさ、いくら須藤を捕まえるためとはいえ、高校生を囮に使うなんて大丈夫なのかね?」
島木の言葉に、柏木は小さく鼻を鳴らした。
「まあな。古谷さんから伊達を捕獲しろって言われた時、最初は意味が分からなかった。でも、あれは囮にするためだったんだな。今は余計なこと考えるな。生き残ることだけ考えろ。さもなきゃ死ぬぞ。」
その時、突然、重い衝撃音が響き渡った。壁に何かが激突するような、耳をつんざく轟音だ。何度も繰り返されるその音に、二人は驚いて顔を見合わせた。そして、爆発音が炸裂する。
「島木、須藤だ!」
「ええ、行きましょう!」
二人は音の方向へ慎重に歩を進めた。須藤に見つからぬよう、足音を殺して進む。やがて、壁に空いた巨大な穴が目に入った。
「須藤の野郎、この壁をぶち壊して入ってきたな。」
「化け物め、こんな厚い壁を……。」
能天気な島木も、さすがに顔が青ざめていた。
「島木、須藤は伊達の方へ向かったはずだ。このまま進めば後ろを取れる。行くぞ!」
「了解っす!」
コンテナの間を進む二人は、息を潜めて慎重に歩を進めた。そろそろ須藤の姿が見えるはず――そう思った瞬間、横からゾンビが飛び出し、柏木に襲いかかった。不意を突かれた柏木はアサルトライフルを落とし、ゾンビに馬乗りにされる。ゾンビが拳を振り下ろそうとした瞬間、柏木は両腕を掴んで必死に抵抗した。
島木が助けようと駆け寄ると、今度は別のゾンビが横から襲いかかり、顔面を殴りつけた。吹っ飛んだ島木の手からアサルトライフルが離れ、ゾンビが首を締め上げる。二人は絶体絶命の危機に陥った。
だが、さらに悪いことに、ゾンビが次々と現れ、唸り声を上げながら襲いかかってきた。
伊達と須藤は睨み合ったまま動かなかった。いや、正確には、伊達が少しずつ距離を詰めていた。須藤はその動きに気付いているようだったが、意に介さず立っている。
須藤の圧倒的な威圧感に、伊達は逃げ出したくなる衝動を抑え、必死に踏みとどまった。
(今、ここで逃げたら全て終わりだ。一生、須藤に狙われ続ける。そんな人生は嫌だ。ここで終わらせる。)
アサルトライフルを構えながら、さらに距離を詰める。しかし、一発も撃たない。目的は須藤を引きつけ、その場に足止めすることだ。柏木と島木が後ろから攻撃してくれるのを待つ作戦だった。だが、いつまで経っても攻撃が始まらず、伊達の焦りが募った。
(何やってるんだ。いつまでも持たねえぞ。)
その時、須藤の後方から複数のゾンビの唸り声が響き、伊達の顔が青ざめた。
(まずい。あの二人がゾンビに襲われてる。須藤にバレてたのか……でも、なぜ分かった?)
須藤が伊達の表情を見てニヤリと笑った。そして突然、伊達に向かって走り出した。伊達は慌ててアサルトライフルを乱射したが、須藤は銃弾をものともせず迫り、右の正拳突きを繰り出した。伊達は間一髪で横に飛び、拳が空気を切り裂く音が耳元をかすめた。
ゴロゴロと転がりながら素早く立ち上がる。須藤の突きの速さに、伊達は戦慄した。新幹線がすぐ横を通り過ぎたような感覚だった。
(なんて速さだ……。)
かつてゾンビになる前に須藤と戦ったことがある。その時の突きも速かったが、動きが粗く、避けることができた。しかし、ゾンビ化した須藤の攻撃は洗練され、予備動作すら感じられない。力だけでなく、技までもが強化されていた。
その一撃で、伊達は自分の敗北を悟った。
(さっきは偶然避けられたが、次は無理だ。)
須藤が再び突進してきた。伊達は咄嗟にコンテナの裏に隠れる。須藤は立ち止まり、コンテナに数発の蹴りを叩き込む。驚くべきことに、コンテナが軋みながら伊達の方へ倒れ始めた。伊達は慌てて逃げ出し、押し潰されるのを間一髪で回避した。
(接近戦じゃダメだ。距離を取らないと。)
再びコンテナの裏に隠れようとした瞬間、何かが脇を掠めた。それは伊達が隠れようとしたコンテナに突き刺さる。見ると、それはコンテナの開閉扉のロック棒だった。須藤が引きちぎり、投げつけたのだ。
振り返ると、須藤が新たなロック棒を手に持つ。伊達が横に飛び退くと、棒が頭上をかすめた。前転で起き上がり、アサルトライフルを向けようとしたが、須藤はすでに目の前に立っていた。
(殺される!)
須藤が拳を握った瞬間、銃声が響いた。弾丸が須藤の背中に命中し、須藤が振り返る。そこには柏木と島木が立っていた。
島木が叫んだ。
「伊達! 待たせたな!」