14話 秘伝の技と迫る影
女ゾンビが右のパンチを繰り出し、文太郎に向かって襲いかかった。その拳が空を切り裂く瞬間、文太郎は地面すれすれに滑り込むスライディングで攻撃をかわした。勢いそのままに、彼の手がゾンビの足を捉える。次の瞬間、女ゾンビは派手にバランスを崩し、床に叩きつけられた。しかし、彼女はまるで機械仕掛けの人形のように即座に立ち上がり、再び文太郎に狙いを定めて右のパンチを放つ。
文太郎は軽やかに身を翻し、その攻撃を難なく回避した。女ゾンビがあたりをキョロキョロと見回す。どうやら標的を見失ったらしい。これは文太郎が得意とする技――相手の死角に滑り込む動きだ。
だが、すぐ真横にいる文太郎に気づいた女ゾンビは奇声を上げ、殴りかかってきた。だがその前に、文太郎の右の正拳突きが彼女の顔面に炸裂する。衝撃でヨロヨロと二、三歩後退するものの、ダメージらしいダメージはない。ゾンビは怯むことなく再び襲いかかり、何度も拳を振り上げるが、文太郎の動きはあまりにも素早く、全てが空を切るばかりだ。
その攻防が続く中、文太郎の頭は冷静に分析を重ねていた。
(やっぱりこいつらゾンビの弱点は頭だ。いや、もっと正確には脳か……こいつらは標的を仕留めるまで攻撃を止めない。それがゾンビの本能なんだろう。止めるには脳を破壊するしかない。だが、硬い頭蓋骨に守られた脳を素手で壊すのは難しい。……でもさっき、池澤がこいつと戦ってる時に、一度だけ攻撃を止めた瞬間があった。あれは池澤の強烈なパンチが脳に衝撃を与えたからだ。あの時ピンときた。脳を完全に破壊しなくても、ある程度ダメージを与えれば動きを止められるかもしれない)
女ゾンビが休むことなく襲いかかる。文太郎は攻撃をかわしつつ、すかさず正拳突きを叩き込む。ゾンビはまたヨロヨロと後退するが、すぐに態勢を立て直す。
(でも、ゾンビを倒すほどのダメージを与えるには相当な衝撃が必要だ。池澤のパンチ力でも一時的に止めるのが限界だった。俺にはあんな力はない。パンチ力じゃ動きを止められないなら、硬い頭蓋骨を貫いて脳に直接攻撃するしかない)
女ゾンビが唸り声を上げ、再び突進してきた。
(脳に直接攻撃するには……あの技しかない。あれなら頭蓋骨を無視して脳にダメージを与えられる。昔、親父に教わったあの技なら!)
文太郎は右手を前に、右足を一歩踏み出した。ボクシングで言うサウスポースタイルだ。右手を広げ、小さく息を吐く。女ゾンビが恐ろしい形相で拳を振り上げ、文太郎に迫る。
(うまくいくか分からない。一か八かだ。こい!)
ゾンビの右拳が文太郎の顔面を狙って振り下ろされたその瞬間、彼は腰を落とし、膝を曲げる。後ろに引いていた左足を地面に踏み込み、膝を伸ばすと、その反動が全身に鞭のように伝わる。腰が捻れ、肩が動き、肘が伸び――最後に右の掌底が女ゾンビの顎を下から突き上げた。パチン、とゴムが弾けるような鋭い音が響き渡る。
一瞬、時間が凍りついたかのように二人は動かない。次の瞬間、女ゾンビが糸の切れた操り人形のようにバタンと崩れ落ちた。気絶したらしい。病院内にいた人々は呆然と立ち尽くし、何が起きたのか理解できない様子で文太郎を見つめていた。
「な、なんだ、どうやった?」
池澤が信じられないといった顔で呟く。
恭子が駆け寄ってきた。「文太郎くん、大丈夫? 怪我ない?」
「ああ、大丈夫だ」
文太郎は倒れたゾンビを見下ろしながら答えた。
「死んだの、このゾンビ?」
恭子が警戒しながら尋ねる。
「いや、多分気絶しただけだ。用心してくれ。すぐ起きるかもしれない。何かで縛っておこう。それと、バリケードを補強しないと、またゾンビが入ってくるかもしれない。急ごう!」
文太郎は紐を探すべく歩き出した。
「おい! 伊達、ちょっと待て!」
池澤が呼び止める。文太郎が振り返ると、池澤が食い下がるように尋ねた。
「お前、一体どうやってこの化け物を倒したんだ!」
文太郎は少し面倒くさそうに答えた。「衝撃が浸透する打撃を使って、脳に直接ダメージを与えたんだ。こいつらの弱点は脳だ。脳にダメージを与えれば倒せる」
「衝撃が浸透? そんなことできるのか? どうやったんだ!」
池澤が驚愕の表情で畳みかける。
「この技は幼い頃、親父に教わったものだ。俺の家は代々武道家の家系でな。これは秘伝の技ってやつだ。全身の筋肉を効率よく使って、力を浸透させるイメージが大事なんだ。正直、詳しい原理は俺にも分からない。ただ、習得には何年もかかったよ。親父からは危険だから使うなって言われてたけどな」
そう言い残し、文太郎は歩き去った。恭子がその後を追う。
池澤は黙ってその背中を見送った。
「よし、これでいい。いくら力が強くても、これだけ縛れば大丈夫だろう」
文太郎は病院のベッドのシーツで女ゾンビを縛り上げた。
「文太郎くん、入り口のバリケード補強もオッケーだって」
恭子が報告する。
「そうか、ありがとう、恭子。これから俺は裏口から出て、表門にいるゾンビを始末してくる。あいつらの力は並の人間より強い。そのうちバリケードを突破してくるはずだ」
「分かった。気をつけてね!」
「ああ、俺が出てったら裏口に鍵をかけて欲しい。池澤に頼んで一緒に行ってくる」
文太郎はガンケースを手に、池澤のもとへ向かった。二人が少し話した後、裏口へと歩き出す。その時、誰かが恭子の名を呼んだ。
「恭子!」
振り返ると、純一だった。
「お父さん! 病室から出て大丈夫なの?」
恭子が心配そうに尋ねる。
「ああ、大丈夫だ。それより、さっきの伊達くんと化け物の戦いを見てたよ。驚いたな」
「そうなんだ。ねえ、言ったでしょ! 伊達くんは強いんだから。見かけによらずね」
恭子が誇らしげに笑う。
「さっきの話だが、伊達くんがいればこの町から脱出できるって、本気で思ってるのか?」
「ええ、大丈夫よ。必ず脱出できる。お父さん、早く決断して。状況はどんどん悪くなるわ」
「……そうだな、わかった。伊達くんとこの町を出よう」
純一が決意を固めた瞬間、病院の外で大きな音が響いた。
「何だ? 外が騒がしいぞ」
「お父さん、今の銃声かしら?」
「ああ、本物の銃は分からないが、そんな音に聞こえたな」
恭子は顎に手を当て考え込む。
(文太郎くん、銃を持って行ったけど、いくらなんでも早すぎる。外で撃ってるのは彼じゃない……)
「お父さん、ちょっと様子を見てくるね」
「ああ」
二人が入り口に近づくと、人だかりができていた。恭子が近くの年配女性に尋ねる。「すみません、何かあったんですか?」
女性は興奮気味に答えた。「あのね、自衛隊の人たちがたくさん来て、助けに来てくれたのよ! 外の化け物を全部倒してくれたわ! すごい! これで助かったわ」
純一が嬉しそうに尋ねる。「本当ですか! ああ、良かった!」
「ええ、これで安心ね」
純一と女性は安堵の表情を浮かべるが、恭子は逆に険しい顔つきに。
「恭子、良かったな。これで危険を冒さず町を出られるぞ」
「ええ、そうね。良かったわ」
恭子の声にはどこか納得できない響きがあった。その時、入り口で義和が誰かと話す声が聞こえた。
「ええ、そうです。ここはバリケードで表からは入れません。裏口からなら入れます。……はい、今、鍵を開けますので、自衛隊と米軍の方々はそこからどうぞ」
義和が急いで裏口へ走るのを見て、恭子に嫌な予感が走る。
「お父さん、ごめん! ここで待ってて。伊達くんを呼んでくるね」
「ああ、早く伝えてあげなさい」
恭子は裏口へと急いだ。
文太郎は裏口から外へ出ると、ガンケースを開けた。「M4か。これなら撃ったことがある」
銃にマガジンをセットし、慎重に周囲を警戒しながら進む。すると、突然銃声が響いた。
(なんだ? 誰かが表門で撃ってるぞ)
銃声が止むと、文太郎は一旦様子を見るべく進んだ。病院の角に差し掛かり、表側へ回ろうとした時、足音が近づいてくる。咄嗟に大きな木の陰に身を隠すと、十数人の武装した男たちが銃を構えて現れ、裏口から病院へ入っていった。
(あいつら、自衛隊か? それとも……)
上空で爆音が響き、見上げると軍用ヘリコプターが表側に着陸した。しばらくして、再び十数人の武装男が裏口に現れる。今度は二人の男が手を後ろで縛られ、連れられていた。
(なんだ? あの二人はなぜ縛られてるんだ……)
文太郎は木の陰でじっとその光景を見つめ、動けずにいた。
病院内に「自衛隊」を名乗る男たちが入ると、一人が義和に話しかけた。
「我々は陸上自衛隊の者です。私は隊長の吉井と申します。米軍と合同で皆さんを助けに来ました。失礼ですが、あなたは院長ですか?」
「いえ、私は池澤義和です。院長の古谷敏夫は現在、行方不明なんです」
「そうですか。では、この病院の人々を一階ロビーに集めてください。皆さんを町から脱出させます」
「ありがとうございます! すぐ取り掛かります。皆さんもどうぞお越しください」
「はい、すぐ伺います。ただ、この病院に化け物がいる可能性があります。一旦調査させてください」
「分かりました。鍵をお預けします。私はロビーに人々を集めます」
義和が走り去ると、武装男の一人が吉井に報告した。
「隊長、Bチームから連絡があり、柏木と島木を連れてこちらに着くそうです」
「分かった。私は院長室に行く。柏木と島木をそこに連れてきてくれ」
「それと、Cチームからは連絡がありません。恐らく全滅かと……」
吉井の眉が片方上がる。
「そうですか。仕方ない。『レア』は諦めましょう。これ以上部下を失うわけにはいかない。柏木と島木を頼む」
「了解しました」
男が無線で指示を出すと、吉井は目の前の二人の部下に命じた。
「そこの二名は私と来なさい。残りはロビーで人間を監視しろ。弾はゾンビ用に取っておけ。人間にはなるべく使うな」
部下たちが頷き、二人を残して散る。
「さあ、行きましょう」
吉井は二人を引き連れ、院長室へと歩き出した。