にじみ出てくる“生きる術”
「ヨッシ!テオ!お前、オレの映画作りを手伝え。お前に好きなコトをやらせてやるよ!シナリオでも演出でも役者でも、好きなものをやれ!」
ゼンさんが提案してきた。
一瞬、「断ろうかな?」と思ったけれども、なんだかそれも悪い気がした。それに、どうせ目標も目的もない人生だ。このまま流されるまま流れに乗ってみるのもいい。
何よりもゼンさんの言葉には、他者を圧倒する王者の風格があった。こんな時代でもなければ、王様とか支配者とか、あるいは魔王にでもなっていただろう。
「わかりました。乗りかかった船です。僕も人生をあきらめるには、まだ若すぎる。あがいてみましょう。必死にあがいてあがいてあがき尽くして、それでも生きる目的が見いだせなかったその時には…死を選ぶとか療養センターのお世話になるとかするとしましょう」
「ヨッシャ!決まりだな!さっそく手伝ってもらうぜ」
ゼンさんは心の底からうれしそうに叫んだ。
実に人間くさい人だ。きっと、男女関係なくモテるし、仲間も多いのだろう。
*
それから、僕は毎日のように自宅からゼンさんの仕事場に通うようになった。いや、“毎日のように”ではない。文字通り毎日だ。
両親は、そんな僕を不審がりはしたが、「息子がようやく何かに熱中してくれるようになった」ということで喜んでくれもした。
この時代、親子の絆というのは希薄なものだ。
あまりベタベタとする家庭は少ない。うちも例外ではなかった。
中には完全に無関心。産むだけ産んでおいて、あとは公共のサービスに投げっぱなしという人までいる。
それでも、コンピューターやロボットの進化した時代。アンドロイドの保育士さんが大きなケガなく病気なく立派に大人に育ててくれる。
また、“学校”という制度も残ってはいたが…
別に強制的に通う必要はない。“義務教育”などという言葉は、とっくの昔にすたれてしまっていた。
学校なんて通わなくても、家でAI相手にいくらでも学ぶことができる。そういう意味でも自由なのだ。
ただ、みんなヒマだから学校に通っているだけ。
バカバカしくなって、僕は学校に通うのをやめた。
代わりにゼンさんの職場が学校となった。ゼンさんはいろいろなコトを教えてくれた。もちろん、映画作りの様々な技術や手法もある。創作にかける魂も。
けど、それ以外の…
何というのだろうか?“生きる術”みたいなモノ。
別に言葉にして「ああ生きろ、こう生きろ」と指示してくるわけではないのだけれど、彼の言動からにじみ出てくるモノがあって、僕はそこから自然と“生きるとは何か?”を吸収していった。
「オイ、ちょっとそこで踊ってみろよ」
ゼンさんはいきなりこのような注文をしてくる。こんなのは日常茶飯事だ。
「踊り?ダンスですか?僕、そういうのやったことありませんよ」
「いいから。心のままに体を動かせばいいんだよ」と、僕の反論は一瞬にして無に帰す。
「いいじゃないの。やったげなさいよ」と、立体映像のAIホウセンカもちゃかしてくる。
最初に会った時には遠慮してホウセンカの姿は隠しておいたのだが、ちょっと話をした時にゼンさんが「なんだよ。そんなおもしろそうなモノ持ってるのかよ。だったら、積極的に活用してけよ!」と、提案してきたのだ。
以後、ホウセンカも僕らの仲間になった。
「じゃあ、やってみます。けど、どんなにギクシャクしてても笑わないでくださいよ」
僕が言うと、ゼンさんはすでにニヤニヤしている。
「オッケー!オッケー!笑わないよ。じゃあ、適当なミュージック流して、ホウセンカちゃん」
「りょうか~い!」と答えてホウセンカがポップな感じの曲を流し始める。
自然と僕の体は動き始める。
オッ!という顔をしてゼンさんが驚く。
「なかなかうめ~じゃねぇか。お前、口ではゴチャゴチャ言いながら、意外と万能タイプだな。やらせてみれば、何でもそつなくこなしちまう。オレ、ちょっと自信喪失だぜ…」
その横でホウセンカはケタケタと笑い声を上げている。
あんなに「笑うな」と言っておいたのに。
当然、この風景はカメラにおさめられている。
撮影した映像は、あとから加工して映画の一部として使うのだ。
たとえば、音楽に乗せて踊っている僕の姿が、全くの別人に差し替えられて使われたり。
もちろん、ダンスの細かいミスを修正することだってできる。この時代のAIは、その程度の作業、言葉1つで簡単にこなしてしまうのだ。
だけど、今回、ゼンさんは全くの加工編集なしでこの風景を使ってしまった。
音楽に乗せながらつたないダンスを披露する僕の姿も、それを見て驚いているゼンさんも、横でケタケタと楽しそうに笑っているホウセンカも、全部全部そのまま使ってしまった。
いわば、ドキュメンタリーの一種だ。
「映画ってのは何でもありなんだよ」
ゼンさんは、よくその言葉を使った。口ぐせみたいについて出てくる。多い日には、日に4度も5度も。
「“何でも”って言っても、限度があるでしょ?」と、僕は軽く反論してみた。
「いいや。文字通り何でもさ」
「けど、人を殺したり戦争を起こしたりはできない」
「そんなもん。この時代にコンピューターがいくらでも作っちまう。本物の殺人現場や戦場よりも迫力があって真に迫ったシーンをな。意味あるか?んなもん」
「確かに…」と、僕はそれ以上言葉が出てこない。
現実以上にリアリティのある映像を作り出せるならば、実際に人を殺す必要も戦争を起こす必要もなくなる。
「そんなんじゃねぇんだよ。“真実”ってのはな」
「真実…?」
「そうさ。こう…心の底からカ~ッとくる、燃え上がるような気持ち。魂の叫び。そういうのがコンピューターに作れるか?いや、作れるな。作れはするんだが、オレたちゃ人間は、それを超えてかなきゃならない」
「大変なんですね。映画作りってのも」
「そうさ。実際大変さ。だが、だからこそやりがいがある!挑戦のしがいがあるってもんさ!」
やはり熱い人だ。
コンピューター全盛期のこの時代に、それでも人間の腕1本でどうにかしようとしてる。いや、最高傑作を生み出すためなら、AIの力も躊躇なく使ってみせる。
この人は根っからの“創作者”なのだ。
自分が最高だと信じた作品を生み出すためならば、全く手段を選ぼうとしない。
「なぜ、そこまで創作に没頭できるんですか?」と、ゼンさんにたずねてみたことがある。
すると、こう返ってきた。
「なぜかだって?そんなもん、オレにもわかりゃしねぇよ。ただ楽しいからだ。それ以上に何がある?」
「もっと深く考えたりしないんですか?理由を追及したりはしない?」
「お前は頭がよすぎるんだよ、テオ。オレはバカだから、そんなに深く考えたりはしない。単純なんだ。だが、時として単純な方が得なことがある。バカな方が威力が強い」
「そんなもんでしょうか?」
「そんなもんだよ。お前も、もうちょっとバカになった方がいい。そうすりゃ、もっと楽に生きれる。もっとも、その賢さが武器になることもあるだろうがな」
「賢さが武器に?」
「そうさ。お前に創れないモノがオレには創れる。オレに創れないモノがお前には創れる。だから、お前も創作者になれ!映画でなくとも何でもいい。自分を表現してみろよ。そしたら、死にたいなんて気持ちは消えてなくなる」
ゼンさんは、僕にそう忠告してくれた。