風吹く街へ
「俺はアシュールと言われているが、知っての通り記憶はない、僅かな記憶も酷いものばかりだ。」
インディアナポリス国際空港からローズ財団の本部のあるシカゴまで車移動の車中、助手席に座る"カリーシン"ことシエリは自嘲気味にハンドルを握るオルサバルにそう話しかけた。
「カリーシン、戦いの記憶が素晴らしいはずはなかろう、泥水をすすり、草の根を食んで生き残ってきた。生き残ることが最大の名誉だと俺はあなたにそう教わったぞ。」
自らの命を絶った、この国のあるロックシンガーによく似た美貌の男の慰めの言葉だが、シエリには届かない。先ほどの悪夢に心を占領され必死に抵抗するが、逃れられずにいる。なぜ今、このタイミングであの夢を見てしまったのか、答えは明らかだった。
異世界人の戦略により人間界の絆はズタズタだった。S機関とローズ財団の関係も第二次世界対戦後、急激に冷え込み、今はことあるごとに対立する図式が出来上がっている。だが、それは表向きのことで、二つの組織のトップ同士は繋がりを保ちバランスを取りながら前線を維持してきた。"次期 S 機関代表シエリ卿の渡米"もその一だったが、まんまと罠にはめられてしまったようだ。
一体誰が何の目的で彼に悪夢を見せて出鼻を挫こうとしたのか?敵である異世界人の介入の可能性は低い。そのためにパリ-シカゴ普通なら8時間のフライトを巡り巡って40時間かけてここまでやってきたのだ。ESTAもギリギリで習得し、たとえ入国が発覚しても罠を仕掛ける時間はなかった。シエリにすら知らされていなかったルートは全てローズ財団が用意したものだ。毒耐性のある彼に有効な睡眠導入剤をコーヒーに混入し、夢の中に極めつけの悪夢を放り込む、そんな事が出來るのは、、、。シエリは頭の中で目を通していたローズ財団の幹部たちのプロフィールを確認する。
悪夢から逃れられないのも、あの最後無理やり飲み込んだコーヒーのせいなのだろうか?CAの顔も思い出せない、ただ言えることは2つ、あの悪夢が真実で実際自分が引き起こしたということ、それに変わりはない。そして彼を"狂ったアシュール"として危険視している者たちが今から会う人たちの中にいるということだ。そんなのは、いつものことだなとシエリは少し心が楽になる。なぜ彼女らがこんな手の込んだ罠を仕掛けてきたのかも理解できた、本当に恐ろしいのはこの会合のもう一つの側面にある。
「カリーシン、大きな借りのある、昔の女と寄りを戻す、ということはなかなか勇気のいることだな。」
シエリは、うっ、と言葉を詰まらせる。グルガン族のジョークなのかもしれないが、今の彼にはちょっときつい一言だった。男性アシュールが記憶をなくす前アシュールは男女一対で活動していた。ローズ財団総裁アシュール・エブリン・エクスローズはシエリの何世代もの間パートナーだった女だ。
千年ぶりの再会を歓迎しない者達や、意味を見出せない者達がいても不思議はない。警告と、とるべきか壮大な嫌がらせと受け入れるべきか、考えがそこに至りシエリの心は幾分楽になった。
車はインディアナポリスの環状線465からインターステート65ノースに入り北へ向かって走る、シカゴまで3時間30分。考え事をするにはいい時間だ。もしかしたら、そこまで見越してこの国の魔女たちはルートを設定したのかもしれない。
「その女の話はできるのか?」
「さすがの俺もそんな勇気はないぞ、カリーシン、姫様は気さくな方だが側近の方々に軽口は通じない。ダイスを転がす時は相手を選べと教わらなかったのか?」
エブリン・エクスローズには四人のサリー(旅の姉妹)と呼ばれる取り巻きがいる、幼い頃、互いに選びあった血よりも濃い絆で結ばれた仲間だ。彼女達はアシュールではないがエブリン・エクスローズと共に転生を繰り返す。グルガン族の女魔導師集団ルグワン・トリエ(立髪のリボン)の中でも最も強力な魔女達だ。シエリがこれから対峙しなくてはいけない相手はそういう者達だった。