妻が元婚約者の下に赤ちゃんを置き去りにした
「すまない、カトリーヌ。君との婚約を破棄したい」
僕の発言に、婚約者――カトリーヌは目を見張った。
「……なぜですか」
何て察しの悪い女なんだ。
僕はきちんと、冒頭に「すまない」と付けたんだ。
理由なんて聞かなくてもわかるだろう。ここはすべてを察して、大人しく身を引くべきじゃないのか!
カトリーヌは才女だと評判だった。詳しくは知らないが、何かすごい物を作るのだそうだ。……その話に僕は興味がなかったので、よく知らないが。
しかし、こんな風に察しが悪い様子を見るに、本当は頭が悪いのではないかと思えてくる。
見た目も地味な上に、馬鹿とは……。
……救いようがないな。
それなら、僕が彼女より美しい女性に心を惹かれたとしても、僕は何も悪くない。悪いのは僕の心をつなぎとめることができなかった、彼女の方だ。
そんなことを考えていると、カトリーヌは呆れたようにため息をついた。何だ、その態度は……! 彼女の言動のすべてが気に食わず、僕は眉をひそめる。
「そうですか。わかりました。それでは、このことは両家に報告させていただきます」
――なぜそこで家のことを持ち出す!?
この女は本当に、性根が悪いと僕は思った。
「これは君と僕の問題だ! 家は関係ないだろう!!」
「いいえ。アベル様。この婚約は、両家の親同士が結んだものです。両家に黙ったまま婚約を解消することなんて、できるわけがありません」
カトリーヌは感情のこもっていない目で、淡々と告げる。
僕はイラついていた。
彼女が今回のことで冷静な態度を見せていることも、理屈っぽい言葉も、憎たらしくて仕方なかった。
その時、
「やめてよ、おねえさま! アベルをいじめないで!」
僕らの間に1人の女性が割りこんできた。
亜麻色の髪をふわふわとなびかせて、おっとりとした顔付きをしている。彼女はカトリーヌの妹……ローラだった。
僕は彼女の姿に硬直した。
なっ……! あれほど今回の話し合いには関わらないでほしいと言っておいたのに! ローラもその時は、「はぁい、アベル様♪」と可愛らしく頷いていたのに!
なぜこのタイミングで話に入って来るのか!?
カトリーヌは冷然とした口調で、彼女を突き放す。
「ローラ。あなたには関係のないことよ」
「あるもん! だって、私のお腹には……!」
「ろ、ローラ、やめろ!」
止めようとしたけれど、間に合わなかった。
「私のお腹には、赤ちゃんがいるのよ! アベルの子よ!」
――僕は頭を抱えた。
カトリーヌとの婚約は1年前に決まった。
僕は初めから、彼女のことが気に入らなかった。見た目が地味で好みではないし、彼女の趣味も気に食わなかった。部屋にこもって、わけのわからない物を作るのが好きらしい。そんなキナ臭い趣味、令嬢としていかがなものか? とても許容できたものではない。
ローラに出会ったのは、カトリーヌの家でお茶会をしていた時だった。
姉のカトリーヌとは異なり、天真爛漫で、表情がころころと変わって、愛らしいローラ。
僕はすぐに彼女に惹かれた。
そして、カトリーヌの目を盗んで、2人きりで逢瀬を楽しむようになった。
それにしても、カトリーヌとの婚約破棄の場で妊娠を暴露するとは……。ローラには困ったものだ。
彼女はおっとりとしていて、天然なところがある。だから、今回のこともわざとではないのだろう。僕がカトリーヌに責められて困っている様子を見て、助けに入ろうとしてくれたにちがいない。
いじらしくて、可愛い子だ。
予定とは少し変わってしまったけれど、仕方ない。
僕は父の書斎に向かっていた。
ローラは愛らしい女性だし、すでに僕の子を身ごもっているのだ。父もきっと彼女を気に入って、婚約者の変更を許してくれるにちがいない。
そう思っていたのに。
「お前は何ということをしたのだ!!」
書斎に入るなり、父の罵声が飛んできて、僕は目を白黒させた。
……は?
……なぜ僕が怒られなければならないんだ?
この場合、責められるべきはカトリーヌの方ではないか!!
「カトリーヌとの婚約を勝手に破棄するなど……! お前は今回の婚約にどれだけの利益があるのか、わかっていなかったようだな!!」
利益だと?
そんなもの、あるものか。
むしろ利益があったのはカトリーヌの方ではないか。僕の家より、彼女の家の方が身分が低いのだから。
僕の家は伯爵家、そして、カトリーヌの家は子爵家だ。
今回の婚約はカトリーヌ側から懇願されて結ばれたものであると、僕は思っていた。
「何を言うのです、父上! カトリーヌではなく、僕は妹のローラと婚姻します。彼女の家と縁を結ぶ必要があるというのなら、ローラの方でも問題ないはずでしょう!」
「お前は本当に、何も理解していなかったようだな!」
父は怒りのあまり、顔を赤黒く染めている。
「真に価値があったのは、カトリーヌの方だったのだぞ! 彼女が魔導具製作において、いくつも特許をとっていたことを知らないのか!?」
魔導具製作……?
特許?
何の話だ、それは。
彼女が部屋にこもって何かを熱心に作っていたことは知っていた。だが、それが魔導具だったというのか……?
「その特許があれば、うちの商売も広く展開ができると見込んでの婚約であったというのに……! お前のせいで台無しになった!」
「……は?」
「それも不貞による婚約破棄だと!? そのせいで子爵家より慰謝料を請求されている。家の評判だってがた落ちだ。お前の軽率な行いのせいで、どれほどの損害が出たと思っている! 今日をもって、お前は勘当する! すぐに荷物をまとめて、家から出て行け!」
「そんな!!」
あまりの展開に、僕は泡を食った。
「あんまりです、父上! ローラのお腹には僕の子供がいるんですよ! 生まれてくる子供はどうするんですか!」
「そんな薄汚い腹から生まれてくる子など、家には不要だ」
「父上!!」
父は無情だった。
その後、母にもすがってみたが、汚いものを見るような目で睨まれただけだった。
その日のうちに僕は勘当されて、家を追い出された。
手元にあるのは手切れ金で持たされた、わずかな金だけ……。
両親があんなにわからず屋だったなんて、知らなかった。
たかがカトリーヌとの婚約を破棄しただけで、この仕打ち……。
そうだ、やっぱりすべてはあの女が悪いのだ。
カトリーヌが魔導具製作のプロだなんて僕は知らなかった。あの女め、わざと僕に秘密にしていたにちがいない! カトリーヌがきちんと僕に話を通していれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに……。
もういい。家のことだって知るものか。あんな家とは、こちらから縁を切ってやる。
僕にはローラと生まれてくる子供がいるのだ。3人で幸せになろう。
ローラは心優しい子だ。だから、きっとわかってくれる。僕のことを励ましてくれるにちがいない。あのおっとりとした笑顔で、「頑張りましょうね、アベル様♪」と言ってくれるかもしれない。
僕はそう思っていた。
「勘当ってどういうこと!?」
家を追い出されたことを聞くなり、ローラは激昂した。
見たことのない険しい顔で、僕を責めた。
「それじゃあ、私は伯爵家で暮らせないの!? お金はどうするのよ!!」
あまりの剣幕に僕は唖然とする。
しかし、すぐに我に返った。彼女は妊娠しているのだ。興奮させては、お腹にいる子供に悪い影響が出るかもしれない。
「ごめん……ごめん。ローラ。落ち着いて」
「私、あなたの子を身ごもっているのよ!? お金がなければ、この子を育てることだってできないわ!」
「お金は……どうにかするよ」
「あなたがどうにかするのは、当たり前のことよ! 早く何とかしてちょうだい!!」
ローラも子爵家を勘当されていた。
そして、彼女は一文無しだった。
まずは住むところを確保しなくてはならない。ローラのお腹には子供がいるのだから。その子のためにも、野宿だけは避けたかった。
僕は街に行って、家を借りた。手持ちの金で借りられたのは、古くて汚くて狭い部屋だけだった。
そのことにもローラは文句をつけた。
「何よ、この部屋! まるで奴隷が住むような家じゃない! こんなのいやよ、いや! 汚い!!」
「ごめん。……ごめんね。ローラ。ほら、僕の上着を使って。お腹を温めるんだ」
「いらないわよ、あんたの服なんて! 私が欲しいのは清潔なベッドと、あったかい毛布なの!!」
ローラは怒る。
子供のことが心配で、僕はハラハラしていた。
その日の晩、僕はずっとローラのことを宥めていた。
次の日から僕は仕事を探し始めた。
ローラには元気な子を産んでもらいたい。だから、彼女を働かせるわけにはいかない。
ゆっくり休んでねと伝えると、ローラは「こんな汚い部屋じゃ、ゆっくりもできないわよ!!」とまた怒っていた。
仕事を探すのはとても大変なことだった。
僕は街中を駆けずり回って、ようやく食堂の皿洗いの仕事を見つけた。
次の日から働くことが決まって、家へと帰る。
そして、仰天した。
粗末な家、狭い室内――それに不釣り合いなベッドが置いてあったのだ。
「ローラ!? これはどうしたんだ!!」
「あ、アベル♪ どう、素敵でしょう? あなたが持っていたお金で買ってきたのよ♪」
僕は脱力して、その場にへたりこんだ。
大事なお金が……。
あのお金でしばらく過ごさなくてはいけなかったのに……。
僕は彼女に文句を言おうと思った。
でも、言えなかった。
ローラは満足そうな様子でベッドに横たわっている。
彼女のお腹にいる子供のことを考えた。
……妊婦には、体を休める場所が必要だ。その方が赤ちゃんにとっても、いいにちがいない。
ローラは1人でベッドを占領していた。
だから、僕は固い床の上で、上着にくるまって眠った。
次の日、僕は寝坊した。
伯爵家にいた時は、いつも侍女が僕のことを起こしてくれた。
だから、自分で早起きする習慣がなかったのだ。
そのせいで、僕は仕事に大遅刻した。
「この、馬鹿野郎ッ!!」
食堂の主人は僕の顔を見るなり、殴りかかってきた。僕は地面へと倒れて、目を白黒させる。
今起きたことが信じられなかった。
食堂の主人はたくましい体付きの、野暮ったらしい男だった。
――何をする!!
僕は伯爵家の人間だぞ! 平民の男が、この僕に手を上げるなど!
「初日から遅刻するような無能はいらん! お前はクビだ!」
男はそう言って、食堂へと入っていった。
何を偉そうに! こんな奴がいるところで働いていられるか! こっちの方から願い下げだ!!
僕が倒れていると、1人の女が寄ってきた。
うわ……何て見るに堪えない女なんだ。
その顔を見て、僕は吐き気がした。美しいローラとは大違いだ。
髪はぼさぼさで、三つ編みにしている。目鼻立ちはパッとしない。その上、とろそうな面持ちをしている。
「あの…………大丈夫、ですか……?」
女が伸ばしてきた手を、僕は振り払った。
汚い女が、僕に触るんじゃない!
その後、僕は一日中、仕事を探し回った。
でも、他の仕事は見つからなかった。
家に帰ると、ローラがケーキを食べていた。今の僕らが買うには高級すぎるお菓子だ。
「甘いものが食べたくなっちゃったの♪」
僕は何も言えなかった。
彼女が食べ残したわずかなクリームを腹に収めて、僕は床の上で眠った。
それから数日が経った。
仕事は見つからなかった。
手持ち資金が底をついた。僕は2日、何も食べていなかった。僕の食べるものはすべてローラに与えた。妊婦が食べるものは、赤ちゃんの栄養になる。だから、ローラのことだけは飢えさせるわけにはいかなかった。
気が付けば、僕はまたあの食堂の前へとやって来ていた。
店じまいの時間だ。食堂の主人が外へと出て、看板を下げている。僕に気付くと、険しい顔になった。
「そこに突っ立っていられると、迷惑だ。さっさと帰れ」
不愛想に告げて、店の中へと戻ろうとする。
「…………せて、ください……」
「ああ?」
「ここで……働かせてください……」
僕は地面に頭をこすりつける。
くそ、どうして伯爵家の僕が、平民相手にこんなことを……!
でも、お金が欲しかった。ローラのお腹にいる赤ちゃんを死なせたくはなかった。
だから、僕は必死で頼みこんだ。
「お願いします……! ここで働かせてください!」
「はあ? テメーはクビだって言っただろうが」
「お願いします……。妻のお腹には……赤ちゃんがいるんです……」
「………………」
その時、店の中から女が飛び出してきた。
先日、僕に声をかけてきた、地味な女だ。
「お父さん! ここで働いてもらおうよ。いいじゃない。ね?」
彼女は……ここの娘さんだったのか。
男は顔をしかめて、黙りこむ。
そして、ぶっきらぼうに言い放った。
「明日は朝5時に来い。……今度は遅刻するなよ」
「っ! ありがとうございます!!」
僕は嬉しくて、地面に頭をこすりつけた。
「おい。お前、こっちに来い」
「え……?」
男に呼ばれて、店の中に入る。
すると、男はスープを持ってきた。それを僕の前に置く。
「食いな。店の残りもんだがな」
肉もウインナーも入っていない。
野菜の切れはしが浮かんだ、薄い色のスープだ。
以前の僕なら、こんな粗末な物は口にしなかっただろう。だが、お腹をすかせている今、それは何よりもご馳走に見えた。
一口食べると、じんわりとした優しさが舌に染みる。
今まで食べたどんな料理よりも美味しかった。
僕は泣きながらそれを食べた。
顔を上げると、娘さんと目が合った。娘さんは優しく僕に笑いかけてくれた。
食堂の主人はラーゴさん。娘さんはエマさんといった。
ラーゴさんは「奥さんに食わせてやりな」と残り物のパンを僕に持たせてくれた。
ローラはそれを一口も食べなかった。「えー。やだあ。まずそう!」と馬鹿にしたように笑うだけだった。
次の日から、僕は食堂で働いた。
僕は本当に役立たずだった。そのことを嫌というほどに痛感した。
お皿を何枚も割ったし、掃除だってまともにできない。
それでもラーゴさんは厳しく、エマさんは優しく僕に仕事を教えてくれた。
生活は苦しかった。僕が必死に稼いだお金を、ローラは考えなしに使った。そして、いつも「足りない!!」と文句を言っていた。
「これじゃあ、生まれてくる子のための育児用品が買えないわ」と言われて、僕は悩んだ。
そのことをエマさんに相談すると、彼女は薬草について教えてくれた。野生に生えている薬草をつめば、わずかながらお金になるらしい。
エマさんが見分け方を教えてくれた。
昼間は食堂で働き、夜になると薬草を探しに行った。
食べる物だけは、どうにか困らなかった。ラーゴさんが毎日のようにお店の残り物をわけてくれるからだ。
でも、ローラは食堂の残り物を嫌って、既製品しか口にしなかった。「残り物なんてまずそうなもの、食べられないわ」と言っていた。
数カ月が経ち――ようやく僕が仕事に慣れた頃。
ローラが赤ちゃんを産んだ。
小さな小さな命。元気な産声。
その姿を見て、僕は泣きそうになった。というか、少し泣いた。
ローラは「えー。赤ちゃんって、しわくちゃなのね!!」と不満そうに言った。
赤ちゃんは女の子だった。
名前はヘーゼルナッツになった。ローラが勝手に名付けていた。
赤ちゃんの名前を聞くと、周りの人たちは苦笑いした。
僕はその子のことをヘーゼルと呼ぶことにした。
僕はなおさら毎日、がむしゃらに働くようになった。ラーゴさんに頼みこんで、雑用だけでなく、料理も教えてもらうことになった。
料理や雑用は、ずっと使用人がやるものと思っていたから、自分でやったことなんてない。初めは卵もまともに割れなかった。初めて焼いたオムレツは卵の殻入りで、ぐちゃぐちゃになってしまった。
それでも、エマさんはそれを食べて、「美味しい」と笑ってくれた。
その頃、仕事から帰ると、ローラはまったく出迎えてくれなくなっていた。
ベッドで寝てばかりいる。
「あー」
床に敷いた布団の上で、ヘーゼルが転がっている。
僕の給料では、ベビーベッドを買ってあげることができなかった。いや……僕が稼ぐお金は、ローラがすぐに使ってしまう。
初めは「育児用品を買うため」と言っていたのに……。
彼女の物ばかりが、家の中に増えていく。
「ただいま、ヘーゼル」
どんなにくたくたに疲れていようとも、ヘーゼルを抱っこすると、その疲れはすぐに吹っ飛んだ。
「だぃだぁー」
ヘーゼルがそう言いながら、僕の頬をぺちぺちと叩く。
何が楽しいのか、けらけらと笑った。まるで天使が奏でる楽器のような、幸せの詰まった音だった。
料理の腕をもっと上達させたい――。
ラーゴさんにそう言ったら、「まずは自分の味覚を鍛えることだ」と言われた。
そして、港町のレストランを紹介された。そこはラーゴさんおすすめのお店だそうだ。
そこに行って、本物の料理の味を学んで来いと言われた。
港町は、行って帰るのに3日かかる。
「いいか。これは遊びじゃなくて、れっきとした仕事だからな。ちゃんと学んで来いよ」
ラーゴさんは怖い顔で言って、移動費と宿泊費を渡してくれた。
……多めの額だ。
僕が不思議に思っていると、エマさんが後からこっそり教えてくれた。
「アベルさん、ずっと休みなしで働いていますよね。たまには奥さんとヘーゼルちゃんと一緒に旅行して、息抜きをして来いってことですよ」
その気持ちに、僕の胸はじんわりと温かくなった。
「私、行かない!」
ローラは開口一番、そう言った。
「旅行って聞いたから期待してたのに、港町ってあの田舎でしょ~? そんなしょぼい旅行、絶対、いやよ」
「いや、でも……ラーゴさんは君とヘーゼルの分の旅費もくれたんだ」
「そうなの?」
ローラは途端に機嫌をよくして、手を差し出してきた。
「ちょうだい」
「え!?」
「私とヘーゼルナッツの分の旅費よ! 旅行なんて行きたくないけど、それだとお金がもったいないでしょ? その分を私が使ってあげるわ」
「………………」
僕は頭が痛くなった。
「だぃや~~」
ヘーゼルがそう言いながら、床を転がっている。
僕は彼女を抱っこした。
「きゃー!」
ヘーゼルはいつものように僕の頬を叩く。虚しい思いを書き換えようと、僕はヘーゼルを抱きしめた。赤ちゃんのほんのりと甘い匂いがした。
迷ったけれど、ラーゴさんの善意を無駄にするわけにはいかない。
港町には、僕1人で行くことにした。
「本当に、君1人で大丈夫?」
僕は心配だった。
最近のローラは仕事から帰ると、寝てばかりいる。だから、夜、ヘーゼルの面倒を見ているのは僕だった。
「大丈夫よ! 行ってらっしゃい」
僕の視線はローラではなく、彼女が抱っこしているヘーゼルに吸い寄せられていた。
「あーうー」
ヘーゼルが僕の顔を見て、そう言った。
その瞬間、僕は笑顔になった。
港町に向かう馬車の中で、僕は考えこんでいた。
ずっと忙しくて、物思いにふける暇もなかった。だから、降って湧いた退屈な時間は、僕に多くのことを考えさせた。
前の婚約者のことを考える。
……カトリーヌは今、どうしているだろうか。
今になってみれば、彼女のすごさがわかる。物を作ること……その才能がある彼女が、どれだけすごい存在であったのかということが。
僕はオムレツ1つだって、まともに作り出すことができない。
でも、カトリーヌはたった1人で……誰に教わることもせずに、様々な魔導具を作り出していた。そして、それが評価されていた。
彼女は本当に頭がいい女性なのだろう。僕が婚約破棄を告げた時も感情的にならず、冷静に問いただしていた。あれがローラだったら、ああはならない。ローラはすぐに感情的になるし、自分の正当性を主張するばかりで、こちらの話なんてろくに聞いてくれない。
きっと……僕のような馬鹿な男と別れて、カトリーヌはせいせいしたことだろう。そして、その方が彼女のためにもなった。
風の噂で、彼女が公爵家に嫁いだと聞いた。
カトリーヌが今頃、幸せになっていればいいと……僕は考えていた。
(……僕は今……幸せなんだろうか……)
自分の家族のことを思い出した。
ヘーゼルは最近、僕の顔を見て笑ってくれるようになった。
『あーうー』
別れ際も……僕の顔を見て、ヘーゼルは少しだけ笑ってくれた。
――無性にヘーゼルに会いたくなった。
港町への旅は、いい経験になった。レストランの主人はラーゴさんの友人だった。紹介状を見せると、特別に料理を振る舞ってくれた。その夜には、オムレツを上手に焼くコツも教えてくれた。
(ヘーゼルが大きくなったら、このオムレツを焼いてあげよう)
僕はそんなことを考えながら、帰路についていた。
早く……早くヘーゼルに会いたい。あの声を聞きたい。あの笑顔を見たい。
自然と早足になる。
「ただいま! ヘーゼル! ローラ」
僕はいい気分で、家の扉を開けた。
家の中はしーんとしていた。ベッドではいつものようにローラが寝ている。
でも……ヘーゼルの姿がない。
「ヘーゼル!? ヘーゼル!」
僕の家は狭い。赤ん坊が隠れられる場所なんてない。
僕は半狂乱になりながら、彼女の姿を探した。
「んー……もう、うるさいわねえ」
文句を言いながら、ローラが起き上がる。
僕は彼女に詰め寄った。
「ローラ! ヘーゼルが……! ヘーゼルがどこにもいないんだ!!」
「え? ああ、ヘーゼルナッツならここにはいないわよ」
彼女が当然のように言ったので、僕は愕然とする。
「じゃあ、どこにいるんだ!?」
「ちょっと、痛い! 何よ、そんなに必死になって! そんなに大騒ぎすることないじゃない! 赤ちゃんを人に預けただけで……」
「預けただって!? いったい誰に?」
「だから、うるさい! そんな大声を出さないで! ヘーゼルナッツは今、おねえさまが面倒を見てくれているのよ!」
――僕は青ざめた。
なぜよりにもよって、カトリーヌなのだろう。
ローラは姉の婚約者を奪った立場だ。普通なら会わせる顔なんてないはずなのに。そんな相手に託児をしようだなんて! 神経がおかしいとしか思えない。
もしカトリーヌが僕らのことを恨んでいたら……ヘーゼルは絶好の復讐相手になるんじゃないのか……。
もし、ヘーゼルが傷付けられていたら。ろくに世話をしてもらえていなかったら。
ヘーゼルの泣き顔が僕の脳裏に浮かぶ。すると、しぼられるように心臓が苦しくなった。
嫌だ……! もしカトリーヌが僕のことを恨んでいるなら、その罰は僕がいくらでも受けるから……。だから、ヘーゼルは……ヘーゼルのことだけは傷付けないでほしい……。
どうか無事でいてくれと祈りながら、僕はローラを引きずって、公爵家へと向かった。
「ヘーゼル! うちのヘーゼルはどこにいるんだ!!」
使用人が屋敷の中に案内してくれる。僕は半狂乱になって叫んでいた。ヘーゼルの無事を祈るばかりで、礼儀をとりつくろうこともできなかった。
奥の豪華な階段から、カトリーヌと公爵が降りてくる。
僕は彼女がヘーゼルを抱っこしていることに気付いた。
急いで駆け寄ると、カトリーヌは眉をひそめて、ヘーゼルを抱えこむ。
公爵が彼女を守るように、立ちはだかった。
「私の妻にそれ以上、近付くな」
そこで初めて、僕は公爵の姿をちゃんと見た。
とんでもない男前だ。それに屈強そうで、堂々としていて……。男の僕から見てもかっこいい人だった。
……僕なんかとは比べ物にならない。
僕は思わず、後ずさる。
その時、カトリーヌの腕の中にいるヘーゼルと目があった。
胸がきゅっと苦しくなって……居てもたっても居られなくなった。
僕は必死で頭を床に押し付けた。
「この度は……うちのローラが、大変なご迷惑をおかけしました……。公爵様に娘を保護していただいたこと……その寛大なお心に深く感謝いたします……」
ローラが不満そうに後ろで喚き出す。
「ちょっと、アベルったら! どうしてあなたが頭を下げてるの!? 私はおねえさまにも、育児のすばらしさを味わわせてあげようと思っただけで……」
「黙れ!」
僕の一番はヘーゼルだ。
僕はそのことに初めて気が付いた。
思い返してみれば……僕の原動力はずっとそれだった。
ヘーゼルがローラのお腹の中にいた頃から、僕は“彼女のために”必死で働いていた。いつの間にか、僕の視界にはローラのことが入らなくなっていた。
――生まれてくる赤ちゃんのために。
――可愛いこの子のために。
そのために僕はこれまで頑張ってきたんだ。それを台無しにしようとしたローラのことが、途端に憎く思えた。
その後の僕はきっと、周りから見れば、みじめで哀れな男だったにちがいない。
ひたすらに頭を床に押し付けて、カトリーヌと公爵に謝罪して、懇願した。ヘーゼルをまたこの腕に抱っこできるなら……僕は何だってする。
そんな僕のことを哀れに思ったのか……カトリーヌは許してくれた。
「この子……ずっと親を探して、泣いていたのよ」
そう言って、ヘーゼルを僕の腕に戻してくれた。
――その瞬間、僕にはカトリーヌが女神のように思えた。
こんなに素晴らしい女性を邪険に扱って、彼女との婚約を破棄してしまったなんて……僕は何て馬鹿だったのだろう。
どれだけ悔やんでも、もう時を戻すことはできない。
それに今の僕の腕にはたった1つだけ、残っているものがある。
それはこの子だ。
ヘーゼルは僕の顔をじっと見ている。そして、にこっと笑った。その瞬間、僕の心は切ないほどに苦しくなった。
「ヘーゼル……! すまない……すまない……っ」
泣きながらヘーゼルを抱きしめて、崩れ落ちる。
公爵がカトリーヌのことを気遣って、彼女の腰を優しく抱いている。彼ならきっとカトリーヌのことを大事にして、幸せにしてくれるにちがいない。
過去の僕は、本当に馬鹿なことをしてしまったけれど。
それでも、今の僕は思う。
――カトリーヌが今後、幸せになれますようにと。
その後、僕はローラと離縁した。
ローラはそれをあっさりと呑んだ。
「いいわよ! あんたみたいな貧乏で情けない男、いらないから! 私にはもっと釣り合う男がいるんだから!」
そう息巻いて、ローラは家を出て行った。
近所の人からの情報で、ローラがよく男を家に連れこんでいたと聞いた。
夜、彼女が眠そうにしていたのは、そういうわけだったのか……。
そのことに気付かなかった僕は、本当に愚かだった。
ローラがヘーゼルの親権を欲しがらなくて、ホッとした。
僕にはこの子がいてくれれば、それでいい。
それから1か月後――。
仕事終わりに、僕はエマさんに裏口へと呼び出されていた。
「あの……実は、いつも一生懸命に働くアベルさんのことが素敵だなって思っていて……。それで、す、好きです……!」
彼女は顔を真っ赤にして言った。
僕は驚いた。
そして……心から申し訳なく思った。
「ありがとう、エマさん。その気持ちは嬉しいです。でも、エマさんのことは良き同僚だと思っています。だから……これからも同僚として、よろしくお願いします」
そう答えた時、僕の心臓はきりきりと痛かった。
エマさんは泣き出した。
「ごめんなさい……! アベルさんは、奥様と別れたばかりなのに……私、こんな……傷心につけこむようなことをして……」
涙を零しながら、彼女はその場を去る。
その背中を見つめながら……僕もまた、泣き出したかった。
働いたことがない僕が仕事をするのは、本当に大変だった。
でも、そんな僕の支えになってくれていたのが……エマさんだった。
エマさんはいつも僕に優しかった。僕がミスをしても、嫌な顔をせずにフォローしてくれた。何にもできない僕に、根気よく仕事を教えてくれた。
初めて見た時は、地味な娘だと思った。
でも、いつからだろう。
『アベルさん』
彼女が笑いかけてくれると、僕の心はぽっと温かくなった。
エマさん……ごめんなさい。
嘘をつきました。
僕も本当は……あなたのことが好きでした。
でも、僕はもう昔のような過ちを犯したくはなかった。
昔の僕は移り気だった。
そのせいで婚約者を大切にすることができずに、大きな間違いを犯した。
僕は情けなくて、馬鹿で、不器用な男だ。
大切なものは1つだけでいい。
そのたった1つを、大事にするだけでせいいっぱいだから。
――だから、あなたの気持ちには応えられません。
◇
それから5年後――。
ヘーゼルは5つになっていた。
僕が彼女をヘーゼルと呼ぶから、周りもそういう名前だと思っている。このまま「ヘーゼル」呼びが浸透してほしい。
仕事が終わって、ヘーゼルを迎えに行った。
僕が仕事をしている間、彼女のことは近所の人が面倒を見てくれている。
「パパ~!」
ヘーゼルが笑顔で駆けてくる。僕は彼女を抱き上げた。
近所の人にお礼を言って、帰路につく。
ヘーゼルと手をつなぎながら、夕焼け色の道を歩いた。
――風の噂で、ローラが大変なことになっていると聞いた。
どうやら彼女が付き合っていた男は、ろくでもない男だったらしい。
その男に騙されて、ローラは娼館でひどい働き方をさせられているのだという。
そこから逃げ出すこともできずに、困窮しているそうだ。
その話を聞いて、僕は同情するよりも先にホッとしてしまった。
ローラが今後、ヘーゼルに接触してくることがあれば困るから。
ろくでもない母親となんて、関わらない方がこの子のためだ。
道を歩いていると、エマさんとすれちがった。彼女は男の人と腕を組んで歩いていた。
そういえば、今日はデートするって言ってたな。
エマさんは幸せそうな笑顔を男に向けている。そんな姿を見て、僕の胸はちくりと痛んだ。
「ぱぱ……? どうしたの?」
ヘーゼルが不思議そうに僕を見上げる。
僕は彼女に向かって笑いかけた。
「何でもないよ。今日の夕飯はどうしようかなって考えていたんだ」
「私、オムレツがいい!」
「そうだね。それじゃあ、オムレツにしようか」
「やった~! 私、パパのオムレツ、だいすきっ!」
ヘーゼルがスキップをしながら、僕の手を引っ張る。
本当に大切にしたい、たった1つのもの――。
それを今後も見誤ることがないように、僕は小さな掌をぎゅっと握りしめた。
読んでくださって、ありがとうございます。
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