35. ご依頼の件について
「ああ、ルークか。……入れ」
騎士団長を辞すると決めたその夜。
謹慎中のジェイドを訪れた帰りに、トゥーリオ公爵に呼ばれて執務室に入ったルークは、いつもにも増して改まり、頭を下げた。
「デズモンド公爵夫人の様子はどうだ?」
「……相変わらず反対のようですが、これについてはどうしてもと義父が譲らず、少しずつ引継ぎを受け、学んでいく予定です」
トゥーリオ公爵は、そうか、と一言だけ答え、ソファに座るルークを見ながら、執務机の前で姿勢を正した。
「今回の件では迷惑をかけた。あれほど組織立って動いていたのであれば、もっと早くに我らが動くべきだった」
「いえ、俺の判断ミスです。死人が出なかったのは、不幸中の幸いでした」
「それにしてもだ。詳細についてはすべて報告を受けたが……すまなかった」
頭を下げられ、ルークは恐縮する。
「だが、騎士団を辞する必要はあったのか? ……今からでも撤回できるようにしてやるぞ?」
トゥーリオ公爵の言葉に、自嘲気味にルークは微笑んだ。
「今回、自分の大事な人達と職務を天秤にかけ、俺は職務を優先しました」
「それは立場上、仕方のないことだろう」
その言葉に、ルークは静かに首を振る。
「そうであっても、です。今回ジェイドは動きました。彼のすべてを懸けて王太子を動かした」
あの『許可状』がなければ、エルドール伯爵邸に立ち入ることすら出来なかった。
「別邸の件についても、あいつのことだ、俺が許可しなくとも行っていたでしょう」
これは本来許されないことですが、と補足する。
立入り許可を得られるのであれば本邸だけでなく、エルドール伯爵の保有する不動産すべてについて、許可を得るべきだった。
だがあの状況でそこまで考える余裕はなかっただろうし、保有するすべての不動産を対象にした場合、さらに手続きに時間がかかったはずだ。
また、及ぼす影響も大きくなるため、王太子の独断で許可を得られなかった可能性もある。
……結果的には、最善だったのかもしれない。
「ジェイドに、別邸への立入り許可を出した際、一瞬職務を忘れました。本音を言うと、ジェイドが羨ましかった」
大事なものに、脇目も振らず走っていけるあの愚直さが。
「だが、そのジェイドも土壇場で選択を迫られました。暴漢に引き摺られ今にも手籠めにされそうな愛する人と、……燃え盛る火の中にいるかもしれない、家族のように大切な幼馴染」
目の前で起きている現実と、人づてに聞きもしかしたら誤っているかもしれない情報。
「誰しも前者を優先したくなる場面で、一瞬迷い、ジェイドは後者を選んだ」
ミリエッタ嬢がそれなりに、身を守れる術があることを知っていたとしても、実際に後者を選ぶのは容易ではない。
「彼なりに状況判断をし、最悪の事態を想定した結果、ティナに天秤を傾けた……そして、その判断は正しかった」
ミリエッタ自身が、ティナのほうに向かえと微笑み頷いたのだとしても。
ルークは、一度言葉を切り、自分の手の平を見つめる。
マメが潰れ固くなり、節くれだって剣ダコだらけ。
ガサついた傷だらけの手は、自分が積み重ねてきた努力への勲章。
「同じ状況に陥った時、ジェイドのように判断できるか、自問自答し……結果は、お察しのとおりです。冷静に状況判断をしろとあれだけ説教を垂れておきながら、俺は恐らく騎士団長という立場に縛られ、最後まで動けなかったに違いない……情けない限りです」
自分の愚かさに呆れます、とルークは呟いた。
「ジェイドがいなければ、何もできないまま、二人を失っていたかもしれない……責任をとるのは、自分自身への戒めです」
そこまで言うと、トゥーリオ公爵は、「そうか」と一言短く息をついた。
「分かった。無理矢理にでも手を回し、その職位を続けさせようとも考えたが、そういうことであればお前の選択を受け入れよう」
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「なに、気にすることはない。……それで、お前から依頼されていた件だが」
ルークは絶望的な顔で目を瞑り、膝元で強く拳を握った。
「ははは、そう畏まるな。……いいだろう、受けてやる」
ばっと勢いよく顔をあげ、トゥーリオ公爵を、にわかには信じ難いような顔をして見つめる。
「何を驚くことがある? ティナを娶りたいので、後押ししてくれと願ったのはお前自身だろう?」
やれやれと、子供を見るような目でルークを見遣る。
連れ子としてデズモンド公爵家に籍を得たルーク。
傍系の未亡人だった母は後妻に入る前、前公爵夫人とも交流があり、大層慕っていたという。
後妻に入ってからも、母の優先順位は一貫して、前公爵夫人の忘れ形見であるティナ。
デズモンド公爵からこれだけの恩を受け、さらにルークがティナを得て公爵家を継ぐなど、母にとってはあってはならないことだった。
そのような事になれば前公爵夫人に顔向けが出来ないと涙ながらに説得されたのは、いつのことだったか。
「丁度ジェイドがミリエッタ嬢に会い、元気にはなったものの迷走し始めた頃だったな。突然騎士を目指すと鍛え始め、お前の騎士団にジェイドを預ける事が決まった時、私はお前に条件を出した」
トゥーリオ公爵は思い出すように、天井を見上げる。
「ジェイドは愚直でいい男だが、如何せん精神的にはまだまだ未熟。騎士団に入ったとして、トゥーリオ公爵家の名を背負っていれば、いずれそれなりの役職に就き、大きな選択を迫られることもあるだろう。……それは十年後かもしれないし、明日かもしれない」
公爵家の名は重いな、と独り言ちた。
「ジェイドがこの先困らないよう、あらゆる場面で感情に縛られることなく、適切な状況判断ができるよう、あいつの教育をお前に一任した」
そして、その代わりに公爵夫人の説得と、お前がデズモンド公爵家を継ぐための後押しをする。
そんな話だったな、とトゥーリオ公爵に同意を求められ、ルークは頷いた。
「まだまだ合格には程遠いが、まぁ及第点だ。……協力してやる」
そういうとトゥーリオ公爵はルークの元へと歩み寄り、頭をぱしりと一叩きした。
「落ち込んでいる暇はないぞ。明日にでも動いてやる」
時間は有限だ、と悪戯っ子のように笑みを浮かべると、ルークは拳を握りしめたまま、深く深く頭を下げた。
もういいぞ、と言われ、再度頭を下げて退室しようとし――ふと、思い出したように言を発する。
「そういえば、王太子に進退を……己の身分すら懸けて『許可状』を得たと聞きましたが、もしエルドール伯爵家が白だった場合、ジェイドをどうされるおつもりでしたか?」
トゥーリオ公爵家が黙ってそれを受け入れるとは、到底思えない。
その質問に、にやりと笑ってトゥーリオ公爵は答えた。
「元々きな臭い噂のあったエルドール伯爵家。……白だった場合は、黒にすればいいだけの話だ」
驚いて目を瞠るルークへ、ゆっくりと含み聞かせるように言葉をかける。
「この先、綺麗ごとだけでやっていけると思うな。お前がこれから足を踏み入れるのは、そういう世界だ。……心して学べ」
もう、行っていい。
そう言うとトゥーリオ公爵は、ぱたりと執務室の扉を閉めた。