29. 誰が為に
※暴力的な表現や描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
温かい手が、撫でるように、優しく頬に触れた。
「ねぇ起きて、起きてミリエッタ」
微睡みの中、耳に届く優しい声に身動ぐと、ベッドの上だろうか――肌触りの良いフワフワの布が身体に触れる。
すぐ近くに人の気配を感じ、ほんの少し目を開けると、すぐ目の前に見慣れない顔が見えた。
「!?」
驚いて飛び起きようとするが、手足が縛られ身動きが取れず、恐怖で叫ぼうにも口元に布が噛まされ、声を上げることすら出来ない。
「ああ、ごめん。ちょっと苦しいかな?」
微笑むニースの視線の先には、同じく布を噛まされ、手足を縛られ、部屋の隅に転がされたティナの姿。
傍らには大きな男が一人、見張るように椅子に座っていた。
「喉が渇いた? ミリエッタが騒がないって誓うなら、水を飲ませてあげる」
騒ぐとティナが痛い目に遭うからね?
目を潤ませながらコクコクと上下に頭を振ると、ニースはぎしりと音を立てながら、ベッドに膝を突いた。
それからミリエッタの背の下に腕を差し入れ、上体を起こすと、グラスに水を注いでいく。
「小さい声でならしゃべっていいよ」
虚無的な笑みを浮かべながら、ミリエッタの噛ませ布を外し、なみなみと水が注がれたグラスを差し出した。
「……ありがとう、ございます」
なるべく刺激しないよう、小さな声で礼を言い、冷たい水で喉を潤す。
「あの、エルドール卿」
「ニース」
「……ニース様」
名前で呼ぶよう強要され、ミリエッタがその名前を呼ぶと、オークションの時と同じ、燃えるように熱を帯びた瞳を向けてくる。
「ああ、ミリエッタが名前を、僕の名前を!」
うわ言のように繰り返すニースの異様な姿に、椅子に座っていた見張りの男も顔を顰める。
二人の声で気付いたのか、部屋の隅でティナがもぞもぞと動きだし、瞼を開いた。
「ティナ様……ッ!」
身動きはとれないが元気そうな姿に安堵し、思わず声を上げてしまう。
慌ててニースに視線を向けると、ミリエッタの興味を奪われたことが許し難かったのか、舌打ちをしながらティナのほうに向き直ったため、これはまずいと、ミリエッタは小さく息を呑んだ。
「あ、あのっ、ニース様」
……万が一ティナに何かあったら、デズモンド公爵家に顔向けが出来ない。
「あの私、ニース様とこうして一緒に過ごせて、とても幸せです」
ティナのほうに行かせまいと必至で媚びを売ると、ニースはまたミリエッタのほうへ向き直る。
「ほんとう? ……ミリエッタ、それはほんとう?」
「は、はい、勿論です」
「そう……」
そのままブツブツと何事かを呟くと、ベッドの上に座るミリエッタの、太腿のすぐ横に手を突き、突然下から顔を覗き込んできた。
「ほんとうに?」
表情がごっそりと抜け落ちた顔が、ミリエッタの目に飛び込んでくる。
その狂気的な姿に、冷や汗が頬を伝った。
「……じゃあさぁ、僕を騙そうとしたのはなんでかなぁ?」
「!?」
「誘われて嬉しくて、でもほら、最近ジェイドだけじゃなくてルークも、ミリエッタの周りを蠅みたくウロついているでしょう」
「……」
「ミリエッタがルークと、僕の直営店で何を買ったのか気になって、全部調べたんだよ」
かなしくて、ひとばんじゅう、泣いちゃった。
下から覗き込むその瞳が濁り、異様な光を発する。
先程目が覚めた時と同じく、撫でるように、優しくミリエッタの頬に触れた。
「君が欲しくて、僕はずっとずっと待っていたのに」
きみが、おでかけするたびに。
つい、と指の腹を、ミリエッタの頬から唇に滑らせる。
「その度に、ジェイドに邪魔をされて……」
あいつ、まるでいぬのように、嗅ぎつけるんだ。
奪われる前に、力ずくで僕のモノにしようした時も邪魔をされて、腕を折られてしまったんだよ?
「……!?」
まさか知らないところで、ジェイドがずっと守ってくれていたとは露知らず、ミリエッタの顔が泣きそうに歪む。
「でも安心して。腕はもう治ったから、これで心置きなく君を抱ける」
滑らせた指先でミリエッタの唇をぷに、と突つくと、その柔らかさに驚き口端を歪ませ、下から掬い上げるように唇を寄せた。
え、――――?
逃げる事も出来ず、呆然とするミリエッタと唇が触れそうになったその瞬間、ティナが縛られた足を思いきり壁に打ち付ける。
ガコッと大きな音が鳴り、情欲に染まったニースと、怒りに燃えたティナの視線が交差する。
「ああ……そういえば、奥に使っていない小屋があったな」
まるで興味のない無機物を見るような目をしながら、見張りの男に指示を出した。
――――燃やせ、と。
***
エルドール伯爵邸に男達が雪崩れ込む。
許可状を叩きつけ、エルドール伯爵と使用人達を一部屋に集め、地下から屋根裏に至るまで、屋敷中を隈なく捜査する。
「おい、ニースはどこだ!?」
一向に見つからないミリエッタとティナに激高したジェイドが、エルドール伯爵の腹に蹴りを入れた。
「お前達がくだらん商売をしていたのは分かっているんだ! 死にたくなければ、早く言え」
「おい、ジェイドやめろ! まだ黒と決まったわけではない!」
ルークが止めに入ろうと腕を伸ばすが、ジェイドはパシリと払い、もう一度エルドール伯爵に蹴りを入れる。
「ぐっ……、べ、別館だ」
「……なに?」
「だから、あ、あいつの部屋は、東側の別館だ。本邸には、いない」
その言葉を受け、別館へ向かって走り出そうとしたジェイドの腕を、ルークは慌てて掴んだ。
「ジェイド、駄目だ。許可が下りているのは、本邸だけだ。別館には、入れない」
「離せ」
「駄目だ……馬鹿め、いい加減にしろ。これ以上は、本当にすべてを失うことになるぞ。……まずは本邸を調べるのが先だ」
だが、すぐそこに、いるかもしれないのに!
縋るような目で見つめてくるジェイドに、再度駄目だと首を振る。
「団長! ……ルーク騎士団長!!」
その時、外の植え込みを調べていたはずの隊士が、ルークに向かって叫んだ。
「東の方角から、火の手が!」
別館の……さらに奥だろうか?
黒い煤の混じった煙が、狼煙のように細く立ち上る。
腕を掴む手に力がこもり、ミシリと食い込んだ指に、ジェイドが顔を歪めた。
震える指先。
さぁっと血の気が引くのが自分でも分かる。
「これでも、お前は駄目だというのか……? ルーク、手を離せ」
土気色に震える唇で言葉を紡ぐジェイドの顔は、青白く、これ以上の邪魔は許さないとばかりに正面からルークを見据える。
ルークは眉間に皺を寄せ、ぐっと目を瞑ると、一瞬迷うように瞳を揺らし――ジェイドの腕からノロノロと指を離した。
「……行け。責任は俺が取る。……だが、許すのはお前だけだ」
ジェイドは無言で頷くと一階の窓から飛び降り、全速力で走り出す。
あっという間に見えなくなったその後ろ姿を見送ると、ルークは腕を組み、ふらりと壁にもたれながら自嘲気味にポツリと呟いた。
「くそっ……、馬鹿なのは、俺か」
***
見張りの男に引き摺られるようにして、縛られたままのティナが連れていかれる。
「ま、待ってニース様……お願いです。私はどうなっても良いので、ティナ様だけは無事にお返しください」
必死に懇願するが、何を言われているのか分からないとでも言うように、ニースは首を傾げた。
「うん? ミリエッタはアレが大事なの?」
「当たり前ではないですか! 大事な友達です!」
「ふぅん、そう……じゃあ、ぼくは?」
ぼくは、だいじ――――?
引き攣れた笑いに、ふらつく身体。
もはや目の焦点すら合っていないニースに、ミリエッタは震えながら微笑んだ。
「ええ……、ええ、勿論大事です。ずっと、お、お慕いしていました。……だから、あの子はいらないわ……さっさとデズモンドに送り返して、早く二人きりになりましょう」
その言葉に、驚いたようにポカンと口を開け、ニースは声を上げて笑い出す。
「あは、あはははははは! なぁんだ、それならもっと早く言ってくれれば良かったのに。いいぜぇ、ミリエッタ……これからはずっと二人でいよう」
ニースは楽しくてたまらないとでも言うように、ミリエッタの耳元に唇を寄せ、「でも、送り返すのは駄目だよ」と、耳底をさらうように、ねっとりと言葉を紡ぐ。
そのまま脚に手を触れようとして……足首が縛られていることを思い出し、「ああ、これは邪魔だな」と小さく呟いた。
ベッドサイドテーブルに置いてあった小さなナイフを手に取ると、足首の縄をザクリと切り、赤黒く付いた縄の痕を愛おしそうに指先でなぞる。
「あ、ほぅら、見て。煙が上がった! ……どう? 今日は空気が乾燥しているから、もう少ししたら火が噴き出るよ」
ふと窓を見遣り、ニースが楽しそうに口角を上げる。
ミリエッタのいる二階の窓から、煤交じりの煙が立ち上るのが見えた。
「あ、ああぁ……」
繋がれた手首はそのままに、自由になった足でベッドから降り、縺れる足でふらふらと、窓の方へ歩いていく。
危ないよ、とニースは優しく声を掛け、絶望に目を瞠るミリエッタの腕をそっと掴み、自分の胸元へと引き寄せる。
窓の外が涙でぼやけ、目の前が暗転しそうになった瞬間……目の端に何かが飛び込んできた。
「!」
ミリエッタは身体ごと捻ってニースの腕を振りほどくと、そのまま、飛び込むように窓に体当たりをする。
「ジェイド様……ッ!」
ガシャンと大きな音を立てて、窓ガラスが割れた。
鍵が閉まっているため窓は開かないが、叫べば割れたガラスの隙間から、声を通すことが出来る。
「奥の小屋です! ティナ様がッ……きゃぁぁ!」
早く! 早く行って下さい!
全速力で駆けていた足が止まり、驚きに目を瞠りながら、ミリエッタを見つめる。
伝えられた。
彼ならば、きっと助けてくれる。
次の瞬間、乱暴に腕を掴まれ、ニースに引き摺られるようにしながら、ベッドへと引き戻される。
逡巡し、一瞬身体の向きをこちらに変えたジェイドに、微笑み頷くと、彼は踵を返して、ティナのいる小屋のほうへと駆けて行った。
それで、いい。
……それで、充分だ。
自分の現状は、先程よりも一層絶望的なはずなのに、何故だろう身体中の血が沸騰するように熱い。
腕を引くのと同じ方向へ、勢いを付けて体当たりをすると、ニースが思わずふらりとよろけた。
反撃されたことに狼狽え、緩まったニースの手を振りほどく。
ミリエッタは縛られたまま手の指を固く組むと、顎目掛けて思い切り肘を付き上げた。
ガゴッと鈍い音を立てて、ニースの顔が上を向く。
次の瞬間、腕の力を使って振り子のように回転し、そのまま回し蹴りをお見舞いした。
部屋の隅まで吹っ飛んだニースが体勢を立て直す前に、ベッドサイドテーブルへと駆け寄り、ナイフを掴むと、急いで手首の縄を断ち切る。
「……ニース様、ご存知ですか? ゴードン伯爵家は皆、最低限の護身術を身に付けているのですよ?」
形勢逆転。
左手でくるりとナイフを回し、おもちゃのように玩びながら、ミリエッタはうっそりと微笑んだ。
***
少し離れたところに立っていた見張りの男が、ジェイドに向かって殴りかかってくるが、相手にもならない。
一撃でのすと、燃え上がる小屋の扉を蹴破り、飛び込んだ。
「ティナ!」
部屋の隅に、縛られたまま気絶するティナの姿。
抱きかかえ、転がるようにして小屋から飛び出した瞬間、ゴォッと音を立てて小屋の窓から炎が噴き出す。
ガラガラと崩れ落ちていく小屋を後ろ背に、ジェイドはティナを抱き上げる。
ハァハァと肩で息をつきながら、少しふらつき、元来た道を急いで戻って行った。