第1章 第1話 出発点
痴漢冤罪に遭った際には逃走するのが一番だという話を聞いたことがある。疑いを晴らすのは難しく、何もしていないと証明するには証拠が必要だからだそうだ。
そしてそれは事実だと思う。俺自身が現在その事態に直面しているからだ。いくらやっていないと叫び続けていても何の意味もない。何も知らない正義は知らぬまま悪になった俺に容赦なく襲いかかってくる。
「鍵裂龍夜! 殺人の容疑で逮捕する!」
痴漢も殺人も同じ。疑われたら、逃げるしかない。
「だから言ってんだろ……俺は誰も殺してない!」
「話なら署で聞かせてもらう」
何を言っても俺の周囲を取り囲む警察官は取り合ってくれない。わかっている。わかっているから、俺もまともに取り合わない。
「俺を追ってる暇があったらもっとちゃんと証拠探せ!」
近くにあったゴミ箱を警官の一人にぶつけ、空いた隙間から逃げ出す。
「待て! 逃げるな!」
「捕まえたいなら追いついてみせろよおっさん!」
後ろから絶叫が聞こえるが、どんどんその声は小さくなっていく。これでも陸上の長距離で高1から全国に出ているんだ。運動不足の年寄りに捕まるわけがない。ただ走るだけなら。
「クソ……!」
前からパトカーの赤色灯が見えたので建物の間から裏路地に入る。逃走を始めて1週間。厳戒態勢のせいで隣の市にも行けていないが、その分この辺りの地理は熟知している。
そう。1週間前のせいで俺はこんな目に遭っているんだ。正確には、2週間前の事件のせいだが。
2週間前、外周中。高1からレギュラーのせいでいじめられ、高2になっても友だちがいない俺が1人で駅前付近を走っていた時のこと。
「いいだろ? ちょっとくらい遊ぼうぜ」
「やめてください……放して!」
クラスの不良が、他校の女子1人をナンパしているのを発見した。
「おい、やめろよ」
「あ?」
普段なら見知らぬ女子のためにあんな連中に絡みにいくなんてしなかっただろうが、ランニングでテンションが上がっていた俺は、正義のヒーローみたいなことをしてしまった。
「鍵裂……誰に命令してるんだ?」
不良グループのボス、桂木拓哉が俺の胸ぐらを掴み、汗に驚いたのかすぐに手を離す。そしてターゲットが俺に移ったので手で女子に逃げるよう指示する。
「お前俺が誰だかわかってんだろうな」
「ぐっ」
容赦のない拳が腹にめり込む。知らない女子を助けたことを後悔するほどの痛み。
「お前やっぱむかつくわ。大会に出られないようにしてやるよ」
「……それは困る。俺には脚しかないんで……!」
「おい待ちやがれ!」
桂木が俺を路地裏に引き込もうとしたので慌てて逃げ出した。もう女子の姿は視界に映らない。ここらが退き時だ。
「明日覚えてろよ! 陸上オタクがぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
そう吠えていたが、翌日桂木は学校に来なかった。何者かに殺されていたからだ。
そしてそれから1週間後の早朝。朝のランニングに向かおうとした俺の家に、警察が現れた。
どうやら桂木殺人の容疑で俺を捕まえに来たようだ。両親と警察が話しているのを遠くで聞いた俺は、すぐに逃げ出す準備をした。
元々家族との折り合いは悪かった。陸上の推薦でほとんどタダで学校に通えているというのに、弁護士の両親は勉強ができない俺が気に食わないようだ。勉強のできる兄と弟だけを贔屓し、朝食も昼食も夕食も全て自分で用意する程度には家族から離れていた俺は疑わなかった。
「早く捕まえてください!」
母親の絶叫と共に、庭から逃走する。売りやがった。息子のことを信じることもせず、むしろ警察を後押しした。こういうことをする奴らだとはわかっていたが、実際にされてみると何か……くるものがあった。
だがそんなことを考えている余裕もない。警察から逃げ続けるのに必死だった。未成年だから顔や名前がニュースに流れることはないが、ネット社会の今そんなのはあってないようなものだ。そこかしこで俺の噂が流れている。殺人犯が逃走を続けていると。
俺にできることは一つだけ。警察が桂木殺しの真犯人を見つけるまで、逃げ続けること。そんな未来があるかはわからない。でも捕まったらそれこそ未来がない。だから逃げるんだ。未来を手にするために。生きるために。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
警察を振り切ったことを確認し、近くの公園の木の裏で腰を下ろす。2週間前のことも1週間前のことも気にするのはもうやめだ。俺に必要なのは今この現実だけ。どうやって逃げ続けるか。それだけだ。
もう1週間もまともな食事をとっていない。まだ春で半袖半パンでは夜がきつい。睡眠だって安心してとれたことはない。
足の速さで負けることはない。でもいい加減、体力が限界だ。廃棄の弁当や路地裏での数時間の睡眠……いつまでこんなことを続けなきゃいけないんだ。
「クソ……あの時助けてなんかいなければ……!」
足を止めていると、どうしても悔やんでしまう。警察の話を聞く限りでは、桂木が死んだのは俺が女子を助けた直後だそうだ。あの直後、付近の路地裏で刃物で刺された桂木が見つかった。だからその直前に桂木と話していた俺が容疑者になっている。
そう。あの時の女子を見捨てていれば、こんな目に遭うことはなかったんだ。見捨ててさえ、いれば……!
「見つけた……!」
「!」
木の裏でしゃがみ、下を向いて涙を流していた俺の腕が、何者かに掴まれる。いや、捕まれた。
「放せ……!」
慌てて顔を上げると、そこには女子がいた。綺麗な黒髪をサイドテールにした、女子高生。見覚えがある。このかわいい女の子を……。そうだ、あの時俺が助けた女子だ。
「お前のせいで……」
「あなたを助けに来ました!」
俺の恨みを遮り、女子は叫ぶ。
「あなたは誰も殺していない!」
俺の無実を知っている唯一の人は、俺の味方だった。
過去作「家族に虐待され学校でも虐められている俺がお嬢様を助けたら婚約者になって人生大逆転できました。」、「どうやら俺は浮気されているようなのでクラスメイトの人気女優と一緒に盛大に復讐してやることにした」の反省を活かした本作になります。
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