牛蠅と香油
ドインの港カタプラは、ドインの主要都市を結ぶ重要な港である。
大小の船が係留し、物資を買い付け、ドインの各地へ運んでいる。
ベルたちはドインの香料問屋『コルコタ商会』の店に向かっている。この商会はドインでも大手の商会で、父アーレフと少しだけ知り合いであった。
もちろん、知り合いというだけで今回の取引はうまくいうわけではない。何しろ、ベルには胡椒を買い付ける資金がないのだ。
カタプラの町は煙で覆われている。ほんのりと草をいぶした日向のような臭いであるが、煙を吸うと咳き込む。
「なんだ、この煙は……町中が煙の中に沈んだ感じじゃないか?」
視界も悪ければ、服や髪にまで臭いが染みつく。港はまだマシであったが、町の中は酷い。
「これは噂に聞く牛蠅避けですよ」
そうギョームが答える。但し、ギョーム自身も実際に見たことはない。
町のいたるところで草をいぶしているドイン人に聞くと、やはり牛蠅避けらしい。
牛蠅とはこの季節だけにドインの海岸地域に大量発生する昆虫で、人間や動物に吸血する害虫である。
厄介なのは牛蠅の雌は吸血した際に卵を産み付け、それが幼虫になると産み付けられた動物の肉を食うのだ。
それは耐えがたい激痛を寄生された動物に与える。人間ならそれを取り除ける治療があるが、食い破られたところは大きな傷になる。
そういえば港で働くドイン人を見たが、上半身裸で作業をしている男たちに丸い傷跡がいくつもあった。不思議だと思っていたが、牛蠅の仕業だったわけだ。
「これはレゴ草という虫除け効果があるという薬草だが、効き目がいまいちでね。煙が薄いと人間や家畜を襲う。それにこの煙を嫌うには嫌うが牛蠅を殺す効果はないのですよ」
ベルがドイン語で聞き取った情報はこんなところだ。港に置いてきた船員たちが心配になる。
ベルは一緒についてきたギョーム船長にレゴ草を購入するように命じた。船でそれをいぶさないと船員に被害が出る。
(そういえば……)
ベルはアウステルリッツ王国を出る時にシルヴィから香油の入った小瓶をもらった。
首からかけている皮ひもに付いている。小さな瓶だが中に油が入っている。シルヴィは害虫除けになると話していた。
未開地には恐ろしい病気があり、それを媒介するのが昆虫であることが知られている。看護師をしているシルヴィはそういった知識があった。
それで自分の領地で取れる薬草から抽出した香油には虫除け効果があるので、ベルにもたせてくれたのだ。
「これを塗っておこう。シャーリーも塗っておけよ」
服の上からは刺さないらしいから、肌を露出しないようにするのも対策であるが、牛蠅は服の隙間からでも入ってくる。
普段から露出の多い格好をしているシャーリーが被害にあわないとも限らない。
(その虫除け香油の効果があるとよいのですけれど)
クロコがそう言って飛んでいる牛蠅を見付けてにらんだ。煙の薄いところを飛んでいるのを見つけたのだ。
それは小さな虫で家の壁に無数にまとわりついている。これから身を守るのは至難の業だ。
起きている時は刺された時に対処すれば、まだ助かるが寝ている時にやられれば防ぎようがない。
「シルヴィの香油だ。効果大に決まっている」
そしてその言葉は現実となった。煙の合間を縫ってシャーリーズやベルに近寄った牛蠅はそのまま地面に落ちたのだ。
強力な殺虫効果である。これはすごいことだ。
(ありがとう、シルヴィ。これは僕にとって大いに助けになるよ)
ベルははるか彼方にある母国で待っている婚約者に感謝した。
そんなことをしながら移動していると、やがてコルコタ商会の建物の前に来た。
町と変わらず虫除けの煙が充満している。建物はこの町でも大手の商会だけあって、とても大きく豪奢だ。これだけ見てもこの商会の経済力が分かる。
(もっとも、それを示すことで信用を高める目的もあるけれど……)
ベルは気を引き締めた。苦労してここまで航海してきた。南方航路を見付けた成果は大きいが、今から始める交渉に失敗すれば意味がなくなる。




