新しい航路
「坊ちゃん、俺たち船乗りもバルカ人ではないから、いろんな差別を受けているから分かるが、コボルト族への同情だけでは商売回らないぞ」
船に戻り、再び海峡を抜ける航海を開始した時に船長のギョームがそう忠告した。
「船長、これは長期的視野に基づいた戦略だよ」
ベルは説明した。
この航海は成功する。南方航路を使ったドインとの貿易は莫大な富をもたらすだろう。
しかし、南方航路の秘密はやがて知れ渡る。そうなると競争相手が増える。もちろん、最初に航路を開いたベルが独占状態をつくるくらいに商売するが、それもいつまで続くか分からない。巨大な商会や国レベルが相手である。
新興の会社が戦うにはまだ力が足りない。そこでラプラタ海峡の通行料だ。これは今のところ、国際条約で認められた正式な権利だ。
ここに関わることで、将来的な収入源の確保と共にコボルト族の有力者と友好関係をつくるのが目的なのだ。
無事に海峡は通過することができたのだが、問題はここからだ。誰も航海したことのない南方への航路である。
南に進路を取ってから3週間ほどは、かつてギョームも行った経験があった。経験通り陸地はどこまで行っても切り立った崖が続き、船を寄港する場所がない。そして島さえもないのだ。
3週間もすると船乗りたちが恐れる赤死病が発生し始める頃だ。しかし、今のところ、体調の悪い船員はいない。ベルが持ち込んだザワークラウトを毎回の食事に出していることが成功したようだ。
このまま病気が発生せず、航海を続けられると思った矢先、2人の船員の体に異変が起きた。
2人とも歯ぐきから出血し、酷い疲労感で立てなくなったのだ。
「坊ちゃん、これは赤死病の初期症状だ。これが広がれば全滅する。引き返そう」
ギョームはそうベルに言った。船長として当然の判断である。
ベルは考えた。船員の健康診断をしたが、赤死病の兆候があるのはこの2人だけである。後の者はいたって健康である。もちろん、ベルもシャーリーズもギョーム船長もだ。
(おかしい……ザワークラウトにはビタミンCが残っているはずだ。量としては十分でないとは思うが、定期的に食べていたのなら発症は避けられたはず)
(ベル様、これはきっと2人の船員に原因があるはずですわ)
(ああ、僕もそう思う)
赤死病はビタミンCの長期欠乏が原因と考えられる。欠乏状態が1か月から数か月と患者の普段の栄養状態に左右される。
この2人は船に乗る前からビタミンCの欠乏状態にあったと思われる。
(しまった……。普段の船員の健康管理にも気を配るべきだった)
船員たちの普段の食事は、肉中心のハイカロリー料理ばかりだ。これに大量の酒を飲む。野菜や果物を定期的に食べる習慣がない。普段からビタミンC不足な状態なのだ。
「船長、引き返すことを決める前に他の船員の健康状態の確認と、赤死病の症状が出た2人の船員に聞き取り調査を行いたい。その結果を待って決めてはどうですか?」
ベルはそう提案した。ここで引き返されたらすべてを失う。復活することなく破産である。
健康診断は細部まで行われた。2人の船員以外は健康である。赤死病の兆候は今のところない。次にベルは二人の船員聴き取りをした。特に毎食のザワークラウトについてだ。
「申し訳ねえだ」
「すまねえ……」
ベッドに横たわった2人の船員は、最初は渋っていたが、自分たちが罹患している病気が赤死病だと知って、恐怖から白状し始めた。
2人ともザワークラウトが苦手で食べていなかったのだ。朝食に出たザワークラウトをこっそり海に捨てていたのだ。
もちろん、陸での食生活にも問題があった。二人は博打好きで普段からよく賭場に通っていたが、ここ最近は負け続きでやけ酒を飲んでいたのと、食事をするお金がなく、肉の薄いスープと固いパンのみの生活だったそうだ。
「やはりそうか……」
ベルは予想通りの結果に満足した。他の船員には影響はない。ベルは船長に調査結果を報告する。
「なんだと……あの酸っぱいキャベツを食べなかったのが原因だと?」
「加えて普段の食生活がここ1か月、最悪だったことです。今後、普段の食生活にも気を配る必要があります」
「うむ……」
船長はベルの報告に驚いた。確かにここまで3週間も航海をしてきたが、赤死病の兆候を訴える船員がほとんどいないことに感心していた。それがザワークラウトのおかげだというのだ。
「船長、船員たちに食事は必ず食べるように厳命してください」
「わかった。しかし、あれはあまりおいしくない。毎日となるとなかなか辛いと思うがな」
「辛かろうが、赤死病になれば死にます。死ぬのが嫌なら食べるしかないです。でも、今日からは定期的にライムジュースを提供することになります。赤死病を発症した船員もそれで回復するはずです」
ベルはそう言って、赤死病の2人に積み込んだライムジュースを毎日飲ませた。これにより、2人の病状が劇的に回復することになった。
港を出て1か月半が経過した。未だに上陸できる土地も島も見つからなかった。南の大陸沿いに船を移動させてきたが、ドインのある中央大陸はまだまだ先だと思われる。
陸路では片道半年かかる行程だ。海路でも相当な日数はかかると思っていたが、島一つ見つからない状況にベルは焦った。
(食料や水の補給をそろそろしないとまずい……)
食料と水は十分に積み込んだとはいえ、やはり1か月を超えると貯蔵したものも悪くなる。
特に水の質は深刻だ。煮沸して飲むよう厳命しているが、生で飲むと腹をこわす。
また食料もここまでくると、保存用の乾燥肉やビスケットが主体となる。食事が味気ないと船員の機嫌も悪くなる。みんなイライラしている。
「おーい、島が見えるぞ!」
帆柱の先にある見張り台から叫び声がした。
ベルもギョーム船長も双眼鏡で見張りが指さす方向を見る。小さく島影が見えてきた。
「ここまで来たのは我々が初めてです」
「ということは……未知の島か……」
ベテラン船長ギョームもマカロフ航海長も知らない島である。




