ペネロペはピアノが弾きたい
ペネロペは毎日、本を読んでいる。音楽に関する本だ。ピアノやヴァイオリンの演奏法、発声法の基礎理論等、学ぶことが山とあった。
ペネロペが入ったセントフォース音楽院は、音楽を学んできたエリートが集う学校である。どの生徒も基本的なことは十分できたうえで、自分の専門科目を中心に学びを深めている。
ペネロペには音楽の基礎技術がない。なにしろ、小さい頃に小さな歌劇団に所属する歌手の母に習った程度である。ピアノは弾けるどころか触ったことがない。オルガンは辛うじて弾ける。音符もなんとか読めるが、それも簡単なものだけである。
オーケストラが使うような譜面。複雑な旋律で構成されたピアノ協奏曲の譜面は理解できなかった。
自分が専門的に取り組もうと思っている声楽についてもそうだ。まず発声法から知らない。ボイストレーニングの基礎的な練習方法すら知らないのだ。
学校の授業は基礎が分かった上で進んでいる。真面目で努力家のペネロペでもこのハンディキャップは大きすぎた。
それでも何とかしようと図書館で本を借りて寝る間を惜しんで知識を吸収した。学校へ入る時にもらったアコーディオンを使って練習もした。
しかし、独学では限界がある。1か月後にはピアノを弾きながら歌を披露する課題があるが、ピアノの弾くことができない。
(どうしよう……困ったわ)
キャンパスのベンチに座り、ペネロペは頭を抱えた。大半の生徒は家にピアノがある。寮生は寮にあるピアノや学校のピアノを使えるが、使う時間が限られている。
それでも大半の寮生はその時間だけで十分であった。全員がピアノを弾く技量はもっているからだ。
(リットリオのおじさまに相談しようと思ったけれど……)
相談することは、何度も頭に過ったが経済的な援助だけで十分に世話になっているのに、こんなことを相談するのは気が引けた。学業の問題は、あくまでも自分の力で解決する問題だ。
「おや、また会ったね」
不意に聞いたことがある声にペネロペは顔を上げた。顔を上げる前から気分は良くない。声の主はあまり会いたくない人物だからだ。
「ベル……随分と暇そうね!」
ペネロペは即座に皮肉を言った。セントフォース音楽院は他の学校と同じ敷地内にある。普段はたくさんの学生がいるのでペネロペがベルと出会うことはあまりない。現にこの前会ったのは、マリアと一緒に歩いているとき。たまたま偶然会ったきりだ。
そんな状況だから、ベルがペネロペを見付けてわざわざ近づいてきたに違いない。それも同じベンチの隣に座っている。しかも足を組んで手はペネロペの肩の方に伸ばし、ベンチの背もたれにかかっている。馴れ馴れしい態度である。
「暇とは随分だな。君も暇そうにベンチで座っているじゃないか?」
呑気な口調にペネロペはイライラする。ちょとだけお尻をずらしてベルから離れる。人が見たらボーイフレンドと仲良く話しているように見えてしまう。
「暇じゃないわ。こっちは来週のピアノの試験で頭がいっぱいなの|」
「ふ~ん。ピアノね。ピアノの試験練習ならピアノのあるところにいかないと練習にならないのでは?」
至極当然なことを言うベル。それがまた馬鹿にしたような口調でペネロペは頭に血が上る。そんなことは分かっている。ピアノが使える部屋は既に予約しているが、毎日は使えない。2日に1度使えればよい方だ。そして使える時間は40分ほど。終わりも午後5時で終了。これでは練習は十分にできない。
音楽院に通う生徒は家に立派なピアノがあるのが当然で、家から離れて下宿している生徒や寮生が使うだけなのである。
そんなことを説明しても、大金持ちのベルには全く理解できないだろうし、不愉快な反応をされるだけだとペネロペは思い、説明することを止めた。
「それができない理由をあなたは思いもよらないのでしょうね」
少し悲し気にペネロペは呟いた。
「僕には関係ない話だね」
ベルはわざと冷たい感じでそう言った。ペネロペはキッと視線を上げてにらむ。ますますベルのことが嫌いになったようだ。
「そうよ、あなたには関係ないわ。関係ないから隣に座らないでくれる。そして話しかけないで!」
「おお~っ。怖い……。君はいつも僕に対してツンツンしているけど、それじゃあ可愛い顔が台無しだよ」
「あなたに可愛いとか言われても少しもうれしくない。むしろ不愉快」
ペネロペは眉をひそめてそう言い放つ。しかしベルは全然気にしていない。
「僕は関係ないけど、君がいつも褒めたたえる(リットリオのおじさん)に相談すればいいんじゃない?」
「そんなことはお願いできない。これは私の問題なの。基礎能力がないのは私の責任。自分で何とかする」
「とか言っても、どうすることもできないのだから、このベンチで困った顔で座っているんじゃないか。まあ、きっとそのリットリオのおじさんは君の窮状を知って何か手を差し伸べてくれるんじゃないか?」
「はあ……。あなた、馬鹿ですか。おじさまはそんなに暇じゃないです」
「でも、いつも君を見ているとか言っているんだろう……そのおっさん。まるでストーカーみたいだな。ロリコンおっさん」
バチッ! すごい音がした。ペネロペがベルの頬をぶったのだ。そしてベンチから立ち上がった。
「あなたのようなクズにリットリオのおじさまを侮辱させないわ。消えなさい。今すぐ。できないなら私が消えます」
ベルは座ったまま両手を広げた。自分は動くつもりはないというジェスチャーだ。それを見てペネロペはくるりと踵を返すと歩き始めた。後姿は怒りで満ちたように強張り、そして頭からは湯気が出ているかのようだ。
(ベル様はペネロペを怒らせることにかけては天才ですわね。今ので黒星が2つになりましたですわ)
隠れて見ていたクロコが飛んできてそう言った。クロコにはベルに関わる異性の好感度が見えるのだ。
「今日の平手打ちは効いたなあ……」
ベルの頬は赤く手形が付いている。女子にエロいことをしようとして叩かれたみたいな跡だ。
(ベル様もシャーリーみたいにも虐げられると好感度をもつタイプですわね)
「そんなわけない」
ベルは右手の親指と人差し指を丸めて、飛んでいるクロコをパチンと弾いた。クロコを回しながら墜落する。
「まあ、彼女の悩みは前から知っているけれどね」
(またリットリオのおじさんごっこですわね。なんやかんや言っても、あの子に優しいですわね)
「優しいわけがないよ。あくまでもこれは投資だ」
(投資ですわね……。あまりのめり込むと今度お見合いするお姫様の手前、言い訳できないですわ)
「……そうだ。ああ~早く、シルヴィに会いたいなあ……」
ベルは急に我に返った。今度お見合いをするシルヴィア・ダヤンとは早く会いたくて仕方がないのだ。
それでもベルはベンジャミンを呼んでペネロペに対する支援策をいろいろと指示をした。ベンジャミンは頷くとすぐに行動に移ったのであった。




