赤の新宿
「ゾンビ物の映画でよくある演出でさ……」
立町拓人と名乗る青年はそう言いながら無人のキヨスクに向かっていく。躊躇なく冷蔵庫からペットボトルのスポーツドリンクを取り出し、僕に投げてよこす。
「誰もいないレジに金をおいていくって演出。アレもう時代遅れな描写ね。現金は持ってないし、レジが動いてないから電子マネーも使えない」
「ハァハァ……」僕はまだ息が整わない。
「その手の演出って、ハァハァ、大抵最初の一回だけですけどね。最終シーズンまで払い続けてるキャラとか見たことない」
スポーツドリンクを一気に飲み干す。学ランまで汗が染みて気持ちが悪い。二十分程度だろうか、全力で走り続けていたのだ。……ニ十分も走っていたのか。思っていた以上に体力が持続したな。人間やろうと思えば能力以上の力を出せるものだ。
緊張感から解放され、急速に冷静になる。思考が再開する。風景が意味を成す。眼前に広がるのは誰もいない新宿の地下通路と東口改札口。普通であれば人の往来が途切れない場所。今はストアの照明や電子公告、電灯などの光は一切なく、光源の分からない薄赤い不気味な光が遠くまでの風景をつなげている。メガネに飛び散った汗を拭きとり、再度目を凝らすが印象は変わらない。
ああ、見た目だけではないな。風の揺らぎ、空調、人の動く音、普段は意識しないような小さな音すら聞こえない。世界の動いている音の一切が消えてなくなってしまった。
「今のアレ。赤い化け物。一体何だと思います?……いや、分からないことを承知で聞いてるんですけど」
静寂のせいか必要以上に声が通る。タテマチはペットボトルからお茶を口に含み、ん~とちょっと考える。
「さっぱりだね。足が蜘蛛みたいに生えてたのは分かったけど、逃げるのに必死でちゃんと見れなかったし。少なくともウィキペディアには載ってないだろうね」
立ち止まった状態で会話をするとよくわかる。タテマチはかなりデカい。ハタチ前後で大学生だろうか。僕が163センチ、タテマチは190センチくらいか。短髪茶髪とジャケットの原色に近い黄色が目立つ。こんな状況にでもならない限り、絶対会話しないだろうな。
「あいつ以外の怪物を見た?倉谷蓮太郎君。……レンって呼んでいい?その学ラン、中学生だよね?」
「……中二です。いいですよ。レンで」
グイグイ距離を縮めてくるな。性格も苦手なタイプだ。
「見てないです。世界が『こんな』状態になってからタテマチさんに会うまで、十分程度しか経ってなかったですし。持ってる情報はタテマチさんと同じくらいですよ。たぶん」
ふ~ん。と言うと、タテマチは周りを見渡す。
「俺とレンは運がかなりよかったのかもしれないな。すぐに人に会えたってこととか、逃げたルートとか」
「……運がよかったって。ハッキリいいますね」
「事実だからな。そうとしか言いようがない」
蜘蛛のように細い足が何本も生えた赤い怪物に僕とタテマチは追われていた。赤い怪物は明らかに僕らより移動速度が速く、体力切れも期待できそうになかった。新宿の地下街を蛇行することで何とか凌いでいたが、そのうちに行き場がなくなってしまう。流されるままに逃げた結果、JR西口の改札を通過。東口まで一直線に見通せる場所に来てしまった。怪物との距離は数十メートルあったものの、この一直線で追いつかれるのは容易に想像がついた。しかし、状況的に東口に向かって駆けるしか選択肢が残されていなかった。
そう、僕たちは運がよかった。
……その人は、運が最悪だった。
パニックになっていたのではないかと思う。聞き取れない何かを言いながらサラリーマンと思われる格好をしたその男は、赤い怪物と僕たちの直線上に飛び出し、そのままホームに向かう階段を駆け上っていった。結果、赤い怪物はその人物にターゲットを変え、ホームへの階段を昇って行った。
「戻って階段の様子を見たけど、化け物もサラリーマンもどちらもいなかった。……ホームからは戻ってこない限り、ここにたどり着くにはそこそこ距離があるはずだ」
「ええ。そうですね。でも、戻ってくるかもしれないし、怪物は1体じゃないかもしれない。迂回してまたこっちに来るかもしれない。逃げ場が限られる地下からはさっさと出てしまったほうがいいと思います」
「地上がどうなってるか分からないが……見通しの悪い地下にいるよりはマシか」
飲み干したペットボトルをゴミ箱に入れて、タテマチが階段へ向かう。……このゴミ箱の回収は誰がすることになるんだろう。僕もすぐ後ろを追いかける。
僕は、世界が『こんなこと』になる直前まで中央線に乗っていた。だから、外の様子は少しだけ分かっているんだ。この階段を上がれば分かることだし、急いで言う必要もない。伝えたところで何も変わらない。いや、外の様子について語れば、比喩として言わざるを得なくなる。
まるで「世界の終わりのようだ」と。