1.2気付けは5歳になっていました
月日が流れ、カノンさん――観音様もどきの女性を勝手に命名――にお願いされた世界に生まれて来て5年が経っていた。
5年と言っても、生まれてからの記憶がずっとあるわけではない。
記憶がたどれるのは3歳ぐらいからだ。
それまでは、霞がかかったようではっきりとは思い出せない。
家族に囲まれて暖かく過ごしてきたという漠然としたイメージのみが残っているだけだ。
そんな5歳の俺は、今、父さんの書庫で本を読んでいる。
文明が発展していない世界で本があるの? と思うだろうが、存在している。
――高価で貴重だが。
そんな貴重な本が、なぜ家にあるか、というと、もちろん訳がある。
それは――父さんが子供の頃から本好きで本が読みたくて、自力で勉強し国の官吏試験に合格し本がたくさんある場所に行くほど、本好きだったからだ。
そんな本好き父さん、王都で本漬けの生活を送っていたらしいのだが、結婚を機に訳あって地元に帰って来たそうだ。
現在は僻地だけど重要拠点となっているバーク属領の領主を任せられている。
それでも本好きは変わらず、高いお金を払って本を購入しているそうだ。
おかげで、家にいるだけで貴重な情報を手にできるのだから俺としては嬉しいところである。
そんな貴重な本を読んで知識を蓄えているのだけど、実は、一つだけ問題がある。
それは――俺が美女の膝の上に座らされている事だ。
それも、ただの美女ではない。
メリハリの利いた体に金髪金眼の優しい雰囲気の、それこそ地球では、まずお目にかかれないほどの美女にだ。
そんな美女の膝の上に座る俺には、常に美女の息遣いが聞こえてくる。
さらには――定期的に後ろから抱きしめられたりもするのだ。
おかげで頭の後ろに押し付けられる柔らかい感触とふんわりと漂う甘い匂いに呼んでいる本に全く集中できなくなる。
ちなみに、今がまさにその時だ。
「あのー、ラスティ先生、集中できないのですけど?」
俺は毎度のことと半分諦めながらも、一応文句は言う。とても恥ずかしいから。
だが抱きしめている当の本人は、全く意に介さない。
「あらアル君、ごめんなさい」
膝を貸してくれている美女ことラスティ先生、一応謝ってくれる。
だが、抱きしめることを止めてくれない。
その上、何故か頭も撫でてくる。こうなると本を読むどころではない。
こんな子供の勉強の邪魔をするラスティ先生、いったい何者かというと、実はこれでも我が家での立場が家庭教師だ。
何か間違っている気がするが。
ちなみにアルとは俺の名前だ。正式にはアル・クレイン。クレイン家の次男だが俺の名などどうでもいいので詳細は割愛する。
それよりも問題は、このラスティ先生のスキンシップだ。
これ、始まると中々止まらない。
俺としては本に集中できないので本当にやめてほしい。止めてほしいのだが、以前無理やりに止めた時、先生の機嫌がものすごく悪くなって余計に長いスキンシップとなったことがあったのだ。
それ以降、苦情は言うけど逆らわないことにした。
ラスティ先生の大きな胸に頭を挟まれ、もみくちゃにされる俺。
よそから見たら、年の離れた姉弟がじゃれあっていると言ったところだろう。
親子でも不思議では無い。怒られそうなので、言わないけど。
などと思いながら、そろそろかと声を掛ける。
「先生、そろそろよろしいでしょうか?」
「えー、もう終わりー? しょうがないなぁ。もっとアル君の黒髪、モフモフしたいけど許してあげる」
時間にして数分ぐらいだろうか?
時報のように定期的に行われるやり取りを終えたラスティ先生は俺から手を離してくれた。
確かに、手は離してはくれた。
離してはくれたのだが、膝の上からは下ろしてくれない。
根本的な問題解決には至ってはいなかった。
だが、手は止まった。それならもう一度本へと思うのだが、一度切れた集中力はなかなか戻らない。
本の文字を眺めながら、俺はなぜ膝の上に座って本を読むようになったかという経緯を思い出していた。
当然のことながら本を読み始めた数年前、3歳の俺の体はとても小さかった。
そんな小さな子が本を読むことを想定していない書庫には、大人用の机しか置いてなかったし、もちろん俺の体は机に対して小さすぎた。
おかげで俺は困っていた。困っていた、その時にラスティ先生は、何処からともなく現れ、膝を貸してくれたのだ。
――すごく助かった。
中身は大人なのに子供の遊びばかりで退屈していた俺、膝の上で夢中で本を読んだ。
その上、分からない現地の言葉もラスティ先生に聞けば直ぐに教えてくれた。
おかげで、たった2年で日本語と同じぐらいの言語能力を手にできた。
本当に感謝している。ラスティ先生、様様である。
けどもう5歳、少し背が伸びた。
一人で椅子に座っても、一応、机に届くまでになった。ギリだけど。
文字も完全に覚えた。だからラスティ先生が居なくても本が読める。
もう膝に座る必要はない。
今日こそは、そう伝えよう――と思いながら後ろを向く。
すると、にっこりとほほ笑むラスティ先生の顔が目に入り――
「しょうがないなぁ、はこっちのセリフだと思いますよ。それに、もう……、いや、本のここ、板ガラスについて詳しく教えてください。どこで作っているのですか? どうやって運んでくるのですか?」
また、別の言葉が出てきてしまった。
もう一人で読めます。の言葉を伝えることが出来なかった。
見た目は5歳でも中身は大人だから止めた方がいいと思うのだけど。止められなかった。
なぜだろう? やっぱり胸の感触が気持ちいいからだろうか? それとも先生の不機嫌な顔を見たくないからだろうか? まだまだ、柔らかい太ももの感触が忘れられないからだろうか?
俺の葛藤など全く気にすることなく、優しく質問に答えてくれるラスティ先生。
まだまだ離れられそうになかった。
「それじゃ、またねー」
ラスティ先生の仕事の時間を知らせる時報がきて、ようやく俺は解放された。
この話を聞き、先生の仕事、今までもしていたのでは? と思っただろうが実は違う。
ラスティ先生の本当の仕事は兄の家庭教師だ。
曰く。
「アル君の相手するのは、趣味? 興味?」
との事だ。意味不明である。
「何はともあれ、やっと一人の時間が来た。日課の考察に入れる」
虚空を見つめ、独り言ちる。
そして、俺は思考に沈んでいった。