星空の下で天文オタクから婚約破棄されたー!
遥彼方さまご主催の『冬のあしあと企画』参加作品です。
とんでもない男を好きになってしまったものだ。
趣味は天体観測。8月4日22時、私はシュラフに包まりソイツの隣に寝転がっている。
濃厚なバターが有名な県北の高原に風が吹き抜ける。満天の星が降ってきそう、なのは認めるが、証券会社のやり手営業職の私には、到底場違い。
「それで? どうなんだよ」
「何が?」
「おまえ、やる気あんのかよ?」
「だから、何の?」
やるってここでヤル気じゃないでしょうね?
婚約者は――そう、もう婚約して2年が過ぎている――私の横で体操座りだ。アオ○ンなの? シたくなっちゃったの?
男は自分の膝の間に顔を埋めてため息を吐いた。
「いいぜ、しなくても……」
20代後半の健全な男女が黙って並んで星を眺めるよりは、アオ何とかのほうがノーマルな気がしてくる。
私は上体を持ち上げて、芋虫のような自分の下半分を見た。
えっと、どうすればシやすい?
「見ろよ、あそこ、鯛釣り星、綺麗だぞ」
「タイツリボシ?」
「おまえ、広島人だろ? さそり座のS。知らねーのかよ」
「あのね、私はお星さま眺める暇なんてなかったの」
「結婚式だんどりする暇も無いのか?」
「へ?」
久々にふたりの目が合った気がした。
「普通そうだろ、女のほうがアレしたい、コレしたい、ドレスがどうとかホテルがとか言うもんだろ?」
「え、言ったじゃん、簡単でいいって。綺麗なお庭で人前式がいいなって」
「それだけだろ? 具体性の何もない」
「結婚!? 結婚しなくてもいいって言ったの?」
婚約破棄――――っ!?
「おまえは射手座、やるときゃさっさと決めて一人で突っ走る。おまえが動かんならその気がないんだろ」
ほ・し・ぞ・らの下の……ディス・エンゲージ……、古い歌が頭を巡る。
「そりゃ、射手座とさそり座の相性最悪だけどさ……」
それでも両想いになっちゃったねっていつも笑ってたじゃん?
言葉を飲み込んだら、元婚約者になりたての男がいつになく雄弁になった。
「ほらあそこに出てる。射手の矢が隣のさそり座狙ってる。おまえとオレは敵なんだぜ?」
わざわざ星になぞらえて振ってくれなくてもいい、言うこと言ったら車出してよ、帰るから。
「さそり座、S字型だろ、釣り針みたいだから鯛釣り星。心臓に光るのがアンタレス。さそりは敵が多い。射手もだし、オリオンもだ。その上、火星にケンカ売ってる」
「火星? に、ケンカ?」
オタク話と思いながらつい惹き込まれるから付き合うハメになったんだよね、しみじみ……。
「火星は軍神マーズ、またの名をアレス。さそりの主星アンタレスはアレスの敵とかアレスに似たものって意味。軍神としたらさそりの分際でいい気になるなよってとこだ」
声が沈んでる。
――婚約は解消してもまだ私、彼女なのかな? それってあり?
「そろそろ火星が上がってくる。見てな、東のほう。これ見せたくて今日誘ったんだから」
右手、西にさそり座、目の前に射手座、左手に黄色い光が見えた。
赤味を帯びて大きいアンタレスより、オレンジの存在感が半端ない。見えるはずのない瀬戸内の漁火であるかのように、星とは思えないほど明るく感じた。
「アイツに勝てると思うか?」
「アイツって火星のこと? 無理じゃない?」
「簡単に切り捨てるなよ。一応元彼だろ?」
口にされて落ち込む。もう彼氏でもない。元彼。私は婚約者も彼氏もいないアラサー女になったわけだ。
「さそり座は一点集中型で他人に合わせるのは苦手、なんだろ? おまえの好きな星占いじゃ」
「うん」
「射手座はあっち向いてちゃダメだと思わんか? 火星に矢を向けなきゃ」
「オレが火星にケンカ売るならおまえも加勢しろよ……」
おやじギャグだと突っ込もうとしたら、元彼はいつもの慣れた手つきでキスを奪った。横たえられて深くなる。
――ま、待ってよ、別れたんじゃないの、つい今しがた。
キスは寝袋よりも躰を熱くした。下腹がじんじんする。赤い星ひとつ中に宿したように。
「そう、これが原動力。来いよ、オレについてこいよ……」
キルティングの上からお腹を撫でられていただけだと思ったのに、恍惚としたみたいだ。
目を開けたら突如、ガラガラ石の転がった赤い砂漠に立っていた。風が砂を巻き上げ、長く開けてはいられない。
髪の毛が宙に舞って、メデューサの蛇みたいに踊る。
するとがしっと、強い腕に絡め取られた。
「柾?」
「ああ、オレだ、だいじょぶか? 息してるか? 見えてるか?」
「あ、うん……、なんとか」
この腕の中、安心なんだよねーっともぞもぞしてみた。柾の手もなんかごそごそ、私の世話を焼く。
世界に自分たちふたりっきりの感覚に浸る。悔しいけど柾の声は、静かで落ち着いていて、いつまでも聞いていたい。
「火星にはRSLって呼ばれる川の跡がある。火星の筋状構造、何かの流れ……、それは温かいと伸び、寒いと止まる。火星には水、強酸性らしいが、水が確かにある」
土砂崩れかと思った。丘の上からなぜか斜めにゆったりと、水らしきものが重たい腰を上げるように下りてくる。
「飲み込まれる!」怖くなってしがみついた。
「ねえ、どうしてここにいるの? 私たち、死んだの?」
「死んじゃいねーよ。オレの腕の中だろ?」
「あ、うん、そうだけど」
「ずうっと昔にな、太陽はもっと熱かったかもしれないって学説がある。地球は今の金星みたいに熱くて、火星のほうが生命体を育みやすかった」
「火星人、いたの?」
「ああ、いただろうよ。火星は水が循環する青き星だった。緑が生い茂って、春夏秋冬季節が巡った」
「今は赤いだけだよ?」
「太陽がな、安定期に入ったんだ。最初のうちは核融合が激しくて、火星くらい遠いほうがよかった。でも太陽が落ち着いてくると、火星まで届く光線は弱くなった。火星は次第に冷えていき、ある年、秋が来て、冬が来て、そのまま、春にならなかった。ずうっと冬になっちまったんだよ……」
「今は……火星は冬なの?」
「そうだな、長い長い冬。これから何十億年後、太陽が膨張を始めたらまた暖まるかもしれんが。その頃には水星や金星は蒸発してるかもしれないし、地球だってどうなるかわからん。火星が暖かくなっても、太陽は終焉に向けてどんどん巨大化する。命が繁栄する暇があるのかどうかわからない。そうだな、言ってみれば今見ているこの赤い星は、太陽が太陽系に残した冬のあしあと、だな」
「赤い、あしあと?」
「そうだ」
クスリと笑いが洩れた。
別れ話を持ち出されて何て言っていいかわからなくて、でもキスしてくれて……、よくわからないけど、赤い赤い火星に来た。
今抱きしめてくれているから、まあいっか。
「アンタレスはもう赤色巨星なんだ。太陽より進化してる恒星。心臓にアンタレス宿してるオレが、あしあとの惑星火星に勝てないわけないと思うんだよ」
「何それ、張り合ってんの?」
「頼りないって思ってんだろ、オレのこと。だから結婚に踏み切れない」
「そんなこと、思ってないよ……柾がいてくれたら、私、火星ででも生きてけるよ?」
「ほんとか?」
「ほんとだってば。いつだって、何があったって柾の前に出て敵に向かって矢を放ってあげるから……」
「何言ってんだか」
「そうしてって言ったじゃん」
「おまえ飛んだんだぞ? 加勢にもならん」
「私空飛んだの? それで火星に来たの?」
「はあ?」
肩をぐらぐら揺すぶられた。
「おまえ大丈夫か? ちょっと激しかったかもしれんが、気持ち良さそうだったぞ? 飛んだのは一瞬、すぐ返事したじゃないか。その後こうやって望遠鏡覗いてたろ?」
私は辺りを見廻した。赤い砂漠はそこには無かった。
前には低い三脚に立てた小さな望遠鏡、後ろに柾。
私は彼の脚の間に横座りして、右膝に寄り掛かって望遠鏡を覗き、たまに胸に抱きついていたらしい。下半身は柾の左脚の上で脱力、シュラフが纏わりついていて、その中の着衣は確かに少々ズレている。
「おまえ、ツンデレの歳じゃもうないだろ。最中だけ素直になる癖やめろよな」
「最中? 癖? ツンデレ?」
「本音言い合えなきゃ破局する……」
「私また何か口走ってた?!」
「ああ、『捨てないで……』ってさ」
私の頬はきっとアンタレスより赤い。
「式、挙げるぞ、いいな?」
「はい……」
私はことのほか殊勝に返事をして、首根っこに抱きついた。
余談ですが、文中 ディスエンゲージメントだけでは英語で婚約破棄の意味は出ないようです。
discard engagementもヘンです。和製英語っぽい。
break the engagement offが普通の言い方です。