人であるか 人でなしか
「ねぇ貴方、貴方宛の手紙が来てるわよ」
そんな妻の声が聞こえて来たのは、一週間程前の昼過ぎ位だったね。
丁度その時、僕は書斎に居て、たっぷり食した昼食をこなしつつ、ゆったりと安楽椅子に座りながら一服していた所だった。男なら是非解ってくれると思うけど、何かに浸っている時に、急に揺り動かされるのはとても気分が悪いんだ。殊に、新聞を読んでいる時と、煙草を呑んでいる時は、特に。
だから僕は無視を決め込んだ。妻の甲高い叫びは良く響くから、しっかり耳に届いていたけどね。聞こえていないふりをして、椅子にもたれていたら、突然ドアが開いて、彼女が入って来たんだ。
「貴方、貴方ったら、また聞こえないふり? 手紙が届いているんだってば」
長年付き合って来た仲だからか、或いはこれが女の勘という奴だろうか、ともあれ、彼女にはお見通しだったよ。参ったね。それで、今度は実力行使と来たものだから、僕は仕方が無く立ち上がった。
「解った解った、ちゃんと聞こえてる、で、一体全体手紙が何だというんだ?」
「ただの手紙でしたら貴方の手も煩わせないわよ、ついでに耳も、ね。これを見てよ」
そう言って妻は乱暴に便箋を差し出して来た。そいつに目を通して彼女が慌てた理由が解ったね。その手紙には、聞いた事も無い様な会社の名前が書いてあったのだから。
「『ハール&イドゥナ人形製造会社』? いや、知らない名だ。間違いじゃないのかい?」
「もう、言ったじゃない、貴方宛の手紙だって。ほらそこ、貴方の名前がちゃんと書いてあるでしょ? 耳は大丈夫? 案外、この何とか言う所で義耳でも作って貰った方がいいんじゃないの? 人形って言うんだから、きっとそういう会社だと私は思うんだけど」
常に辛辣な、だが今回は取り分けその気が強い妻へ僕はむっとしたけれど、彼女の言う事には一理ある。
知っての通りここ土壱という国は機械仕掛けが大好きで、最近じゃそれが病的、狂的な域に達している。人の体から、何と脳まで、つまり殆ど人間そっくりに動く人形まで造ってしまうのだからな。神をも恐れぬ豪胆さにはほとほと恐れ入る限りだよ。義体大国と呼ばれて職人連中は鼻高々なんだろうがさ。
だから妻が言う様に、この人形製造会社というのもその類のものだろう。僕自身そう考えた。さぁ弱った、厄介な歯車贔屓がとうとうこのミュンヘンにまでやって来たのか、と。
しかし、僕が考えたのはそれだけだった。どれだけ言われようが、その会社に覚え等無かったからだ。そんな所と関わり合いになった所で何か良い事があるとは思えない。下手に反応を示せば、何か七面倒臭い事に巻き込まれるに決まっている。そう感じた僕は、手紙を暖炉の元まで持って行くと、赤々と火が灯るそこに、ばっと手紙を投げ入れたのさ。
「ちょっと貴方何するのよ、まだ封も切ってないのに!」
妻の抗議の声が上がったが、僕は構わなかった。
そうやって叫べば叫ぶ程、僕の神経は苛立ち、余計に止めるという選択が遠のいていったよ。
「何、どうせ融資やら何やらの催促か、で無ければ性質の悪い悪戯だよ。構う事なんてないさ」
僕はそう応えると、火掻き棒を使って便箋が完全な灰になるまで熱心に突いた。妻は最初こそ不服そうだったけれど、しかし即座に僕の言った通りと解って、書斎から出て行ったっけな。
そうして僕はすっかりその手紙の事を忘れていた。すっかりだ。当然だろう。あんなものをずっと気にかけている方がどうかしている。誰だって、道端に落ちている広告の内容を何時までも覚えてはいまい。
けれども、『忘れていた』と言った様に、思い出さなくてはならない事が起きてしまったのさ。
今日の昼過ぎの事だよ、僕の家に客がやって来たのは。まだ二十歳になるかならずやの青年だった。突然の訪問に妻は不機嫌だったが、彼は物腰丁寧で、服装もしっかりとしていて、僕はなかなか好ましい印象を受けたものさ。まぁ、直ぐにそいつは撤回される事となったけどね。
何故だって? その好青年はこう言ったのさ、人懐っこそうな笑みを浮かべて。
「始めまして、『ハール&イドゥナ人形製造会社』から来ました、キーロと申します。先日ご通達した通り、御主人の耐久年齢がもう間も無くで過ぎようとしているので、点検及び修理にやってきました」
初対面の人間に行き成りそう言われたら、どう思う? 良い気分はしないだろう? しかも、一週間前に出て来た胡散臭い名前の会社より来た、なんて名乗られたら、ねぇ?
僕もそうだった。そして、妻もだ。僕等はぽかんと口を半開きにして互いを見合った後、キーロと名乗った青年の方を向いた。彼が正真正銘に正気であるかを確かめる為に。
面白い事に、キーロの方も、同じ様な顔をしていたよ。この人達は一体何を疑っているのだろうか、と。その表情に、妻は兎も角、僕は青年が本気でそんな事を言っているのだと確信したね。
だから僕は尋ねた。咳払い一つして自分を落ち着けてから、
「失礼だけれど、意味が良く解らなかった。手紙は……読む前にこちらの手違いで無くしてしまってね。だから聞くが、御主人とは僕の事か? 耐久年齢だの修理だの部品交換だのは何の事だい?」
そう言うと、キーロはますます怪訝そうな顔になったが、それでもしっかり質問に応えてくれた。
「手紙を無くした? 嗚呼、道理でこちらの話が伝わっていないと思いました。まぁ、いいですけど……えぇっと、大分人工頭脳が危うくなっているみたいだから改めて言いますけれど、はい、御主人とは他ならぬ貴方の事です。貴方は、弊社が設計、販売している義体人形であり、記録によれば、十年前に御両親の依頼によって作成されておりまして、これは弊社が造っている義体が機能を真っ当に保てる、ぎりぎりの歳月でもあります。付きましては何処の、どの部分が、どれ程に老朽化しているかを確かめ、然る後に部品の交換等を行なう為、義体職人である私が訪ねる事となったのです」
説明完了。彼はそこまで言い終えると、満足した様に、或いはそう問い返す様に、微笑んで見せた。
が、こちらとしてはますます混乱するより他ならなかったがね。さっきまでは曖昧なままだった言葉が、はっきりと定義される事となったのだから。僕が人形だって? 冗談も甚だしい!
ただ言われて見ると、成る程、と思う所が多々あった。
例えば、僕には幼い頃の記憶が乏しい。大抵の人間がこの年になれば忘れるものかもしれないが、それでも少ないと思うね。その上、覚えているのも多くが伝聞の形だから、怪しいと言えば怪しい。
それから十年前とキーロは言ったが、それは僕が事故に巻き込まれた年でもあったのさ。道を歩いていたら、酔っ払い馬車が突っ込んで来てね、一歩間違えば死んでいたと、医者から聞かされたよ。嗚呼、うん、そう、聞かされた、なんだ。その時の僕は木乃伊の様な姿でベッドに横たわっていて、ろくに身動きも取れなかった。両親に鏡を見せられて、漸くどれだけ酷い怪我だったか知った位さ。
だから、もしかしたら、この義体職人と称する青年が言う事は、正しいのかもしれない。僕は、本当は十年前の事故で死んでいて、今の僕は、死んだ僕に似せて造られた人形では無いか。両親はもう亡くなっているから、キーロの言葉以外に確かめる方法なんて無かったけどね、そんな疑問がわずかに浮かんだ、
「ふざけるんじゃないわよ!」
その矢先だよ、妻が耳をつんざく様な声を上げたのは。僕は思わず耳に手を当ててしまった。彼女に直ぐ横で叫ばれてみろ、誰だってそうするさ。キーロの方もぎゅぅと目元を細めたが、そこは商売人だ、耳を塞ぐ事は無かったな。代わりに彼は、冷静な口調で、諭す様にこう尋ねた。
「ふざけるな、とはどう言う事でしょうか?」
「私の夫が人形、という所よ。そんな訳無いじゃない、何年一緒だと思っていて? もし彼が……それが、というべきかしら? 人で無かったら、とっくの昔に私が気付いているわ、間違いなく」
対する妻は、憤懣やるかたないという感じで、鼻息も荒く、ここまで一気に捲くし立てた。どうにも僕が苦手とする感情的な態度だったね。実に、土壱人女性らしい、というべきか。
それから、多分その発言は、僕を心配して、というより、自分自身へ向けられたものだろう。何せ、もし僕が人形だったならば、彼女はずっとこれ……自分で言うのもおかしいがこれと暮らして来た事になる。その正体に気付きもせずに、ね。妻は自尊心が強いから、そんなのは決して許せなかったに違いない。
しかしながら、そのお蔭で僕も自身に対する疑問から解放された。彼女の言う事は正しい。僕達が結婚したから、五年も経っているのに、その間に僕が人形だなんて気付かない方がどうかしている……あれだけ悩んでおいて悪いがね、優柔不断な僕は、妻の言葉で、そう先の考えを翻したものだ。
所で、キーロはというとそれに動じた風は全く無く、あくまで平静を保ったままだった。口元には、変わらぬ笑みが宿っていてね、瞳には薄っすら哀れみすら感じられたな。そして彼は言った。まるで家庭教師がその生徒へ教える様な、親しげな口調で、
「えぇ、そうでしょう。しかし、人形が人の形に似せて造られるならば、解らないのが普通なのです。また、それこそが私達の肝であります。簡単に気付かれてしまえば、意味などありませんから、人に見せる為にあらゆる精密技術が使われております、早々見破られはしませんよ……今回の検査だって、本当はもっと秘密裏に行いたかったのですけどね、時間が押しているのだから仕方が無い」
彼は、奥さんには申し訳無いですが、と付け加えると、僕の方を見ながら仕事鞄を漁り出した。
僕は……嗚呼やっぱりな、と言われそうだが、キーロの言葉に唸っていたよ。それは確かに尤もだ、とね。この意志薄弱さもまたその証か、とまで考えた程だった。
そうこうしている間にキーロは数枚の紙束を取り出した。それを僕に差し向けて言った。
「まぁ何を言っても詮無き事でしょう。私達も、御両親の契約書が無ければ見分け等最早付かないのですから。だから、まだご不満があるのでしたら、こちらの方を是非お読みになられまして、」
だが、にこやかに微笑むより早くに、押し黙っていた、いや黙らされていた妻が動いた。俊敏極まりない動作で彼から書類を引っ手繰ると、そのまま暖炉の中へ投げ入れたのさ。勿論、火が灯っているね。男二人の意識が漸く追い付いた頃には、素晴らしい案配で煙が上がっていたものだよ。
「な、何をするんですか!」
キーロはここに来て初めて声を荒げたが、どうする事も出来ない。
そんな彼に向かって、妻は高笑いを上げた後、
「これで契約書とやらは無くなったわ。貴方自身言ったのでは無くて? 書類が無くては解らない、と。解る筈が無いわ、だって人形じゃないのだから。契約書ですって? そんなもの、どうとでもでっち上げられるし、そうしたに決まっているわ。さぁ、解ったかしら? なら、さっさとお引取り願おうじゃない」
そう言い放った。手紙を焼き捨てた手前、僕は何も言えなかったけれど、あれは酷いと思うね、うん。確かに唯一の証拠が消えれば、証明も糞も無いのだが、ちょっとこれはやり過ぎだ。
案の定、キーロはかなり頭に来た様でね、妻に向かって語気強く言い返して来たのだが、
「……そんな事をされても、御主人が弊社の人形である事に変わりはありません。外見の見分けは付かなくとも、中を見れば一目瞭然なのですから。何なら今ここで、御覧になっても良いのですよ」
その言葉に僕は心底驚いた。いや、僕が人形だとするならば出来て当然だが、生憎と、僕自身、どっちが正しいのか見当も付いてなくて心構えが出来てなかったんだ。仕事鞄から幾つもの工具を取り出して来た時は、背筋が凍り付いたのかと思ったよ。
だが妻とて負けてはいなかった。工具を取り出している最中の若い職人の腕をむんずと掴んで、
「無骨な道具を取り出して、うちの主人を切り裂きジャック見たくバラバラ死体にするつもり? そんな事はさせないわよ、このキチガイ! どうしてもやりたいって言うなら、本当にこの人が人形だって言う証拠を、今この場で直ぐに出して見なさいよ」
叫ぶ姿は男の様に勇ましくて、普段その矛先が向けられている僕は内心震え上がったんだが、同時に、それは無茶な、とも考えたね。だって、それを妻自身が処分したのだからな。酷い矛盾だ。
その事は、当然キーロも解っていて、
「無理を言わないでください。契約書は貴方が焼いてしまったじゃないですか。その代わりに、現に証明しようと言っているのに、それにはさっき焼いた証拠が必要だなんて、おかしいじゃないですか」
そう言い返したんだが、聊か熱っぽくて荒々しい言葉だった。最初の慇懃な態度も、ここまで来ると完全に剥がれてしまっていて、端から見ていると、とても危なっかしい。まぁ年齢から考えれば、それも妥当なんだがね、今回は相手が悪かった。頭に血が上った妻は、ちょっとやそっとじゃ折れはしないんだ。
「おかしく無いわ。おかしいのは貴方なんだから。証拠なんて、直ぐに出来るでしょ? 適当にでっち上げたのだから。ほら、さっさと持って来なさいよ、ほらほらほら!」
で、青年の方も意地になっていたんだろうな。
「誰がおかしいですって? そちらの方が余程おかしいですよ、奥さん。私の話をちゃんと聞いておりましたか? だったら理解している筈でしょうに、頭の歯車でもすっ飛んでるのでは? 嗚呼、どうせなら一緒に修理して差し上げましょう、無料でね!」
止せばいいのにこんな風に言っちゃったからさぁ大変。後はもう売り言葉に買い言葉、問題の焦点は僕にある筈なんだが、気が付けば本人そっちのけでの大論戦、もとい、罵り合いに発展してしまった。どちらも興奮し切っていて、妥協というものを忘れていたから、それは凄まじい言葉の応酬が勃発した訳だ。
で、僕はその様子を最初からずっと見ていたんだが、途中で何もかもがどうでも良くなってしまった。
最初こそ自分が人間じゃないと言われて驚き、慌てたが、こうやって静かに振り返って見ると、別に人形だからって何か不都合がある事も無い。妻の、女としての誇りが傷付くかもしれないし、他にも問題が噴出するかもしれないが、そんな事は知った事じゃ無い。勿論それは逆も然り。結局、僕が何者であろうが、僕は僕に過ぎないのさ。何とかしてそいつを変えたいと願っても、絶対に逃れられない程に。
そう気付いた瞬間、僕は妻と青年との遣り取りが、口角泡を飛ばして罵詈雑言を吐き出すその様が、幼稚極まりないものに思えて、聞いているのも億劫になってしまったんだね。
僕は脱兎の如く抜け出したよ。二人とも、相手の事ばかりに関心が向かっていて、僕が逃げた事に最後まで気付いていない様だったな。もしかしたら、まだ言い争っているのかも。全く、くだらない事だね。
と、ま、そんな訳で、僕はこの酒場という、最良の隠れ家までやって来たんだ。いやはや、何かあった時に駆け込むここ程、素敵なものは無いと僕は思っている、嗚呼、間違いない。そこへ更に旨い酒と肴が付いて、話を聞いてくれる相手が居れば、言う事は無しだ。
うん、全く、長々と付き合ってくれて感謝するよ。麦酒一杯じゃ、割に合わないかもしれないが。
と……は? それで結局僕は何者なのか、だって? おいおいあんた、聞いてたんじゃないのか、僕の話を。いや良いけどさ。本当、そんな事知りはしないし解りもしないし、興味も無いんだよ、僕は。どっちだって良い事なんだってば全く持ってさ、違うかい?
大体、言わせて貰えれば僕だって、あんたが何者か知らないんだよ。
何だって酒飲みに付き合ってくれてるのかとか……嗚呼、それは最初に聞いたか、失敬……じゃ、何だって熱心に話を聞いてくるのかとか、後は、そうだな、何故頭の天辺に発条を付けてるのか、とかな。
あぁ……あんた……そうか、気付いてなかったのか、今まで……いや、そう慌てるなって。
やっぱり聞いてなかったな話。僕はどっちでもいいと言ったぜ。それに何が本当に良いのかも。
うん、いいじゃないか気にするな、そして呑もうよ兄弟! 口煩い連中は放っておいてさ!