悪夢
猫の声が響いている。まだ仔猫の声だ。母猫を呼んでいるのだろうか。はぐれてしまったのだろうか。その声は切ない響きを含んでいて、声を掛けずにはいられない。
白い靴下をはいた黒い仔猫が愛らしい声をあげ、見上げる。私はその子をしっかりと抱きあげて、「ここにおったん」と呟いた。
「心配しとってんで」
仔猫が下りたいと体を捩じらせるものだから、壊れ物でも下ろすかのようにして、仔猫をそっと地面に下ろす。すると仔猫は「おいで」とばかりに私を先導するのだ。少し歩いては振り向き、また少し歩いては振り向き。
「どこ行くの?」
と尋ねると「にゃぅ」と短く答える。
猫は歩みを止めない。私もそれに素直について行く。
「お風呂が沸きました」
顔を上げた私の耳に届いた機械的で綺麗な女性の声は、確実に私の微睡を遮った。目を擦り、「あっ」と小さく叫ぶ。お風呂の前に晩御飯を食べてしまおうとお惣菜をレンジで温めていたはずなのだ。時計を見ると午後八時過ぎ。うわぁと頭を抱える。九時以降に食べ物を食べると太るというし、かといって追いだきのないお風呂システムを考える今すぐお風呂という選択になってしまう。一瞬悩んだ私だったが、結局お風呂を優先することにした。疲れは取っておくに越したことがない。きっとあったかいお湯に浸かれば、大丈夫。
さっきまで見ていた夢を気持ち悪く感じ始めたところでもあった。また、あの夢。しかし、場面が少し違う。あの子は私ではなく、おそらく長野さんなのだろう。そうに違いない。そうでなければならない。だって、わたしはあの場所を知らない訳だし、夢に出て来るなんておかしすぎる。
ちゃぽんと湯船に体をつけると、まるで体の深いところから色々なものを吐き出すように長い息が自然と漏れ出した。さっき微睡んだせいで眠気こそないが、私は必死になって思考を操作していた。
まず、お風呂から上がったら……。
ご飯を食べたら……。
ちょっと残っている仕事をして……。
とりあえず、ラインの……
そこで思考を止める。長野さんのラインのチェックなんてしたら、またあの夢を見兼ねない。夢の中にいる間は別に気持ち悪いということもないし、どちらかと言えば、穏やかな雰囲気なのだけれど、起きるといろいろ気持ち悪いのだ。長野さんの思考を準えているような。覗いているような。
「霊感なんて全くないのに……」
湯船の中で膝を抱え、今度は大きなため息をつく。長野さんの行方さえ分かれば問題ないのだ。無事に見付かって、ただ単にいろいろ悲観しただけで、ちょっと出て来るのが躊躇われるようになってきて。
ほら、警察沙汰にまでなってしまったわけだしさ。
だから、どうか猫の呪いとかそんなホラーではありませんように。
そんなことを考えている矢先、私の心臓は跳ね上がった。
バタバタバタという音と激しい猫の声が遠くに聞えた。縄張り争いか、餌の取り合いか、しばらくニギャーニギャァと大きな声を上げた後、唸り声をあげる。低く地底から湧き出てくるような呻き声に肩まで湯船に沈めてしまう。ここは四階。しかも角部屋ではなくて、お風呂場だって外側ではなくて、部屋の真ん中あたり。気にし過ぎなのかその猫の声は本当にすぐそばで上げられているようだ。猫は不吉、なんて聞いて変にガードしているせいもあるのだろう。きっと、気にし過ぎ。私が自身を慰める。
「一体何なん?」
最近、恐怖を紛らわせるための独り言が増えている。それなのに、ふとハルカちゃんを思い出し、長野さんの帰りを望んでいる自分に気付く。