環状線に乗って
空梅雨の上に早々に梅雨明け宣言が行われるかもしれない、と言われた空は青く開けていた。既に入道雲だろう雲すら見え始めている。しばらく雨は降りそうもない。熱せられた空気がカーテンを揺らし、じっとりと私に汗をかかせ始める。午前中でこれだ。午後はさらに暑くなるのだろう。そんな中、私は小学校の頃に流行った『ばばされ』を、何故か思い出していた。
鬼婆から命からがら逃げてきたという男が、その経緯を話し、「あぎょうさんさぎょうご」と言って、息絶える。「あぎょうさんさぎょうご」それをその日以内に解かなければならない。解けば呪いは回避、もし解けなければ、一週間の間背後からの声に『ばばされ』を三回。もしくはその話を三名の人に伝えれば回避。言うのを忘れると殺される。確かそんな物だ。
結局解けなかった私に与えられたペナルティは一週間怯えながら『ばばされ』を言い続けることだった。
多分何度かしくじっていたはずだけれど、結局殺されることもなく、一週間が経った。
朝八時に目覚まし時計を慌てて止めて、ベッドの上でぼんやりする。遮光カーテンを開けてレース越しの朝陽を浴びて伸びをする。よし、と気合を入れると私は朝の支度を始めた。
お気に入りの茶葉を取り出して、60度設定のお湯をティーポットに注ぎ、トーストをオーブンで焼く。目玉焼きをレンジでチンして作り、昨日の作り過ぎた煮物を冷蔵庫から取り出す。
これでもちゃんと夕飯は作っている。
土曜日だというのに、なんて規則正しい生活なのだろう。ローズの香りを醸し出すコップの湯気を吸いこんだ後、恨みがましく思いながら、バターたっぷりのトーストを齧る。ただ、交通費込みのランチ代として二千円もくれたことには感謝している。
「絶対に行けっていう引導を渡されたんやろうけどねぇ……」
ほんの少し空を眺めて、ぼやいてみるがもちろん誰も答えないし聞いていない。敢えて聞いているものがいるとすれば、ベランダから見える電線に止まる雀くらいだろう。
彼らは早朝には騒がしく鳴きだして、今頃は私が毎日食べる時に出るパンくずを待って止まっているのだ。
「係長は今日家族サービスなんやって」
とりあえず答えない雀にだけ報告しておく。
パジャマに零れたパンくずを零さないようにしてベランダまで歩いて行くと、答えない雀がベランダの手すりまでやって来た。後はパタパタするだけで、私は雀に気取られないようにジーンズにTシャツになり水回りの掃除を始め、掃除機をかけ、洗濯は乾燥までセットして、顔を作る。
「ばばされ」の答えは「あ行三」「さ行五」
すなわち『うそ』
ショルダーバッグに必要なものが詰め込まれているかを確かめた後、雀がベランダでちょんちょん飛んでいる姿を横目に玄関の扉を開けた。
現在長野さんの住んでいる場所は環状線で言えば私の住んでいる場所と90度向こうの言ったところだった。私の住むハイツからなら30分くらい見れば、最寄駅には着くだろう。ただ、私の住んでいる場所と長野さんの住んでいる場所が駅から遠いという難点があるのだ。徒歩15分。私が方向音痴でなかったことに感謝するレベルの道のりだ。しかし、家賃面を考えれば、そのくらい不便な大阪市内じゃないとちょっと今の給料じゃきつい。もしかしたらもっと節約すれば何とかなるのだろうけれど、夏には大学の友達と旅行にも行きたいし、化粧品もこれ以上レベルを下げたくない。毎日着ていく服だって、今日のような出で立ちではちょっと通勤には使えない。削れる場所と費やせる時間がぴったり沿う場所が今のマンションだった。それに、一人で生きていくと考えれば全く不便ではないのだ。
電車に揺られながら視線を窓へ向けると、既に大阪城が見えて来ていた。青い空に溶け込む碧色はいつ見ても美しいと感じられるようになった。不思議なことに、子どもの頃はただ『お城っ』と興奮するだけだった大阪城が興奮剤ではなく、精神安定剤になるとは。一呼吸して、鞄の中からスマホを取り出し、ラインを確かめるが、やはり既読にはなっていない。そして、とりあえず、メッセージを打っておく。
『大丈夫ですか? 連絡が取れないとみんな心配しています。係長から住所教えてもらったので、今からご自宅の方へ向かいますがよろしいでしょうか?』
宙ぶらりんな吹き出しが二つ増えただけだが、突然行くのだから、何となく言い訳を作っておかなければならないと思った。
返事が返ってくればそのまま途中下車でもいいし、梅田まで出てしまってお洒落なランチでもいいかもしれない。それか、天王寺でハルカスでも眺めてこようか。
スマホを片手に手近な夢を叶えてみようかと考える。普段は絶対に上ろうと思えない値段にも、二千円あればハルカスに上って下界を眺めて見るのもいいかもしれない。梅田のグランフロントもまだあまり開拓していないし、ルクアも制覇していない。せっかく早起きしたことだし、無駄遣いになることだけはやめておこう。そう思いながら、車窓に視線を流して過ごす。ホームセンターの大きな看板があったかと思えば、トタン張りの壁があり、遠くに景色が拓けたと思えば、急に昭和レトロな看板群が見え始める。ごっちゃごちゃの景色。
最寄駅のアナウンスで、再びスマホを覗く。
しかし、返事は返って来なかった。せめて既読になってくれればいいものを。
徒歩15分。歩き慣れない町をその時間歩くのは至難だ。まず初っ端から間違えてしまった私は東出口の所を西出口から出てしまい、徒歩20分という時間を歩き、長野さんのハイツに辿り着いた。
長野さんのハイツは高架下をくぐり、その向こうの静かな下町の中に佇んでいた。