無断欠勤
花柳村には幸せな、それはそれは幸せな女房の猫がおりました。されど猫は今も哀しく、孤独を抱きて眠ります。
夜闇に響く猫の声。
七日の後に見えるまでは、決して振り返ってはなりませぬ。
花柳村伝説《一部抜粋》
◆ ◆ ◆
長野さんのデスクは不在。今日もお休みしている。彼女が長期休暇なんて珍しい。
羨ましいなぁ……と思いながら、大きくため息をついてしまった。
今年の夏はうちの目玉商品の『タビコ』の売り上げがいまいち振るわない。これじゃあ、夏のボーナスに大きな打撃があるはずだ。当てにしているボーナスが低いといろいろな計画が崩れてしまう。旅行のレベルを下げるべきか、エアコンの買い替えを来年に延ばそうか……と、うだる暑さに頭が痛くなった。
今年も40℃近くになるのかなぁ……。
やはり今年は旅行を節約旅行に変えるべきかもしれない。大きなため息がふたたびPCの画面に吹きかけられる。きっと、今のこの作業がいけないのだ。うだつの上がらない売り上げの入力。
そしてもう一度、ため息を付きかけたところで、梁坂係長の声がした。
「おい、広崎」
その声にため息がさらに深いところに落ちた気がした。
何か用ですか? 私、ちゃんと仕事してますよ。
そんな思いを隠しながら顔を上げると、四十にして既に貫録を見せ始めた頭を申し訳なさそうに撫でる梁坂係長の顔が、あまりにもすぐ真横にあった。
こんな時は頼まれごとだ。
「広崎、お前、長野と親しかったよな」
「はぁ」
私の気のない返事にも気付かず、長野さんとは同期らしい梁坂係長はそのまま声を潜める。いったい何の用なのだろう。
「ちょっとあいつの所、見て来てくれへんか? 連絡とれへんくってな。お前なんか知ってるか?」
「さぁ。分かりませんけど……病欠だったんですか?」
私の返事で見せた梁坂係長の苦笑から見れば、きっと『私なら知っているかも』という当てが外れたのだろう。
確かに私は長野さんと、会社の中では親しい方だ。だけど、長野さんはあくまで先輩。
病欠だったことすら、たった今係長から聞いて知ったくらいなのだから。
ほんわかしていて、おっちょこちょいで、頼りがいがあるようなないような、かわいい先輩。その可愛さはなんとなく小動物にも例えられそうな。先輩的にはあんな感じになりたくないが、人間的にはあんな雰囲気をまとってみたい。そんな気もする先輩である。
一緒にご飯を食べることもあったし、数合わせで合コンにも誘ったこともあったから、第三者の勘違いは致し方ないのかもしれない。
「ご自宅は知らないですが、ラインを知っているので、連絡だけ入れときますね」
だけど、どこに住んでいるのかまでは知らないし、興味もない。友達かと言えばそんなこともない。長野さんはあくまで先輩だ。もちろん、係長がそういう微妙な関係に気付くとは思えないから、とりあえず、「家は知らない」とさらりと予防線を張っておいた。
だけど、長野さんについては気になることが確かにあったかもしれない。
ここ一ヶ月、一緒にお弁当仲間をしていた長野さんが、急に外食をするようになったのだ。
お弁当仲間として避けられているような気がして少し寂しい思いもあったし、もしかしたら嫌われたのかなと思ったりしていたこともある。
そう言えば、ぼんやりしていることも多かった。
やっぱり、体調がすぐれなかったのだろうか。
年齢的には更年期とか……。
そう思って返事をしようとしたその時、なぜか意を決したような梁坂係長が続けていた。
「いや、無断欠勤でな。あれや、昨日は連絡あったから、今日連絡取れへんねん。住所は教えるから、行って来てくれへんか」
「今からですか?」
自然と移る私の視線の先には長野さんの机があった。
綺麗に片付いているデスクの上には、百均で揃えたようなペン立てと写真立て、付箋入れが載せられている。付箋入れの中には可愛い動物のイラスト付きの物や、シンプルな蛍光の付箋が並んで入っていたはずだ。
長野さんは、可愛いもの好きで、写真立ての中には黒猫の写真が入っていた。
飼い猫だと言っていた。
「あほか。そうやなぁ、早かったら仕事帰りでも、土曜日にでも行ってくれると助かるわ」
土曜は明日だろう?
むっとした私は、もしかしたら本当に表情に出てしまっていたかもしれない。そして、なにより言葉を穏やかに出すことがこんなにも難しかっただなんて、本当に知らなかった。
係長は私の大切な休日をなんだと思っているのだろう。特に予定はないのだが、休日を勝手に係長に決められるのは納得いかない。
だけど、腐っても相手は上司だ。私は真っ直ぐ彼を見つめて、感情を込めずに伝えた。
「わかりました。明日行かせていただきます」
「ほな、よろしくな」
そして、あろうことか「あぁ。お昼に詳しく話すわ。どうせここで食べるんやろ?」などと、言い出したのだ。
せめて、顔くらいは二枚目だったら救いなものを……。
穴が開くほどに係長の顔を眺めた私に、鳩が豆鉄砲と喰らったように目を丸くする係長が、一瞬でも何を思ったのかは知らない。
だけど、これってパワハラなんじゃないですか?
それくらいは伝わっていればいいな、とは思う。
「はい……」
「悪いな。じゃあ、後で」
どうやっても、どう見てもイケメンにはなりそうにない係長を恨みがましく眺めながら、その背中を私は見送った。
そう、悪い人ではないの……だ。
悪い人では……。




