5話 魔女の弟子
「――じゃあまずは本を読む事から始めましょう。読むべき本をメモしたからこれ全部読みなさいな」
そう言われて渡されたメモ用紙を見ると驚いた。
そこには沢山の本の題名が書かれていた。
全体的に難しそうな題名ばかりで、眺めているだけで頭がくらくらする。
「……全部読まないといけないんですか?」
「当たり前よ。 図書委員ならこれくらい読んでいないと恥ずかしいわ」
げんなりする僕に彼女はピシャリと言った。
「貴方は確か金曜日が当番よね?」
「……はい」
「ならそれまでに出来るだけ読みなさい。最低二冊は読んで。続きは金曜日に図書室で言うわ」
今日は月曜日だから、あと四日しかない。本をほとんど読んだ事が無い僕に、そんな事が可能だろうか?
不安が顔に出ていたのか、、夜月先輩は僕の顔を見るとクスリと可笑そうに笑い、「じゃあそろそろ行くわ。期待してるわね、優」そう言い残し、保健室を後にした。
僕はその時、疲れと同時に、彼女の期待を嬉しく感じていた。
……とりあえず期待に答えられるようにやってみよう。
時計を見るとそろそろ昼休みが終わる時間だ。黒崎さんに謝らないと。保健室を出ようとすると、ちょうど保健医の岸田先生が帰ってきた。
「お、君が星野優君だね?」
岸田先生はそう言って微笑む。岸田先生は全国的に珍しい、男性の保健医だ。
とても背が高くハンサムなので、女子生徒から絶大な人気がある。
なんとファンクラブまであるらしい。前に亮太が言っていた。
「はい、僕ですが」
「そうか君か! 愛澤さんが言っていたよ」
「先輩はいつも保健室に来るんですか?」
「うん、実は彼女、少し体が弱くてね。よくここに来るよ。今日は遊びに来てたみたいだけど」
知らなかった。
でも確かに夜月先輩はガラスで出来ている様に脆く、壊れてしまいそうな印象がある。
「彼女は少し癖があるかもしれないがとても良い子だよ」
少しのレベルじゃないと内心僕は思う。
「彼女は君の事を気に入っているみたいだ。どうか、仲良くしてやってくれ」
岸田先生は男の僕から見ても素敵な笑顔で僕を見送った。
放課後、僕は彼女の教え通りに、リストの中の一冊を書店で買った。(意外にも最近流行の本で、図書室には無かった。)
そしてアルバイトが始まるまで休憩室で読みこんだ。
僕は少し違和感を感じる。
面白い。
面白いけど前に感じた、あの水の中を沈んでいく感覚は無かった。
「星野君ひどーい、先に行っちゃうなんて」
いつのまにか黒崎さんが背後に立っていた。
本に夢中で気づかなかった。僕は驚きを隠す様に笑う。
「ごめん、行く所があったから先に行っててってメールしたんだけど」
「水くさいよ。お昼だって私が戻ってきたらいなかったし。言ってくれれば私もついて行ったよ」
黒崎さんは頬を膨らます。
「あれ、本読んでたの? 星野君は本読まないんじゃ無かったっけ?」
「せっかく図書委員になったんだし、少しは読もうかなと思って」
「ふうん。じゃあ私も今度読んでみようかな」
彼女は先ほどは怒っていた事を忘れてしまった様に、楽しそうに本のタイトルを聞いてきた。
夜月先輩に紹介された本だという事は黒崎さんには言えなかった。
理由は自分でも分からない。
アルバイトが終わり、家に帰ってからも僕は本を夢中で読み続けた。
漫画を借りに僕の部屋に来た妹は机に座り本を読みふけっている僕を見ると驚き、
「なんかキャラ違うよ」 と少し不気味そうに見ていた。
次の日、僕は一日で本を読み終えてしまった。もう少し時間がかかるかと思っていたので意外だった。
早速、夜月先輩に報告しようと昼休みに保健室に行ったが彼女の姿は無かった。
代わりに沢山の女の子達がお弁当を食べていて、その子達に囲まれた岸田先生は、困った風に笑っていた。
「あぁ、星野君、今日は愛澤さんは来ていないよ」
よく見ると岸田先生のお弁当には、大量のおかずがばらばらに詰め込まれていた。きっと周りの彼女達に貰ったのだろう。……先生は食べきれるのだろうか?
「そうですか……分かりました。他の場所を探してみます」
「多分学校にも来てないんじゃないかな?」
「え?」
「彼女、学校にはあまり来ないんだ」
「大丈夫なんですか?」
僕は少し不安になる。
「休む事については、ご両親から彼女の都合で時々学校を休む連絡が学校に届いているよ。
だからとりあえずは大丈夫だと思うな」
「わかりました、ありがとうございます」
僕は岸田先生に軽く頭を下げると岸田先生はにこりと笑い、遊んで欲しい猫の様な表情をした女の子達に視線を戻した。
その後メールを送ってみたが返事は来なかった。
神出鬼没。
そんな言葉が似合う彼女は、また魔女に一歩近づいたと僕は思った。
こうして僕は、彼女に本の感想を言えずに金曜日までやきもきする事になった。
「本を読み終えたのね、感想はどう?」
金曜日の放課後、眠そうに小説を書いてい
る夜月先輩が訪ねる。
「面白かったです。だけど正直、夜月先輩の勧める本だとは思いません」
「それはどうして?」
「前に先輩の本を読んだ時の感覚が無かったからです。――本当にこの本は優れた本なんですか?」
そう言うと彼女はクスクスと笑い、
「やっぱり見込み通りね。この本は確かに人気な本だけど、内容は平凡そのものね」
「そんな、僕を試したんですか?」
僕は不服の声を出す。彼女は全く悪びれず、
「貴方の師匠ですもの、試しもするわ。でもこれで分かったんじゃないかしら? 貴方の感性は、特別なのだと」
そうなのだろうか?いまいち実感が無い。
だけどもし本当に僕も先輩と同じ感性を持っているのだとしたら――
僕は何者かになれるのかもしれない。 そう思うと少し自信が出てきた。
「それにしても、私の小説と比べるなんて、そっちの本の方が売れているのよ? 貴方ってよっぽど私の事が好きなのね。」
「す、好きだなんてそんな、」
僕は慌てふためく。夜月先輩の方を見ると、意地の悪い笑みを浮かべている。
またからかわれた。
そう思うと顔が熱くなる。
僕は話題を変える。
「どうしてあまり学校に来ないんですか?」
「半分は出版社に行ったり、打ち合わせに行ったりで忙しいの」
「もう半分は何ですか?」
そう聞くと夜月先輩から一瞬笑顔が消えた。しかしすぐに微笑み、
「やっぱりめんどくさいからかしらね」 とおどける様に話した。
「でもすごいじゃない。私の本だけでは無く、三冊も読むなんて」
そう、夜月先輩の本を読み終わってからも僕は本を読み続けた。
朝も、昼休みも、放課後も。あまりに一心で読み続けていたため、
一緒に昼食を食べていた亮太は「どうしたんだ? 優」と心配し、
黒崎さんは「なんだか星野君と話す機会が減った気がする」と少し不服そうに言った。
僕は知りたかった。
夜月先輩は今までどんな本を読んできたのか。
夜月先輩が何を考えてあの小説を書いたのか。
本当に僕は夜月先輩と同じなのだろうか。
そうした夜月先輩をもっと知りたいと思う気持ちが、僕にとてつもないエネルギーを与えていた。
夜月先輩は、優しい口調で「良い子ね」 と呟き、微笑んだ。その時、あることに気がついた。
ああ、そうか。
僕はこの人の笑顔を見る為に小説を読んだのだ。
いつの間にか、僕は本当に魔女の弟子になったらしい。