1話 10年前の星野優
10年前
5時間目の国語の授業中に窓から見た空は、雲が一つも無かった。
遠くでは蝉の鳴き声が聞こえ、クーラの風が心地よい。昼に食べ過ぎたせいか、担当の教師の声が眠気を誘う音楽の様に聞こえる。
斜め前の席を見ると、友達の亮太はすでに、目蓋を閉じこくりこくりと頭を揺らしていた。気怠い雰囲気が漂う教室の中、僕はぼうっと考えていた。
僕は一体、何者になれるのだろう?
先日、17歳の誕生日を迎えた。両親と妹は祝ってくれて、僕は父から貰ったデジタル表示の腕時計を貰い、とても楽しく、嬉しい気分だった。
だけどその日の夜、電気を消し、ベッドに仰向けで横になり真っ暗な天井を眺めていると突然、また自分は一つ年を取ったという恐怖が心を覆った。
僕は何も持っていない。
何色でもない。
勉強も普通、運動神経もあまり良くない、顔だって平凡だ。亮太は僕より勉強は出来ないけれど、県大会で優勝を期待されるほどの足の速さと誰とでも親しくなれるコミニケーション能力を持ち合わせている。顔も悪くない。
きっと亮太は、今後もきっと上手くいく。どこかそんな雰囲気を持っていた。
羨ましい。本当に羨ましい。
僕はこのままではきっと、つまらない大人になってしまう。
そんな焦りが今日まで続いていた。
教科書に目を移すと、そこには僕どころか、両親が生まれる前の時代に文豪と呼ばれた人物が紹介されていた。
文豪とは、小説の世界で唯一無二の感性を持った人達の事をそう呼ぶらしい。まさに色を持った人達だ。
僕はため息を吐く。どう考えたって僕は彼らの様にはなれっこない。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
「オッス優。これからバイトか?」
背伸びをしながら亮太が話しかけてきた。
「うん、亮太は部活だよね?」
「ああ。ったく……毎日練習きついし遊ぶ時間ねぇし嫌になるぜ」
「亮太説得力ないよ。顔がニヤけてる。」
「ん、そうか?」
僕が言った通り、亮太は嬉しそうだった。
多分、退屈な授業から解放されて、早く体を動かしたいのだろう。
彼は陸上部のエースで、種目は短距離だ。
ちょっと女好きな所があるけど、明るい性格で実際ファンの女の子も多い。だけど恋人は作らないらしい。彼曰く「付き合うと他の女の子がかわいそうだろ?」とキザな台詞を吐いていた。
そんな彼の笑顔を見ていると彼に嫉妬していた気持ちを思い出し、少し自己嫌悪になる。
その時、「星野君」と僕を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると黒崎さんの姿があった。
「星野君。もう帰り? 一緒にバイト行こ」
「うん、今行くよ」
「お熱いねぇ」
亮太は茶化す様な口調で言う。
「そんなんじゃないよ」と慌てる僕に対して黒崎さんは冷ややかな目つきで、
「馬鹿。そんな事言ってないで早く部活に行きなよ」
「言われなくてもそうするさ。優、また明日な」
そう言って亮太は廊下を走り去っていった。
学校を出て、黒崎さんと並んでアルバイト先のスーパーに向かう。僕が品だしで黒崎さんはレジ打ちだ。
3時間の労働が終わり、僕は黒崎さんと一緒に帰る。
「星野君。最近なんだか元気ないね。どうしたの?」
黒崎さんは不安そうに僕の顔を覗きこむ。
彼女は時々とても鋭い。僕の考えは時々見透かされてしまう。(僕がすぐ顔に出てしまうのかも知れないけど。)
黒崎さんは隣のクラスの子で、おしゃれで明るい女の子だ。友達も多く、彼女はどこか都会的でキラキラしているイメージがある。
僕がこうして彼女と話をするようになったのは、アルバイト先が同じだったのと、亮太による所が大きい。
亮太と黒崎さんは中学からの友人らしく、よく軽口を言い合っている。とても仲良く見えるのに不思議と二人とも恋愛感情が全く無いらしい。
「実はさ……最近亮太や黒崎さんが羨ましいんと思っているんだ」
「私と亮太が?」
「うん。黒崎さんはクラスの人気者で。亮太は足が速い。だけど僕は何も持っていない。友達に嫉妬をするなんて、自分でも嫌になる」
「うーん、そんな事ないと思うけどな」
黒崎さんは笑う。無邪気な笑顔だった。僕は少しドキリとする。
「星野君の良いところは優しい所だよ」
「……そうかな?」
「そうだよ」
そんな事言われたのは初めてだった。
「ここまででいいよ。バイバイ! 星野君」
「うん、また明日」
そう言って黒崎さんは夜道を歩いて行く。
――星野君の良いところは優しい所だよ。
優しい所。
その言葉を嬉しいと思う反面、そんなあやふやな物が僕の長所だと思うと少しだけ腹立しかった。
自宅の方へ帰る途中、小さな公園があった。昔は良くここで遊んだなと思いながらのぞき込むと、一人の女の子がブランコに座り月を眺めていた。
その姿に、僕は息を呑んだ。
彼女は、とても美しかった。
長く、艶のある黒髪、透けるような白い肌。人形の様に整った顔。だけど触れれば壊れてしまいそうな儚さを感じさせる。
月をどこか悲しそうに眺める彼女はまるで、童話に出てくるかぐや姫の様だった。僕が見とれていると、彼女はふと、僕の方に目を向けた。目が合った瞬間、僕は急に恥ずかしくなり、その場から走り去ってしまった。
家に着く頃には、制服のシャツは汗で濡れていた。
2階の自室に戻ろうとしていた妹は僕を見て、
「あ、ユー君。珍しく帰るの遅いじゃん」
そう言うと手に持っていたアイスキャンディーを一口囓った。