#1
「ただいま」
今朝玄関を閉めたときとなにも変わっていない部屋に向かってかけた声は、誰にも受け止めてもらえないまま消えていった。返事が無いことは分かりきっているのに、同じことを繰り返す。「ただいま」だけじゃない。仕事だってプライベートだって、同じ映像をひたすらリピートしているようにただ繰り返しているだけだ。
そして今日もまた再生回数を一回増やすだけ。の、はずだったのに、昨日はなかった違和感を覚えたのは、夕食を食べ終えて食器を洗っているときだった。目に入ったのは、つけた記憶も無いほど当然のようにそこにある、防水機能を備えていない腕時計。既に何度も流水にさらされた左腕で、そいつは役目を放棄していた。まあ、特に思い入れもないし、買い換え時ってことかな。とりあえず腕から外して洗い物を済ませ、手を拭いてから改めて、五分ほど前の時刻を指したまま動こうとしないアナログ時計を眺める。
時計が止まったからって、別に時間が止まったわけじゃない。そんなことは携帯の時計を見なくたって分かっている。手動で針を逆に回したところで、時間が戻るわけじゃないことなんて、もっと分かってる。
…でも。
繰り返される日々の中で、爆発することもなく、だからといって消えていくこともなかった、奥の方にあった気持ちが、急にむくむく顔を出して僕を支配していく。
「…真美」
嗚咽と共に漏れたその名前を呼ぶのは、いつ以来だろう。
高津真美。
時間を止めたままの彼女と、今も変わらずに年を重ねる僕との年齢差は、今年、十年になっていた。