肉纏う歯車
その少女に目を奪われたのは、ある種の必然だった。
もちろん、誓って俺は制服に興奮するような妙な性癖などないし、海風に翻る濃い紺青のプリーツスカートの中身を期待したわけでもない。であるからして当然、下心はない。その光景が俺の目を惹いたのは、セーラー服という特異な衣と、曇り空の下で荒涼と廃れた病院の灰色の壁とが、ハイ・コントラストの絵画のように焼きついたからだ。
風に乗って、おぉん、おぉん、と病院患者の悲愴な呻き声が流れてくる。
魍魎の声を背負い立つセーラー服の少女。
と、彼女は不躾な視線に気づき、相対するように面を上げた。
真白の肌に、赤紫色の瞳。
――遺伝的弱体種
俺は彼女がこの場所にいる理由を知った。
目を離せず、声もかけられず。
少女は俺のすぐ傍をすり抜けて行った。
すれ違い様に気付いてしまった左手首の包帯に、ザクリと胸を抉られた。
病院に入ってすぐの受付で、俺は名を告げ、面会を求めた。
遠山の面会をお願いします 春馬
受付に置いてあるノートにそう書くと、座っていたカバの様な女性は、遠山カナさんね、と野太い声で呟きながら、太い指で名札を差し出した。受け取った札には、面会、2階208号室、と印刷してあり、その下に汚い手書きで春馬と付け足されていた。
その女性の耳には明るい橙のかたまりが無造作に押し込まれていた。受付が筆談なのは、ここが静寂を求める病院だからではなく、その耳栓のせいだろう。
先ほどからずっと耳元で鳴り響く唸り声。苦痛に呻く魍魎の声は、健常者が聞くに堪えうるレベルではない。耳に蓋をしたくなる気持ちも理解できる。
呻きながら肉塊となって朽ちる病だ、差別も仕方ない。
気づきたくなかった自分の心の機微への言い訳は、内に秘めたままにした。
消毒液の匂いと患者の呻き声に満ちた廊下の先、208号室の札を確認して軽くノックし、引き戸を開けると、友人は嬉しそうに迎えてくれた。
「春馬くん」
俺の名を呼ぶ声は数年前、学生だった頃から変わっていない。抑揚の少ない、軽い声。
嬉しそうだというのは実は手前勝手な妄想で、彼女の顔に感情と思しき変化はほとんどと言っていいほど現れなかった。
「来てくれたんだ」
約束だったからな、と返事をしながら後ろ手に戸を閉めると、亡霊たちの唸り声が多少なりとも薄らいだ。
図らずもほっとした自分には、まだ遺伝的弱体種に対する差別が残っていると思う。
「子供の頃は、きっと君たちが大人になるまでに治療法が見つかる、なんて言われたけど、結局無理そうだよ。私、死んじゃうみたい」
縁起でもない台詞を淡々と吐いて、窓からの明かりを逆光に、赤紫色の瞳が光を帯びた。
「死ぬっていう言葉が相応しいかも怪しいね。ただ肉の塊に戻るだけだから。溶けるって方が正解じゃない? 魂すらも溶けて、ただの肉になるの。役立たずの、肉」
シニカルな台詞で唇の端をあげた彼女に、俺は返す言葉を持たなかった。
このまま朽ちていく友人は、記憶にも増して消え入りそうに見えた。
『遺伝的弱体種』と呼ばれる子供たちが社会で問題視されるようになったのはここ二十年ほどの事。
いつの頃からか、何百人かに一人、真白の肌と美しい赤紫の瞳が特徴的な子供たちが生まれるようになった。かつて神の遣いと呼ばれたアルビノ種のような色彩を持つ彼らは、その病名が示す通り、例外なく早世した。俺ほどの年になると急激に骨が弱体化し、足腰が弱って立てなくなってしまうのだ。弱体化した骨は四肢の末端から溶けてゆき、それに合わせて徐々に手足が縮んでいく。そして縮む手足に和するように顔面やその他の凹凸も失われ、髪は抜け落ち、眼窩は肉に埋まり、最期にはただの白い肉塊となってその生を閉じるのだ。
俺が今日、足を運んだ監獄は終院と呼ばれている。もう動けなくなると悟った遺伝的弱体種が家族を捨て、友を捨て、終の地に選ぶ場所だった。
終院の細かい営業形態はよく知らないが、国家が運営している非営利施設であることは確からしい。
ここは、呻くばかりの肉塊が詰め込まれた反理想郷。
常におぉん、おぉんと何かを嘆くような声が重なり合う。終院を墜の地決めたモノたちから漏れ出る音だ。骨が溶け、凹凸を失い、白い肉塊と化していく人間たちの、最期の嘆き。
この病の詳しい原因は分かっていない。が、どうやら遺伝的要素が大きいのではないかという経験則から一般的にこの病を患った者たちを『遺伝的弱体種』と呼んでいる。もっと機能的な正式名称もあったはずだが、あまり浸透していないのが現実だ。
しかしながら、正式な病名が広まるより先に、この病は人類全体に蔓延しつつある――画期的な治療法も見つからぬまま。
俺の記憶の中の遠山は、いつも窓辺で本を読んでいる。
濃い紺青のセーラー服に身を包み、目を伏せ、ゆっくりと本に視線を落とす。彼女の手元にある本のほとんどが生物学、特に遺伝に関連するものだった。それは自らの病を知ろうとする意欲だったのか、知ろうとしていると周囲にアピールする材料だったのか。
5年前、高校に入学したばかりの時。遺伝的弱体種であるが故、集団から外されていた遠山に、性格的な理由で集団を外されていた俺は興味を持ってしまった。
よくある話だ。
彼女は、読んだ本の内容を端から忘れていくのだという。
本当は興味ないのかもね、とまるで他人事のように呟いた遠山は、赤紫の瞳と相まって、まるで作り物のようだった。人間を模して精巧に造られたアンドロイド。
まるで一昔前の小説の主人公だな、と言った俺を見て、遠山は少しだけ笑った。そして、それってどんな小説、と尋ねてきた。
遠山は俺が勧めた小説を読むようになった。
並んで本を読むようになるまで、さほど時間はかからなかった
しかし、遠山が忘れていくのは、本の内容だけではなかった。
昨日の出来事、クラスメイトの名前、家へ帰る道。
彼女が興味を持たないことは、次から次へと忘れていった。本を読む割にあまり学業に秀でていないのも、それが理由だった。
だから、同級生として何年も同じ教室で過ごした俺たちが5年ぶりに再会しても、思い出話に花が咲くことはない。俺は人と関わってこなかったし、遠山はすべての記憶を深淵へ溶かしてしまったからだ。
俺たちが共有するのは、ただ、傍にいるという事実だけ。
カタカタカタ、と小さな音を立てて、歯車仕掛けのカラクリがキャスターを押して部屋に入ってきた。歯車と細い金属棒をつないだだけの簡素な造りをしたアンドロイドは、病人の世話用に開発されたものだ。
過去、より人間に近い姿を求め進化していたアンドロイド開発だったが、ヒトと無機物の境界が薄れることを怖れた偉い方々によって、非常に簡素な形に落ち着いた。
アンドロイドと人間との差別化を図った結果、本当に必要な部品だけが残ったのだ。
まるで華奢な人間の骨格のようなソレは、俺に向かって会釈した。その動作は非常に滑らかで、これに肉をつけたら普通の人間と見間違えるだろうと思う。
キャスターには夕食と思しきトレイが乗っていた。
外は薄暗がりになっている。そろそろ暇の時間だ。
「また、来る?」
軽く薄い声が追いかけてきた。
昨日会ったクラスメイトさえ忘れていった彼女が、5年間、俺の存在を忘れていなかった。
もう一度ここへ来る理由など、それだけで十分だった。
◇◆◆◆◇◇◆◆◇◇◇◆
いつだったか読んだ本にこんな一節があった。
自分という歯車のかたちを変えるのか、それともかたちは変えず、ぴったりと填る場所を新しく探すのか。
歯車として生きるのならば、人間どうしたってこの二通りの生き方しかできない。
俺はいったい、どちらを選んできたのだろう。
見上げても箱庭ほどの大きさしかない青空の下、細長い建造物の谷間、強いビル風。
大学を卒業してから小さなシステム会社に入社して一年。ルーチンワークが染みついてきた俺は、社会の歯車の一つになれているのだろうか。ヒトという、肉を纏っただけの歯車に。
いや、歪な形をした俺はきっと、ぴったりとはまる隙間を見つけられず、引っかかるようにして動いているに過ぎないのだろう。
遠山のようなシニカルな考えをめぐらせ、一息。シャツのボタンを一つ外した。
異常気象を告げる日々のニュースに耳を貸すわけじゃないが、気温は年々上昇していると思う。20年間で桜の季節は1カ月もずれた。
一人、昼食を公園でとっていると、終院で給仕をしていたものと同じ型のアンドロイドが人間に混じって歩いていた。運搬用、宣伝用、介護用。用途様々なアンドロイドが無機質な街を埋めている。平日の歩道には、ヒトよりアンドロイドの方が多い。
彼らには、シャットダウンまでがきちんとプログラムされており、役目を終えると自ら墓場に向かい、体を横たえる。
そんな墓場はゴミ箱のようにあちらこちらに存在する。特に、ビルの谷間にできやすい。
明るい表通りからふっと脇に目をやると、歯車と金属棒の山がそこに在る。ヒト型の骨格が積み重なる様子は昼間でも不気味で、この死んだアンドロイドたちが夜中になると一斉に動き出して人間を襲う、といったホラーが流行ったこともあった。
今も、隣を歩いていたアンドロイドが動きに支障をきたしたようだ。がりがりがり、と何かが削れる音がして、滑らかだった両腕の動きが停止した。しばらくその場に立ち尽くしていたアンドロイドは、数秒以内に計算する。
自己修復できるか否か。
もし、出来ないと判断した場合は、シャットダウンプログラムが発動する――まるで遠山が自ら終院へと向かったように。
なんとなくその動きを目で追った。
公園の隅にはアンドロイドの墓場がある。一週間に一度は業者が清掃に来るはずだが、今日は金曜日。一週間分の金属が堆く積まれていた。
と、その瞬間、俺はまたも視線を奪われた。
濃い紺青のプリーツスカート。
セーラー服の少女が静かに佇んで、アンドロイドが自らの身体を横たえるをじぃっと見つめていた。その瞳に灯る感情は、悲哀か、憐憫か。
その左手首には包帯が巻かれていた。
何ら珍しいことはない。ここがビジネスビル街とはいえ、高校生がいても不思議ではない。
珍しかったのは、彼女の瞳の色だ。
アンドロイドが完全に動かなくなるのを見届けた少女は、ふいに俺へと視線を移した。
「前に終院で会ったね、お兄さん」
遠山カナと同じ、赤紫色の瞳。
遺伝的弱体種。
遠山と違うのは、表情が豊かなところだろうか。
「お兄さんの事、気になってたんだ。健康な人は、あんなところに来ないから。もしかして、お見舞い?」
小首を傾げて可愛らしく。
少女は、セーラー服のスカーフを揺らして笑った。
「遺伝的弱体種を嫌う人も多いのに、お兄さんは友達思いだね。とっても、いい人だ。そんないい人に2回も会えるなんて運命かな。まるで連載漫画の始まりみたい」
勝手に俺の隣に腰かけた少女は、秋月乃愛と名乗った。大洪水の時に方舟を作ったノアと同じだよ、と。
学校は、と聞くと、案の定、サボりだと答えた。
「みんなノアの事避けるんだ。当たり前だよね。こんな目の色じゃ、遺伝的弱体種だってことを宣伝してるようなもんだから」
俺は、予想通りに始まった秋月乃愛のグチを静かに聞いていた。
学校へ戻れと冷たく跳ね除けてもよかったのだが、セーラー服のせいか、数年前の遠山の姿を重ねてしまい、強い拒絶が出来なかった。
また、昼休みは30分ほど残っており、暇をつぶすにはちょうどいいと思ったせいもある。
秋月乃愛は、あの日あの場所で会った事で、俺には遺伝的弱体種に対する偏見がないと予想したのだろう。残念ながら俺はそれほど高尚な人間ではなく、遠山の存在もあり、非常に複雑な思いをその赤紫に対して持っているのだが。
耳に入ってくるのは秋月乃愛の身上だった。
兄弟はおらず、母親と二人暮らし。父親は、遺伝的弱体種の彼女を受け入れられず去ってしまったのだという。母は仕事が忙しく家に帰って来ず、学校では腫物扱い。
なんという不幸少女のテンプレートだろう。
左手首に覗く包帯が気になった。
学校を抜け出しては、こうして俺のようなサラリーマンを捕まえて時間をつぶしているのだという。
「昼過ぎぐらいだと、営業さんが疲れて休んでる事が多いから、結構捕まえやすいんだ。あとはほら、夕方過ぎくらいの、帰る時間とか」
よくしゃべる秋月につられ、俺はいつしか、遠山カナの話題を口にしていた。
高校時代の思い出。彼女が好きだった小説。放課後の時間。そして、卒業する時、病に倒れたら最後に必ず会いに行く、と約束をした事も。
大切にしていた約束の事まですらすらと話してしまう自分が不思議だった。
もしかすると俺は、誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。本当は遠山と思い出話がしたいのだが、それは無理だから。その分を秋月に求めたのかもしれない。
うまく相槌を入れながら、表情をくるくると変えて話を聞いてくれる秋月は、非常に良い聞き手だった。
暗い自分の生い立ちを朗らかに笑い飛ばし、相手の話を楽しそうに聞いてくれる姿には惹かれるものを感じてしまう。騙されるサラリーマンたちの気持ちは分からなくもない。
何より、遺伝的弱体種に対する同情もある。
その境遇が秋月乃愛に惹かれる理由の一つだろう。
「いいなあ、そういうの。ノアも高校卒業して5年たって、終院に入るころには、初恋の相手にお見舞いに来てもらいたい」
初恋、の部分を否定しようとしたところで、携帯が昼休み終わりのアラームを鳴らす。
慣れているようで、アラームに気付いた少女は立ち上がった。
「次に終院で会った時は、お兄さんの彼女さんに会いたいな。ほら、何て言うか……後学の為に」
同じ病を持つ者同士だ。
少しでも、お互いの気持ちが楽になるのなら。
俺は二人を会わせることを快諾した。
そして次の日曜、俺は再び終院を訪れた。今度は、セーラー服姿の秋月も連れて。
相変わらずカバのような女性が受付に座っていて、顔も上げずに面会用の札をくれた。
秋月を連れて病室に入ると、最初は遠山も戸惑っていたようだったが、すぐに秋月を受け入れた。秋月自身の人懐こさもあるだろうが、やはり同族意識というものが大きいだろう。
二人で楽しそうに笑い合う姿を見ると歳の離れた姉妹のようで、何故か俺は、とてもいいことをしたような気になってしまっていた。
だから俺は、日曜になる度に秋月と共に終院へと通った。
遠山はその度に抑揚の少ない軽い声で迎えてくれた。
が、最初に会った時のように、嬉しそうな、あくまで俺の手前勝手な解釈で、とても嬉しそうだったあの遠山の声を聞けることはなかった。
思えばやはり、再会した時の遠山は、柄になくはしゃいでいたんだろうと思う。
鈍感な俺は、そうやって遠山の感情の変化を見過ごしてしまった。
◇◆◆◆◇◇◆◆◇◇◇◆
遠山は徐々に弱っていき、今ではもう床から起き上がる事も出来なくなっていた。
死期が近いせいなのか、遠山の意識は少しずつ深淵へ沈んでいった。
昨日会ったクラスメイトの顔を忘れてしまったように、朝通ってきた自宅からの道を忘れてしまったりしたように、記憶が紗幕を通したかのように曖昧になっていた。
俺の名前とて、いつ忘れられるか分からない。
そんな頃、珍しく一人で病室を訪れた俺に、遠山はぽつりと言った。
「ノアちゃん、今日は来ないんだね。いつも春馬くんと一緒なのに」
抑揚のない軽い声。
その声に少しだけ非難が含まれていると感じたのは、偶然だった。
いつもなら聞き流すようなその台詞で俺は気づいてしまった。
声に含まれた感情が、俺のいつもの手前勝手な妄想ならよかった。
遠山、と呼んだが、彼女は目を閉じて、返答しようとしなかった。
固く目を閉じた遠山に、俺は焦った。精巧に造られたアンドロイドのような横顔が、あの時、興味ないのかもね、と諦めた顔と同じだったから。
揺り起そうとシーツの上から体に触れ、俺は手を止めた。
本来なら、腕のある位置に何もなかったから。
指先から、さぁっと血が引いた。
「触らないで」
遠山が目を開けていた。
「もう、私は起き上がれないんだよ」
呆然となった俺に、遠山は淡々と告げた。
「いいんだ、もういいの。私はもう朽ちるから。あの時一緒に読んだ小説みたいな主人公にも、ヒロインにもなれないから。だからお願い、春馬くんはあの子と一緒にいてあげて」
何て事だ。
なぜ俺は気付かなかったんだ。
初めて秋月をここへ連れてきた時、遠山が見せた小さな変化になぜ気づかなかったんだ。
それより何より、俺との他愛ない約束を覚えていてくれた時点で、気づくべきだったんじゃないか。興味がない事を忘れてしまう遠山がずっと覚えていてくれたんだ。特別な事だと、誇り、勘違いしてもよかっただろう。
俺は遠山に……カナにかかったシーツを取り払う。
驚いたカナの顔。
カナの手足は、もう半分以下にまで縮んでいた。肘の先にはもう何もない。僅かに残った二の腕が二倍ほどに膨らんで、白くブヨブヨとした塊になっていた。
カナはこのまま、少しずつ、白く小さな肉塊になってしまうのだ。
「見ないで」
俺はそっとカナの身体を抱き上げた。
昔とは違う柔らかさが、酷く胸を打った。これではまるで朽ちるというより、還るようじゃないか。生まれる前の原初の存在に戻っていくみたいじゃないか。
小さな体を抱きしめた。
カナ、と耳元で小さくつぶやいた。
俺は遠山カナが、好きだった。
きっとカナはあの日、あの夜に俺が渾身で叫んだ言葉さえも記憶の底に沈めてしまっただろうけれど。
だからきっとこれは必然だ。
いつも通り夕食を運んできたアンドロイドと入れ替わりに病室を後にした俺を、秋月乃愛が待っていた。
カナの想いを確かめた後には、出来れば会いたくない相手だった。
「お兄さん、ノアと会っちゃって嫌そうな顔してるね。でも、ノアのせいじゃないよ? お姉さんはあんなにも分かりやすく伝えようとしてたのに、気づかなかったのはお兄さんの方。楽しそうだったから黙ってたんだけど、お兄さんはちゃんと気づいたね。偉い偉い」
病室で何が起きていたかもお見通しなのか。
いつものようにくすくす笑う秋月は、無邪気そうに見えた。
「大丈夫だよ、ノアはお兄さんを友達だと思ってるから」
最初は好感を持っていたその無邪気さに、今は苛立ちを覚えた。
笑い終わった秋月は、俺の手を取った。
温かかったカナと違うヒヤリとした感触に背筋に冷たいモノが這った。
「だから、ノアは友達のお兄さんにいいもの見せてあげる」
秋月が俺を連れてきたのは、終院の裏手にある海岸だった。
最初に此処を訪れた時、外に出る頃には薄暗がりになっていた。季節は巡り、今は夕日を浴びた海が赤く染まっている。
終院から、魍魎の呻き声が漏れ出してくる。美しい夕日の海には似つかわしくない重い声は、強い海風に押され、崖の下の海へと転がり落ちて行った。
秋月はこの場所でいったい何を見せたいというのか。
「到着だよ」
秋月が指差した海岸線は、一見何の変哲もなく夕日で赤く染まった波打ち際だった。
が、よく見ると――
「遺伝的弱体種って『死にたがり』が多くて、よくこの辺りに飛び込むんだ。でもね、死なないの。死ねないの。どうしてか分かる?」
海岸線に揺れてうごめいているのは、波ではなかった。ましてや、生物などでは決してない。
「細胞一つ一つが、『分化』する前の状態に戻ろうとするからだよ」
分化。
その単語を聞いて、俺の脳裏には遠山と一緒にめくった生物学の本の中身が過る。
人間は最初、一つの細胞だ。それが分裂し、何兆個もの細胞となる。そして分裂した細胞は、ヒトが生きていく上で必要な機能を獲得するためにそれぞれに決まった役割を与えられるのだ。たとえば、骨。たとえば、皮。たとえば、脳神経。
最初は同じ形、同じ動きをしていた細胞も、与えられた役割に沿って異なる形や機能を持つよう変化する――まるで社会に出たヒトが歯車としてそれぞれの居場所を見つけるように。
そうやって、役割をこなすよう細胞自身が変化してしまうことを『分化』と呼ぶはずだ。
喉が張り付いて、声が出ない。
秋月から目が離せない。
「ストレスを受けると受精の原初の、一つの細胞だった時に一斉に戻ろうとするんだよ。骨も筋肉も心臓も全部、最初の細胞に戻ろうとするの。ちょうどお兄さんくらいの年齢だね。社会に出て働くようになると、急激にストレスがかかるから。不思議だね。耐え切れなくなって、もう一度リセットして、最初からやり直したいと思うのかな?」
ブヨブヨとした肉塊が波に揺れていた。大小様々な白く醜いモノが波に浮かんで揺れている。
腐臭はないが、うめき声の漏れるソレらが生きているとは到底思えなかった。
まるで出来損ないのホラー映画だ。
「遺伝的弱体種は、肉塊になるんじゃなくて、体中の細胞が分化する前に戻るんだよ。何兆個とある細胞が、食塩水の中で生きられる状態に戻るんだ。だから、海に落ちても死なない」
秋月の真白の肌は、波にうごめく肉塊と全く同じ色をしていた。
「だからこれは、病なんかじゃなく進化だと思わない?」
ひどく印象的な眼差しだった。
「これから起こるであろう大洪水を生き延びる為に、ヒトという種が提示した一つの結論だと思わない?」
初めて出会った時に乃愛はノアだと告げた少女は、いつものように無邪気に笑いながら、突拍子もない仮説を告げた。
本当にこれは秋月か?
無邪気に笑い、他愛ない話を交わしていたあの秋月なのか?
一歩、退いた俺の脚に白い肉塊が絡みついた。
気味の悪さに思わず蹴り飛ばすと、その肉塊からは、うぅう、という呻き声が漏れた。
――生きている
その様子を見た秋月が笑った。本当に可笑しそうに。
「ノアたちの世代なら、もうほとんどが弱体種だと思うよ。みんな、ソレを必死に隠してるだけ。隠す事なんてないのにね。方舟から零れ落ちて、それでも生きる道を選んだだけなんだから」
秋月は慈愛の微笑みを浮かべた。
「優しいノアは、それを赦します」
夕日が海の向こうに沈む。
逆光に、赤紫の瞳だけを輝かせた秋月が、俺に向かって歩いてくる。
ゆっくりと手を伸ばし、俺の首に手を絡ませた。
「ノアは知ってるよ。本当はお兄さんが――」
秋月は俺の眼をじっと覗き込んだ。
生まれてからずっと隠してきた事実が露呈しそうになって、突き飛ばした。
手加減できず、秋月は短い悲鳴と共に白い肉塊の中に倒れ込んだ。
さすがにやり過ぎた、とはっとして、倒れた秋月に手を差し伸べた。
伸ばしてきた秋月の左手首の包帯がほどけかけている。
傷口の奥に見えたのは歯車。そして細い金属棒。
思わずまた手を離した俺を、秋月は笑って見上げた。
「遺伝的弱体種の病の進行を止める方法が、一つだけあるの。それはね」
内緒話をする時のように、人差し指を唇に当てて。
「骨格をアンドロイドと入れ替える事」
愕然とした。
あの、細い金属棒でつながっただけの骨格のようなアンドロイドを――アンドロイド?
確かにアレは骨格らしき形をしている。人間らしい動きをする。
アレに、自分の肉を纏わせるというのか――?!
血の滴る肉を纏い着るアンドロイドの姿が脳内で再生され、ざぁっと全身の血が退いた。
恐ろしい考えに、ざぁっと全身の血が退いた。
じゃあ、目の前にいる秋月は。
ひらひらと左手首の包帯がほどけて風に舞った。
太陽が沈む。
「今のノアは、肉を纏った歯車? それとも、歯車に纏わう肉の方なのかな?」
くすくすと、秋月は微笑う。
歯車と思えぬ滑らかな表情で。
高校生らしからぬ、妖艶な仕草で。
俺に近づいてきた秋月は、ゆっくりと俺の首に手を回した。
魔性の瞳。
今度は動けない。
「方舟から零れる肉塊と、ノアに選ばれた番なら、お兄さんはどっちを選ぶ?」
近づく赤紫色の瞳の奥に歯車が薄く透けていた。
その後、どうしたか覚えていない。
気が付けば俺は、カナの病室で荒い息を整えていた。
「どうしたの、春馬くん?」
いつも通り、表情を見せないカナに近寄り、小さく罪悪感を秘めたまま、俺はカナを抱きしめた。
◇◆◆◆◇◇◆◆◇◇◇◆
数日後、唐突に仕事場へ電話がかかってきた。
相手の名を聞けば、遠山だという。
そう言えば、連絡先を聞かれた時に職場の番号を書いたのだった。
女からの電話だと言うだけでざわつく職場。俺は先輩方に愛想笑いして受話器を受け取った。
そしてその電話を受けた後、俺は上司への早退連絡もそこそこに会社を飛び出していた。
電話越しの遠山の声はいつもと同じだった。
抑揚の少ない、軽い声。
しかし、少しだけ嬉しそうな声。
乃愛ちゃんが教えてくれたの。選択肢は二つだって。
嬉しそうだというのが、俺の手前勝手な妄想ならいい。
それなのに、何かを決意したような響きが耳に残っている。
着の身着のまま終院へ駆けつけ、受付に転がり込んだ。
早くノートに、と探すが、見当たらない。
そんな馬鹿な、と焦る俺ははっと気づいた。
受付の女性の耳に、栓が入っていない。
ということはコチラの声が聞こえている?
と、目の前のカバのような女性がふっとこちらを見上げる。
赤紫の眼だった。
背筋を一気に冷たいモノが駆け抜けた。
「遠山カナさんなら、ご本人の望んだ通り、裏に流しましたよ」
ノイズを含んだ多重に響く機械音声が女性の口から洩れる。
はっと気づけば、院内を埋めていた呻き声が小さくなっていた。あれだけ鳴り響いていた魍魎の声がほとんど聞こえない。
代わりに、カタカタカタ、と歯車の噛み合う音が其処彼処から近づいてくる。
目の前のカバからも、キリキリと犇めくような音がした。
赤紫の瞳の中に、歯車――
悲鳴を上げ、俺は終院を飛び出した。
藪を駆け抜け、白い肉塊が流れ着くあの海岸へ、必死で崖を下った。
たどり着く頃には、太陽は西へ傾いていた。
「……カナ」
俺の呼びかけに応えはない。
白色の肉塊が夕日を浴びてぎゅうぎゅうと押し合いへし合いする光景に、俺は吐き気を覚え、口元を抑えた。
もう、俺にはカナを見分けることなんてできない。
なあ、カナ。
お前も秋月に選択を問われたのか。
そして選んだのか?
肉塊として朽ちる道を――
ふらふらと終院に戻ってきた俺を待っていたのは、秋月だった。
「お兄さんの彼女さんはあっちを選んだね。残念。これじゃ、お兄さんとのハッピーエンドはなくなっちゃったかな」
無邪気に笑う秋月。
どうすることもできない無為な感情が腹の底から湧きあがってきた。
「貴様なんてことをしてくれたんだー! って顔してるね。すごいよ、お兄さん。まるでヒロインを殺されて覚醒した漫画の主人公みたい」
何を言っているんだ、コイツは。
自らの身体を歯車に差し出して、カナを追い込んで肉塊にして。
俺に何を選べと言っているんだ。
「さあ、時間だよ、お兄さん。ノアの方舟に乗るか、彼女さんと一緒に船から零れ落ちて肉塊になるのか」
歯車の音がする。
魍魎の声がする。
脳髄が揺さぶられる。
いつしか秋月の周囲を多くのアンドロイドが取り囲んでいた。
肉を求める歯車が、俺の身体を狙っている。
「お兄さんはどっちを選ぶの?」
頭が揺れる。
秋月の声が、秋月のモノでない声が、遠く、響く。
声が鳴り響くその揺れで、俺の眼からはガラス珠が零れ落ちた。半球を描く、黒っぽく色塗られたソレは、固いリノリウムの床に落ちて、砕け散った。
遠く、廊下の突き当たりの鏡には崩れ落ちた青年の姿が映っている。
苦悩の瞳は赤紫に充血し、肌の色は蒼白。
二十数年隠し通してきた、遺伝的弱体種の姿だった。
世界が揺れる。
まるでこのまま崩壊していくかのようだ。
いや違う、俺の感覚が揺れているだけで世界は変わっていないのか?
目に焼き付くのはセーラー服の少女。
聞こえるのは、カナの声。
――揺れているのは、世界か、俺か。
引用:プロムナード(道尾秀介)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!