八話
教団本部へ帰ってきた俺は、資料室で一人待たされていた。アリエスはなにやら用事があるらしく、席を外している。ぶっちゃけ、俺にかまってる暇などないのだろう。相当な魔術の使い手だとか言ってたし。
俺は再度、巻物の解読に集中した。教団の人間は魔法書は一通り暗記するらしい。なので、いまさら俺が読んだところで何か新たな発見などはないだろう。だが、これ以外にすることなどなかった。
巻物の二巻目以降は初歩の魔術が体系化されて載っていた。呪文や動作も一通り載っている。簡単な奴を二、三種類試してみたが、やはりというか、何の効果も発揮されなかった。そりゃそうか。ヤルコフがあれだけ苦労して唱えていた呪文を、俺が簡単にできるわけがない。
でももしかしたらという思いから、高度な火炎系の呪文も一応、試してみた。もちろん、炎のほの字も出なかった。異世界の非情さに俺は泣いた。選べるならイージーモードを選びたかった。
太陽は西の山に近づき、最後の日の光を街に投げかけていた。
しばらくしてアリエスが戻ってきた。浮かない顔だった。俺もそうだが。
「なにかわかりましたでしょうか」
アリエスの問いに対して、俺は答えに窮した。どうにかするなんて言ってはみたが、解決方法は見つかっていない。
帰りたい。それが俺の正直な気持ちだった。そんな俺の心を見透かしてか、アリエスはやさしい眼差しで俺に言った。
「よろしければ、リョウ様は街を脱出する集団を、護衛していただけますでしょうか」
それが教団の意向だとも付け足した。憐れみと失望と心苦しさと、色々な感情が混ざった目でアリエスは俺を見ていた。役立たずはさっさと出て行けと、暗に言われているのだ。例えそれがアリエスの本意でなくとも。
何か言おうとしても言葉にならない。俺は力なく頷いた。
六頭立ての幌つき荷馬車が四両ほど並んでいた。街のを囲う城壁の手前、少し開いた広場に俺は居た。
大勢の人がいる割に、あたりは静かだった。荷馬車は二十人以上乗れる大きなもので、既に中には子供や赤子を抱いた女性がみな下を向いて座っていた。これから先の見えない脱出劇が始まるのだ。失敗すれば命は無い。そして運良く助かったとしても、その先には家もなく家族もいない流浪の旅路が続くことになる。
俺は馬車の前で指示を飛ばしている中年の兵士へ話しかけた。この隊長っぽい人だけは、教団のローブに似た刺繍のはいったケープを羽織っている。多分、日本語が通じるだろう。
「あの、馬車の護衛をしろと言われてきたのですが」
おそらくこの場の指揮をまかされているであろう男は、俺をじろりと睨んだ。
「あんたが四人目か」
隊長の質問に、俺は頷いた。召還された役立たずの四人目、とは言われなかった。だが視線は省略された言葉も含んでいるかのようだった。
「魔法は使えるか。光球が出せる程度でいい」
隊長はそう言って何やら杖のようなものを渡そうとしてきた。俺は首を横に振った。
「じゃあ、これだ」
隊長は近場の箱から一振りの剣を取り出して俺に持たせた。鞘から抜いたそれは、両刃の直刀だった。刃渡りは1メートルもない。ロングソードという奴だろう。とにかく重かった。左手が鞘で塞がっているため、右手だけで剣を持っている。なのですぐに腕が震えだした。この重さの剣を思いっきり振り回したら、腕が抜けそうだ。
不甲斐なさそうな俺に隊長は、一番前の荷馬車に乗れと指示した。どうやら隊長を含めた兵士達は馬で移動するらしい。俺は乗馬の経験もなかったので馬車に乗せてくれるのはありがたかった。お荷物扱いも仕方ないと思っていたが、隊長は「馬車にとりついてきた妖魔をそれで切れ」と力強い言葉をかけてくれた。見れば隣には十歳くらいの男の子が俺と同じく短剣を握って震えていた。こういうときに信心深い人なら神に祈りでも捧げるのだろうが、生憎俺は無宗教だった。いまからでも遅くない。お釈迦様やイエス様にでもなんとかコネを作れないだろうか。困ったときの神頼みというが、いまこれからまさにそんな事態に突入しそうな勢いだった。
馬車による脱出は日の入りと同時、壁が爆破された直後に敢行だそうだ。俺は場の緊迫感に飲まれていたが、よくよく考えればまだ二時間以上の時間があった。
いまのうちにトイレに行っておこうと馬車を降りたその時、大音響と共に街の城壁の一部が崩れ落ちた。壁の岩が飛び散り、砂煙があたりに舞う。
崩れた城壁の残骸の下から、朝に見た赤銅色の人型が這い出てきた。それも複数だ。
広場は戦場になった。剣の打ち合わされる音や怒号が飛び交い、おそらく魔法だろう光の矢が行く筋も飛んだ。俺は馬車に戻り、震えながらとなりの少年と一緒に馬車に怪物が近づかないよう、あらゆる神に祈った。
ほどなく戦いの音は止んだ。馬車の外を見ると、赤銅色の人型が何体も倒れていた。そして明らかにこの国の兵士と思しき人も何人か倒れていた。
壁の瓦礫をどかすとまだ地下に穴が開いており、数体の妖魔が残っているとのことだった。昼間、街に侵入した妖魔の使っていたトンネルがここにも続いており、その穴が重みで壁を壊したと隊長が説明してくれた。
俺の予想に反して兵士は強かった。一対一なら妖魔にも引けを取らないようだ。これは、この馬車に乗っていれば助かるのではないか。そんな希望は崩れた壁の外を見たとき消し飛んだ。
夕闇が迫る麦畑のあちこちで、こちらを見つめる妖魔たちの影が蠢いていた。それははるか遠くの丘にまで続いていた。
無理だ。数が違いすぎる。ピラニアで満杯の100メートルプールを犬が泳いで渡るようなものだ。
俺はトイレに行くと見せかけて、広場から逃げ出した。どこへ逃げても変わらないのはわかっていたが、あの馬車に戻ることだけはできなかった。