幸福論
テーマ「幸福」 禁則「手抜き」
「人間にとって幸福とは何か」
ある時マスターはそう質問してきた。
マスターは時々こうして、僕の学習成果を計ってくる。だが僕もここに来てから、人間の時間に換算して既に一世紀。そろそろ「見習い」から卒業して、マスターに信頼されるような仕事がしたい。
今まで雲の隙間から垣間見た人間達の人生を思い出しながら、僕は小さな咳払いを一つした。
「例えば、好きなものをたくさん食べられることです」
「それから?」
「やりたい仕事に就くこと」
「他には?」
「愛する人と結ばれること」
「ふむふむ、後は?」
マスターは長く伸びた髭をふしくれた手で撫でながら、目線でまだまだ解答を求めてくる。僕は思い付く限りの答え――つまり毎日良いことが起こるとか、宝くじやギャンブルで億万長者になるとか、会社を興して事業を成功させるとか、総じて幸せだと思われること――を片っ端から並べた。
「なるほど。それが君の考える人間の幸せのすべてか?」
皺の奥に輝く温和な瞳が、大切なことを忘れているよと囁く。僕はマスターから三歩離れると跪き、白い大理石の敷き詰められた床に両手をつけた。
「これをごらんください」
意識を集中し、過去に見た光景を鮮明に思い浮かべる。細かなところまで思い出し、床へ大きく投影した。
そこはとある病院の小さな病室。ベッドに横たわった老人はたくさんの機械に繋がれ、涙する家族に囲まれている。老人の体は骨と皮に涸れ果て、その顔は既に青白く息もか細い。しかし口元には満足そうな微笑が湛えられていた。
「この老人は決して金持ちではなかったけれど、仕事では評価と信頼を得、家族にとても愛されていました。そして今、皆に惜しまれつつ看取られようとしています。彼のように、人生に満足し最期を迎えることも、人間の幸福の一つです。いや、もしかしたら最大の幸福かもしれない」
「なるほど、良く気が付いたね、ネオ。でもまだ一つ忘れているよ。しかも、とても重要なことだ」
「とても?」
「そう、とても」
さて困った。にっこりと微笑むマスターの表情からは、何のヒントも読みとれない。これに答えられないと、僕はいつまでも「見習い」だ。つい頭を抱えた僕に、マスターがパチンと指を鳴らした。
「はい時間切れ。残念だね、じゃあ、自分で確かめておいで」
「ええええーっ!」
冗談じゃない、それじゃますます出世が遅くなるじゃないか!
待ってくれと慌てる僕に構わず、マスターはひらひらと手を振った。
「うわ、うわわわわっ!」
体が宙に浮き、薄く透けていく。まるで空間に溶け込むみたいだ。薄らぐ意識のなかで、僕はマスターをひとでなしと罵った。
*
次に気が付くと、そこは薄暗かった。
狭い。そして温かくて柔らかで、何だか懐かしいような不思議な場所。膝を抱えた形で、まるで丈夫な風船に閉じ込められたように身動ぎが出来ない。背や腕にあたる感触から、全身がぬるぬるとした何かに覆われているのが分かる。そのうちにへその辺りがとくとくと早い脈を打ち始めた。
「うわ!」
急に壁が強く縮んだ。
苦しい、息が詰まる。頭から絞り出されそうだ。全身に力を入れて壁を押し返そうとするけれど、体が言うことを聞かない。
壁越しに伝わってくるのは、苦しげに唸る女の呻きと必死に継がれる呼吸の気配。僅かずつ押し出され、頭が太い紐で絞られるみたいに痛む。千切れるんじゃないかと戦いた矢先、壁の収縮は収まった。
「もう少し……次に波が来たら……」
励ますような調子で女が話している。何かが頭の後ろで蠢いて、まるで誰かに触られているみたいだ。するとまたあの収縮が、更に力を増し襲って来た。
「いきんで!」
女の鋭い叫びに反応し、また低い唸りが伝わってくる。
苦しくて苦しくて、心臓がドキドキして爆発しそうだ。頭も痛くて、必死に圧迫から逃れようと体を回転させる。そして無理矢理足で壁を蹴った瞬間、ずるりと音を発て全身が滑った。
「良し、出たぞ!」
力強い男の声に引き出され持ち上げられる。辺りが真っ白で何も見えず、そして急に寒くなった。
でもまだ苦しい、息、息をしなければ。そう思うと鼻の奥が酷く痛み、喉がちりちり疼いた。
吸え、吸うんだ!
「はっ……」
肺が空気で満たされるとともに、この肉体の記憶が僕へ流れ込んで来る。母の優しい呼び掛けと労る心、流れかけた肉体を全力で留めてくれた医師の努力。この命が周囲に切望され大切に育まれてきたことを、僕は一瞬で悟った。
この世に一つの命として生まれ出る奇跡。ああ、何という幸せ――
「う、ふ、ふぎゃあああっ!」
「ああ、元気だねえ! よしよし、どこも欠けてないわ。五体満足、立派な男の赤ちゃんですよ!」
励ましていた女の声が体を擦り、顔や手足を拭う。今までの苦しさと言い表せぬ感動が泣き声となり、部屋と自分の中に反響した。
これが、マスターの求めていた答えなんだ。
必死に息を継いでいると、何か温かいものにくるまれ、そのまま柔らかな肌に預けられる。見えない代わりに探ろうと伸ばした手を、細いけれどしっかりとした指が受け止めてくれた。
「良かった……待ってたよ。ちゃんと生まれてくれて、ありがとう」
疲れを滲ませながらも、母の声は安堵と感謝に満ちている。うつ伏せで抱かれた肌からは不思議なことに、深い眠りへ誘うような甘くて良い匂いがした。
――心地良い眠さの中で、僕はぼんやりとマスターから学んだことを思い出していた。生まれてすぐに赤ん坊が眠るのは、出産の疲れを癒すためと、魂に蓄積された古い記憶をリセットするためだ。
僕はこれから眠る。今までの記憶をすべて意識の底に沈め、目覚めた時には真っさらな一人の「人間」となる。再び記憶が完全に戻るのは、この肉体の天寿をまっとうしてからだ。その時こそマスターにきちんと答えられるだろう。
人間には「この世に生まれいづる、奇跡のような幸福」があるのだと。
これで僕もようやく「見習い」から正式な「魂の使者」に格上げだ。その日を夢見つつ、僕はゆっくりと眠りの中へ沈んだ。
【了】
最後まで字数オーバーなフリーダムさでごめんなさい。
とても楽しかったです。
読んで下さった皆様、共に参加された作者さま方、そして主催してくださった無言ダンテ様、ありがとうございました。




