世界を救うために、聖女は魔王と一緒に消えることにした
「アルバ様!」
その名が戦場に響いた瞬間、セラスは聖剣を取り落としかけた。
聞き間違いだと思った。
そうであってほしいと願った。
けれど、傷ついた魔族が縋るように呼びかけた先で、一人の男がゆっくりと振り返る。
黒い髪。
見慣れた顔。
いつも深いフードの下に隠されていた頭には、人間にはあるはずのない二本の角。
手袋で覆われていた指の先には、人のものではない黒い爪が伸びている。
「……アルバ、さん?」
呼びかけた声は、戦場の喧騒に呑まれそうなほど小さかった。
それでも男には届いたらしい。
金色の瞳が、まっすぐにセラスを見る。
八歳のとき、泣いていた自分に飴をくれた男。
十三歳のとき、聖女にすべてを押しつける巡礼者たちを鼻で笑ってくれた男。
十七歳の最後の夜、
――逃げろ。
そう言ってくれた男。
ノクス・アルバ。
その男が。
「……どうして」
セラスの唇が震える。
誰よりも恐ろしい敵として、幼い頃から教えられてきた存在。
十八歳になった自分が、必ず討たなければならない相手。
魔王だった。
アルバは何も答えなかった。
ほんの一瞬だけ、ひどく苦いものを見るような顔をして。
次の瞬間には、魔族を統べる王の顔に戻っていた。
そして戦いは続いた。
*
それから、どれほど経ったのだろう。
崩れかけた魔王城の最奥で、立っている者は二人しかいなかった。
つい先ほどまで、この大広間では人と魔族が命を削り合っていた。
砕けた石床には血が広がり、折れた剣や槍が散乱している。
勇者も騎士も、アルバに付き従っていた魔族たちも、今は誰一人として動かない。
死んではいない。
少なくとも、セラスにはまだ彼らの命を感じ取ることができた。
けれど、起き上がれる者はいなかった。
最後に残った二人もまた、立っているのが不思議なくらい傷ついている。
セラスの白い法衣は泥と血で汚れ、呼吸をするたび脇腹に鋭い痛みが走った。
聖杖はとうに折れ、今は勇者から託された聖剣だけを両手で握っている。
その切っ先を向けた先に、アルバがいた。
黒い衣服は裂け、片方の角は途中から折れていた。
肩で息をしながら、それでも彼は立っている。
ずっと知っていた人と同じ顔で。
知らなかった魔王の姿で。
セラスには、いまだに二つがうまく重ならなかった。
アルバが口を開いた。
「俺を殺せ、セラス」
その声は、ひどく静かだった。
「……アルバさん」
セラスが名を呼ぶと、彼はわずかに眉を寄せた。
「今さらその呼び方はやめろ」
「でも」
「俺は魔王だ」
「……はい」
「お前が殺しに来た相手だ」
「……はい」
返事をするたび、胸の奥が痛んだ。
アルバはセラスを見つめる。
「剣を上げろ」
セラスは動かなかった。
「セラス、聞こえなかったか」
「聞こえています」
「やれ」
「……」
「お前はそのために、ここまで来たんだろう」
その言葉に、セラスの指が聖剣の柄を強く握った。
そうだ。
そのために来た。
十八歳になったら勇者たちと共に旅立ち、魔王を討つ。
物心ついた頃から、何度も何度も聞かされてきた。
それが聖女の役目なのだと。
それが自分の生まれた意味なのだと。
なのに。
セラスの剣先は上がらない。
目の前にいる男が、どうしても「倒すべき魔王」だけには見えなかった。
だって、この人は。
自分が八歳だったあの日から、一度だって――。
*
八歳の頃。
セラスは神殿の裏庭で、一人で泣いていた。
聖女としての修行が始まって、まだ半年ほどしか経っていなかった。
朝から祈り。
昼は治癒術。
夜は古代語と歴史。
食事も睡眠も決められた通りで、甘い物は精神を乱すからと与えられなかった。
泣くことも好ましくないと言われていた。
聖女は人々に希望を与える存在なのだから、いつでも穏やかに微笑んでいなければならない、と。
だからセラスは、人のいない裏庭まで来て泣いていた。
ある日、そこに一人の男が現れた。
黒い外套。
深く被ったフード。
手には革の手袋。
どう見ても神殿の人間ではない。
「……なぜこんな所で泣いている」
低い声で問われ、セラスは肩を跳ねさせた。
「泣いていません」
「そうか」
「はい」
「それなら、その顔の水は雨か」
「……泣いています」
正直に言うと、男は小さく息を吐いた。
本当は、その瞬間に殺せた。
魔族であるアルバには分かっていた。
目の前の少女から漂う、澄み切った聖なる力。
自分とは正反対の力。
いつか己を滅ぼすために育てられている、次代の聖女。
今なら簡単だった。
首を折ることだってできる。
爪で胸を貫くことだってできる。
それなのに。
「何があった」
アルバの口から出たのは、そんな言葉だった。
「……修行が、うまくできなかったんです」
「それだけか」
「先生に怒られました。聖女なのだから、もっと頑張らないといけないって」
「ふん」
「私がちゃんとできないと、困る人がたくさんいるそうです」
八歳の少女は、それを当たり前のことのように言った。
アルバはしばらく黙ってから、思いついたように外套の内側へ手を入れた。
「ほら」
差し出されたのは、小さな包みだった。
セラスは目を瞬く。
「これは?」
「飴だ」
「……あめ?」
「知らないのか」
セラスは首を振った。
アルバは少し呆れた顔をした。
「食え」
「でも、知らない人から食べ物をもらってはいけないと」
「じゃあ食うな」
そう言って引っ込めようとすると、セラスは慌てて包みを受け取った。
「食べます」
「どっちだ」
包みを開く。
ころんとした琥珀色の飴が、一粒だけ入っていた。
恐る恐る口に入れる。
次の瞬間、セラスの目が大きくなった。
「……甘い」
「飴だからな」
「すごく甘いです」
「そうだな」
「こんなに美味しいもの、初めて食べました」
あまりにも嬉しそうに言うものだから、アルバは何も返せなくなった。
この少女を殺しに来たはずだった。
なのに、飴玉一つで目を輝かせる姿を見ていたら、すっかり毒気を抜かれてしまった。
「おじさん」
「それはやめろ」
「えっ」
「おじさんではない」
「……では、お名前を聞いてもいいですか?」
少し迷ってから、アルバは答えた。
「ノクス・アルバだ」
「ノクス・アルバさん」
「長い」
「では、アルバさん」
少女はそう呼んで、初めて笑った。
「お前の名前は」
「……セラス」
それが二人の最初の出会いだった。
*
「覚えているか」
現在。
魔王城で、アルバが不意に言った。
セラスは剣を握ったまま、彼を見る。
「何をですか」
「最初に会った日のことだ」
「……覚えています」
「そうか」
「飴をもらいました」
「そこか」
「大切なことです」
こんな状況なのに。
セラスは少しだけ笑った。
アルバは苦々しそうに顔を歪める。
「その時に殺しておけばよかった」
口調は冷たい。
けれど、セラスにはもう分かっていた。
この人は、自分を殺せなかったのだ。
一度だけではない。
何度も。
*
二度目に会ったのは、セラスが十三歳の頃だった。
その日、神殿には聖女を見るため、大勢の巡礼者が訪れていた。
十八歳になれば、セラスは勇者たちと共に魔王討伐へ旅立つ。
そのことは、すでに王国中へ知れ渡っている。
セラスの周囲には神官や神殿騎士が控え、巡礼者たちは一人ずつ彼女の前へ進んでは、祈るように頭を下げていた。
「聖女様、どうか魔王を倒してください」
「はい」
セラスは微笑む。
「息子が魔族に殺されたのです。どうか仇を」
「はい」
「あなた様だけが希望です」
「はい」
「どうか世界を平和に」
「はい」
何度も、何度も。
セラスは同じ笑顔で頷いた。
その日、別の用で王都へ潜り込んでいたアルバは、偶然その巡礼者の列に紛れていた。
魔族の中には、人間とほとんど変わらない姿の者もいる。
アルバも角をフードで、爪を手袋で隠せば、少し背の高い男にしか見えなかった。
やがて列の先にいる少女を見つけ、足を止める。
五年前。
神殿の裏庭で、一粒の飴に目を輝かせていた少女だった。
ずいぶん大きくなった。
そして、聖なる力も以前とは比べものにならない。
――今なら、まだ殺せる。
そう思った。
これ以上育てば、本当に自分を討つ存在になる。
だが、巡礼者たちの言葉を聞いているうちに、胸に湧いたのは殺意とは別の苛立ちだった。
アルバは、自分の順番が近づいたところで小さく吐き捨てる。
「……随分と勝手なものだな」
「え?」
すぐ近くにいたセラスが振り向いた。
アルバは舌打ちする。
聞かれていた。
「自分たちは安全な場所にいて、お前みたいな子どもに殺してこいと頼むのか」
「……」
「頭を下げれば、それで役目を果たしたつもりらしい」
セラスはぽかんと彼を見つめた。
さすがに言い過ぎたか。
そう思った次の瞬間。
「……ふふ」
セラスが笑った。
巡礼者たちに向けていた、きれいに作られた微笑みではない。
困ったように口元を押さえながら、それでもどこか嬉しそうに。
「何がおかしい」
「いえ……そんなことを言う人、初めてだったので」
「怒らないのか」
「少しだけ、ほっとしました」
「……そうか」
そこでセラスは、改めて男の顔を見つめた。
「あれ?」
「なんだ」
「アルバさん?」
アルバは黙った。
セラスの表情がぱっと明るくなる。
「やっぱり」
「よく分かったな」
「覚えていますから」
セラスは周りに分からないように、飴の包みを開ける動作をして微笑む。
そして、少し不思議そうに首を傾げる。
「アルバさんは、あまりお変わりになりませんね」
「……セラスは、背が伸びたな」
「はい。私だけ大きくなったみたいです」
長命種のアルバにとって、五年など短い。
だがセラスにとっては違う。
あと五年。
それだけで、この少女は自分を殺すために送り出される。
「そういえば、最近習ったんです」
「何をだ」
「アルバさんのお名前です。ノクス・アルバって、古い言葉で『白夜』という意味なんですよね」
「そんなことまで神殿では教えるのか」
「古語の授業がありますから」
セラスは空を見上げた。
「日が沈まない夜なんて、不思議ですよね」
「そうか?」
「はい。夜なのに明るいなんて、私には想像できません」
「世の中には、お前の知らないものがいくらでもある」
「……いつか見てみたいです」
アルバは何も答えなかった。
その言葉が叶うより先に。
彼女は自分を殺すため、旅立つことになる。
それなのにセラスは、当たり前のように笑っていた。
*
三度目に会ったのは、討伐へ出発する前夜だった。
セラスは十七歳。
十八歳の誕生日を翌日に控えていた。
翌朝には、勇者たちと共に王都を発つ予定だった。
夜更け。
神殿の庭に、アルバは立っていた。
なぜ来たのか、自分でも分からなかった。
殺すためではない。
もう分かっていた。
自分には、この少女を殺せない。
それなら、何をしに来たのか。
それも分からない。
ただ、明日になればセラスが自分を殺すための旅に出る。
そう思ったら、気づけばここにいた。
「アルバさん?」
背後から声を掛けられ、アルバは振り返った。
白い寝間着の上に外套を羽織ったセラスが立っている。
「どうしてここに」
「……セラス、逃げろ」
挨拶もせず、アルバは言うと、セラスは目を瞬いた。
「何からですか?」
「全部だ」
「全部?」
「聖女をやめろ。神殿から出ろ。この国から離れろ。誰もお前を知らない場所へ行けばいい」
セラスは黙った。
アルバは続けた。
「お前一人くらい消えたところで、世界は終わらん」
「でも」
「でも、じゃない」
「私が逃げたら、次の子が選ばれます」
アルバの眉が動いた。
「次の子?」
「聖女候補がいるんです。十二歳の子です」
セラスは静かに笑った。
「私が逃げたら、きっとその子が選ばれます」
「……」
「私よりも小さな子に、今度は魔王を殺してきなさいって言うでしょう」
「だから、お前が行くのか」
「はい」
「死ぬかもしれないぞ」
「知っています」
「怖くないのか」
少しだけ間があった。
「……怖いです」
その答えに、アルバは息を止めた。
セラスはずっと、平気そうに見えた。
何を言われても微笑んでいた。
何を命じられても「はい」と答えた。
だが、本当は怖かったのだ。
「なら逃げろ」
アルバの声が低くなる。
「怖いなら逃げればいい」
「でも、私が逃げたら」
「他人のことなど知るか」
「私は知っています」
セラスは困ったように笑った。
「その子の顔を知っているから」
アルバは何も言えなくなった。
自分が魔王になったのも、同じだった。
先代魔王から瘴気を受け継いだ。
魔族を守るため。
自分が受け取らなければ、別の誰かが器にされる。
だから引き受けた。
「……お前は馬鹿だな」
「よく言われます」
「褒めていない」
「分かっています」
セラスが少し笑った。
それから、何か思い出したように顔を上げる。
「そうだ。アルバさん」
「なんだ」
「私の名前の意味も習ったんです」
「名前?」
「はい。セラスは、古い言葉で『オーロラ』という意味なんですって」
アルバは首を傾げた。
「それを俺に言ってどうする」
「どうもしません」
「なら、なぜ」
セラスはほんの少しだけ照れたように笑った。
「もしアルバさんに会えたら、聞いてほしかったんです」
その言葉を聞いた瞬間。
アルバは胸の奥に生じた感情の名前を、考えないことにした。
考えてはいけないと思った。
「白夜と、オーロラです」
セラスが続ける。
「どちらも空にあるものですね」
「それだけか」
「それだけです」
「くだらん」
「ふふ」
聖女のものではない、あの笑顔だった。
アルバは思った。
やはり来なければよかった。
こんなものを覚えてしまったら。
ますます、殺せなくなる。
*
「……旅立ちの前夜は」
魔王城で、アルバが言った。
セラスは顔を上げた。
「え?」
「お前に会いに行ったんだ」
セラスが目を見開く。
「どうしてですか」
「わからない」
アルバは笑った。
ひどく疲れた笑いだった。
「自分でも分からなかった。お前が魔王を殺しに行かされる。それが気に食わなかった」
「……」
「自分で選んだわけでもないのに」
セラスは息を呑んだ。
「俺はお前を殺すことも、逃がすこともできなかった」
「……アルバさん」
「だから、もう終わらせろ」
彼は両腕を下ろした。
完全に無防備だった。
今なら刺せる。
聖剣を胸に突き立てればいい。
アルバの中に蓄えられた瘴気は、聖女の力によって浄化される。
魔王は死ぬ。
世界は救われる。
それが正しい。
ずっとそう教えられてきた。
「やれ、セラス」
アルバが言う。
「お前はそのために来たんだろう」
「……はい」
「なら、やれ」
セラスは聖剣を上げた。
切っ先をアルバの胸へ向ける。
あと一歩。
踏み込めばいい。
「セラス」
名前を呼ばれた。
その瞬間、八歳の自分が蘇った。
泣いていた自分。
差し出された飴。
十三歳の自分。
人々に頭を下げられ続けていた時、隣で小さく皮肉を言った声。
十七歳の自分。
逃げろと言われた夜。
そして、今も。
聖女ではなく、セラスと呼んでくれたのは。
剣先が震えた。
そして。
「嫌です」
声が出た。
アルバが目を見開いた。
セラス自身も驚いていた。
これまで、何度そんな問いを投げかけられてきただろう。
聖女になれますね。
「はい」
治癒の訓練を続けられますね。
「はい」
十八歳になったら魔王を討ちますね。
「はい」
もし討伐できなければ、自らを楔として魔王を封じますね。
「はい」
ずっと。
ずっと選択肢などないかのように、そう答えてきた。
なのに。
今、初めて。
「嫌です」
セラスはもう一度言った。
「私は、アルバさんを殺したくありません」
アルバの顔から表情が消えた。
「……何を言っている」
「そのままの意味です」
「俺は魔王だ」
「知っています」
「たくさん人間を殺した」
「知っています」
「お前の仲間も、俺が傷つけた」
「はい」
「それでもか」
セラスは少し俯いた。
「それでもです」
アルバが歯を食いしばる。
「ふざけるな」
「ふざけていません」
「俺を殺せば終わるんだぞ」
「分かっています」
「それなら――」
「もう一つ方法があります」
アルバが止まった。
セラスは聖剣を床へ落とすと、甲高い音が、大広間に響いた。
「魔王を倒せなかった時のために、教えられている術があります」
「……何だ」
「封印術です」
アルバの目が細くなる。
「魔王と、魔王が抱える瘴気を、世界の外へ封じます」
「それなら最初から使えばよかっただろう」
「……簡単には使えません」
「なぜだ」
セラスは微笑んだ。
「聖女も一緒に行くからです」
沈黙。
アルバの顔から、最後の血の気が引いた。
「……何だと」
「聖女自身が楔になります。肉体を捨てて、魂だけになって、魔王と瘴気を永遠に世界の外へ留めるんです」
「……やめろ」
「アルバさん?」
「やめろ!」
初めてだった。
アルバが声を荒らげた。
「そんなものを使うな!」
「でも」
「俺を殺せ」
「嫌です」
「セラス!」
「嫌です!」
セラスも負けずに叫んだ。
二人の声が、壊れた魔王城に響く。
アルバは荒い息を繰り返した。
「……なぜだ」
やがて、掠れた声で言った。
「なぜ、お前まで来る必要がある」
セラスは答えなかった。
「俺は死んでもいい」
「私は嫌です」
「お前が嫌でも、俺は構わない」
「私は構います」
「なぜだ」
セラスは口を開いた。
けれど。
言葉が出なかった。
好きだから。
そう言えばいいのだろうか。
たぶん。きっと。
今なら分かる。
八歳の頃から、ずっとではない。
いつからだったのかは分からない。
ただ、十三歳の自分がアルバを見つけて嬉しかった理由。
十七歳の自分が、名前の意味を知った時に真っ先に彼を思い出した理由。
そして今。
剣を向けることができない理由。
全部が同じ場所へつながっていた。
けれど、その言葉を口にするのは少し違う気がした。
だからセラスは、別のことを言った。
「私、ずっと『はい』って言ってきたんです」
「……」
セラスは笑った。
「封印術を教えられた時も、『はい』って言いました」
アルバは黙って聞いている。
「魔王を倒せなかったら、あなた自身を楔にして封じなさいって。そう言われて、私は『はい』って」
「……」
「でも、今は違います」
セラスは一歩、アルバへ近づいた。
「これは、私が決めました」
「セラス」
もう一歩。
「世界は救います」
さらに一歩。
「でも、アルバさんを殺したくない」
そして。
「私も、自分で選びたいんです」
アルバは長い間、何も言わなかった。
やがて、ひどく疲れたように目を閉じた。
「……馬鹿だな、お前は」
「はい」
「それを選んだら、二度と戻れない」
「はい」
「肉体もなくなる」
「はい」
「誰にも会えない」
「はい」
「世界から切り離された存在は、どうなる?」
「徐々に人々の記憶から、消えていきます」
「お前のことを、誰も覚えていなくなる」
セラスは少し考えてから、尋ねた。
「アルバさんは?」
「何?」
「アルバさんは、私を忘れますか?」
アルバは呆れたようにセラスを見た。
「忘れるわけがないだろう」
セラスは笑った。
今までで一番、嬉しそうに。
「じゃあ、大丈夫です」
「……本当に馬鹿だ」
アルバの声は、少しだけ震えていた。
*
セラスが最後の術式を唱え始めた頃。
倒れていた勇者が、ゆっくりと目を開いた。
「……聖女様……?」
霞む視界の向こうに、白い光が見える。
聖女の姿だった。
その隣に、魔王アルバがいる。
二人の足元には巨大な魔法陣が広がり、光が柱となって天井を貫いている。
「何を……して……」
勇者が起き上がろうとする。
だが、体が動かない。
「聖女様!」
別の騎士も目を覚ました。
セラスが振り返る。
ほんの一瞬。
勇者たちを見た。
その顔は、不思議なくらい穏やかだった。
「ありがとうございました」
声が届いた。
「お待ちください!」
勇者が叫ぶ。
「聖女様!」
光が強くなる。
セラスは答えなかった。
ただ、小さく微笑んだ。
その隣でアルバが何かを言う。
何を言ったのかは、勇者たちには聞こえない。
次の瞬間。
二人の姿は、光と共に消えた。
残ったのは、静寂だけだった。
そして世界から、瘴気も消えた。
魔物の狂暴化は止まり。
空を覆っていた黒雲は晴れ。
長く続いた人と魔族の戦争も、終わりへ向かっていった。
人々は聖女を讃えた。
魔王と共に消え、世界を救った聖女。
しかし十年が経つ頃。
勇者は、ふと気づいた。
彼女の声は覚えている。
笑った顔も、なんとなく覚えている。
けれど。
名前だけが出てこない。
さらに時が経つと、顔も曖昧になった。
伝説にはただ、こう残された。
かつて聖女が魔王を封じ、世界を救った、と。
聖女の名も。
魔王の名も。
もう、誰も知らなかった。
*
世界の外には、夜も昼もなかった。
ただ暗闇があり。
その中に、無数の小さな光が浮かんでいた。
星のようだった。
本物の星ではない。
そもそも、ここには空すらない。
それでもセラスには、星空に見えた。
「……きれいですね」
『そうか?』
すぐそばから、アルバの声がする。
身体はない。
目もない。
けれど、彼がそこにいることだけは、はっきり分かった。
「星みたいです」
『お前は呑気だな』
「そうでしょうか」
『封印されて最初に言う言葉が、それか』
セラスは笑った。
声だけのはずなのに、不思議と笑ったこともアルバには伝わっている気がした。
しばらく二人で、何もない星空を眺めた。
時間というものがあるのかも分からない。
一瞬だったかもしれない。
百年だったかもしれない。
やがてセラスが言った。
「そういえば」
『なんだ』
「もう、飴は食べられませんね」
沈黙。
『……今さら気にするのがそれか』
「少しだけ残念です」
『馬鹿だな』
「はい」
また静かになる。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
誰もいない。
世界の音も聞こえない。
もう二度と帰れない。
それでも、一人ではない。
「アルバさん」
『今度はなんだ』
「覚えていますか」
『何を』
「名前の話です」
アルバは少し黙った。
『白夜とオーロラか』
「はい」
セラスは嬉しくなった。
ちゃんと覚えていてくれた。
「あとで知ったんですけどね」
『何をだ』
「白夜の空では、オーロラは見えないんですって」
『……そうか』
「空が明るすぎるから」
『なるほどな』
「だから、本当なら」
セラスはそこで言葉を切った。
本当なら。
白夜とオーロラは、一緒の空にはいられない。
聖女と魔王も。
人と魔族も。
殺す者と、殺される者も。
本当なら。
けれど。
『セラス』
アルバが呼んだ。
「はい」
『ここは、お前の知っている空じゃない』
セラスは少しだけ驚いて。
それから、笑った。
「……そうですね」
ここには白夜もない。
朝も来ない。
夜も明けない。
世界の理屈から外れた、永遠の星空。
だから。
手を伸ばした。
肉体はないはずなのに。
何かに触れた。
温度もない。
形もない。
それでも、アルバの手だと分かった。
向こうからも、そっと握り返される。
「アルバさん」
『なんだ』
「ずっと一緒ですね」
長い沈黙のあと。
アルバの声がした。
『……馬鹿だな、お前は』
「はい」
暗闇の中で、二人は初めて同じ空にいた。
そして彼らの声だけは、いつまでも途切れなかった。




