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異世界・ファンタジー系短編/中編集

世界を救うために、聖女は魔王と一緒に消えることにした

作者: 源泉
掲載日:2026/09/27

「アルバ様!」



その名が戦場に響いた瞬間、セラスは聖剣を取り落としかけた。


聞き間違いだと思った。

そうであってほしいと願った。


けれど、傷ついた魔族が縋るように呼びかけた先で、一人の男がゆっくりと振り返る。


黒い髪。

見慣れた顔。


いつも深いフードの下に隠されていた頭には、人間にはあるはずのない二本の角。


手袋で覆われていた指の先には、人のものではない黒い爪が伸びている。



「……アルバ、さん?」



呼びかけた声は、戦場の喧騒に呑まれそうなほど小さかった。


それでも男には届いたらしい。

金色の瞳が、まっすぐにセラスを見る。


八歳のとき、泣いていた自分に飴をくれた男。


十三歳のとき、聖女にすべてを押しつける巡礼者たちを鼻で笑ってくれた男。


十七歳の最後の夜、


――逃げろ。


そう言ってくれた男。


ノクス・アルバ。


その男が。



「……どうして」



セラスの唇が震える。


誰よりも恐ろしい敵として、幼い頃から教えられてきた存在。

十八歳になった自分が、必ず討たなければならない相手。


魔王だった。


アルバは何も答えなかった。


ほんの一瞬だけ、ひどく苦いものを見るような顔をして。

次の瞬間には、魔族を統べる王の顔に戻っていた。


そして戦いは続いた。



*



それから、どれほど経ったのだろう。


崩れかけた魔王城の最奥で、立っている者は二人しかいなかった。


つい先ほどまで、この大広間では人と魔族が命を削り合っていた。


砕けた石床には血が広がり、折れた剣や槍が散乱している。

勇者も騎士も、アルバに付き従っていた魔族たちも、今は誰一人として動かない。


死んではいない。

少なくとも、セラスにはまだ彼らの命を感じ取ることができた。


けれど、起き上がれる者はいなかった。


最後に残った二人もまた、立っているのが不思議なくらい傷ついている。


セラスの白い法衣は泥と血で汚れ、呼吸をするたび脇腹に鋭い痛みが走った。

聖杖はとうに折れ、今は勇者から託された聖剣だけを両手で握っている。


その切っ先を向けた先に、アルバがいた。


黒い衣服は裂け、片方の角は途中から折れていた。

肩で息をしながら、それでも彼は立っている。


ずっと知っていた人と同じ顔で。

知らなかった魔王の姿で。


セラスには、いまだに二つがうまく重ならなかった。


アルバが口を開いた。



「俺を殺せ、セラス」



その声は、ひどく静かだった。



「……アルバさん」



セラスが名を呼ぶと、彼はわずかに眉を寄せた。



「今さらその呼び方はやめろ」


「でも」


「俺は魔王だ」


「……はい」


「お前が殺しに来た相手だ」


「……はい」



返事をするたび、胸の奥が痛んだ。

アルバはセラスを見つめる。



「剣を上げろ」



セラスは動かなかった。



「セラス、聞こえなかったか」


「聞こえています」


「やれ」


「……」


「お前はそのために、ここまで来たんだろう」



その言葉に、セラスの指が聖剣の柄を強く握った。


そうだ。

そのために来た。


十八歳になったら勇者たちと共に旅立ち、魔王を討つ。


物心ついた頃から、何度も何度も聞かされてきた。


それが聖女の役目なのだと。

それが自分の生まれた意味なのだと。


なのに。


セラスの剣先は上がらない。


目の前にいる男が、どうしても「倒すべき魔王」だけには見えなかった。


だって、この人は。

自分が八歳だったあの日から、一度だって――。



*



八歳の頃。


セラスは神殿の裏庭で、一人で泣いていた。


聖女としての修行が始まって、まだ半年ほどしか経っていなかった。


朝から祈り。

昼は治癒術。

夜は古代語と歴史。


食事も睡眠も決められた通りで、甘い物は精神を乱すからと与えられなかった。


泣くことも好ましくないと言われていた。


聖女は人々に希望を与える存在なのだから、いつでも穏やかに微笑んでいなければならない、と。


だからセラスは、人のいない裏庭まで来て泣いていた。


ある日、そこに一人の男が現れた。


黒い外套。

深く被ったフード。


手には革の手袋。

どう見ても神殿の人間ではない。



「……なぜこんな所で泣いている」



低い声で問われ、セラスは肩を跳ねさせた。



「泣いていません」


「そうか」


「はい」


「それなら、その顔の水は雨か」


「……泣いています」



正直に言うと、男は小さく息を吐いた。


本当は、その瞬間に殺せた。

魔族であるアルバには分かっていた。


目の前の少女から漂う、澄み切った聖なる力。

自分とは正反対の力。


いつか己を滅ぼすために育てられている、次代の聖女。


今なら簡単だった。

首を折ることだってできる。

爪で胸を貫くことだってできる。


それなのに。



「何があった」



アルバの口から出たのは、そんな言葉だった。



「……修行が、うまくできなかったんです」


「それだけか」


「先生に怒られました。聖女なのだから、もっと頑張らないといけないって」


「ふん」


「私がちゃんとできないと、困る人がたくさんいるそうです」



八歳の少女は、それを当たり前のことのように言った。


アルバはしばらく黙ってから、思いついたように外套の内側へ手を入れた。



「ほら」



差し出されたのは、小さな包みだった。

セラスは目を瞬く。



「これは?」


「飴だ」


「……あめ?」


「知らないのか」



セラスは首を振った。

アルバは少し呆れた顔をした。



「食え」


「でも、知らない人から食べ物をもらってはいけないと」


「じゃあ食うな」



そう言って引っ込めようとすると、セラスは慌てて包みを受け取った。



「食べます」


「どっちだ」



包みを開く。

ころんとした琥珀色の飴が、一粒だけ入っていた。


恐る恐る口に入れる。

次の瞬間、セラスの目が大きくなった。



「……甘い」


「飴だからな」


「すごく甘いです」


「そうだな」


「こんなに美味しいもの、初めて食べました」



あまりにも嬉しそうに言うものだから、アルバは何も返せなくなった。


この少女を殺しに来たはずだった。


なのに、飴玉一つで目を輝かせる姿を見ていたら、すっかり毒気を抜かれてしまった。



「おじさん」


「それはやめろ」


「えっ」


「おじさんではない」


「……では、お名前を聞いてもいいですか?」



少し迷ってから、アルバは答えた。



「ノクス・アルバだ」


「ノクス・アルバさん」


「長い」


「では、アルバさん」



少女はそう呼んで、初めて笑った。



「お前の名前は」


「……セラス」



それが二人の最初の出会いだった。



*



「覚えているか」



現在。


魔王城で、アルバが不意に言った。

セラスは剣を握ったまま、彼を見る。



「何をですか」


「最初に会った日のことだ」


「……覚えています」


「そうか」


「飴をもらいました」


「そこか」


「大切なことです」



こんな状況なのに。


セラスは少しだけ笑った。

アルバは苦々しそうに顔を歪める。



「その時に殺しておけばよかった」



口調は冷たい。

けれど、セラスにはもう分かっていた。


この人は、自分を殺せなかったのだ。

一度だけではない。


何度も。



*


二度目に会ったのは、セラスが十三歳の頃だった。


その日、神殿には聖女を見るため、大勢の巡礼者が訪れていた。


十八歳になれば、セラスは勇者たちと共に魔王討伐へ旅立つ。

そのことは、すでに王国中へ知れ渡っている。


セラスの周囲には神官や神殿騎士が控え、巡礼者たちは一人ずつ彼女の前へ進んでは、祈るように頭を下げていた。



「聖女様、どうか魔王を倒してください」


「はい」



セラスは微笑む。



「息子が魔族に殺されたのです。どうか仇を」


「はい」


「あなた様だけが希望です」


「はい」


「どうか世界を平和に」


「はい」



何度も、何度も。

セラスは同じ笑顔で頷いた。


その日、別の用で王都へ潜り込んでいたアルバは、偶然その巡礼者の列に紛れていた。


魔族の中には、人間とほとんど変わらない姿の者もいる。

アルバも角をフードで、爪を手袋で隠せば、少し背の高い男にしか見えなかった。


やがて列の先にいる少女を見つけ、足を止める。


五年前。


神殿の裏庭で、一粒の飴に目を輝かせていた少女だった。


ずいぶん大きくなった。

そして、聖なる力も以前とは比べものにならない。



――今なら、まだ殺せる。



そう思った。


これ以上育てば、本当に自分を討つ存在になる。


だが、巡礼者たちの言葉を聞いているうちに、胸に湧いたのは殺意とは別の苛立ちだった。


アルバは、自分の順番が近づいたところで小さく吐き捨てる。



「……随分と勝手なものだな」


「え?」



すぐ近くにいたセラスが振り向いた。


アルバは舌打ちする。

聞かれていた。



「自分たちは安全な場所にいて、お前みたいな子どもに殺してこいと頼むのか」


「……」


「頭を下げれば、それで役目を果たしたつもりらしい」



セラスはぽかんと彼を見つめた。


さすがに言い過ぎたか。

そう思った次の瞬間。



「……ふふ」



セラスが笑った。

巡礼者たちに向けていた、きれいに作られた微笑みではない。


困ったように口元を押さえながら、それでもどこか嬉しそうに。



「何がおかしい」


「いえ……そんなことを言う人、初めてだったので」


「怒らないのか」


「少しだけ、ほっとしました」


「……そうか」



そこでセラスは、改めて男の顔を見つめた。



「あれ?」


「なんだ」


「アルバさん?」



アルバは黙った。

セラスの表情がぱっと明るくなる。



「やっぱり」


「よく分かったな」


「覚えていますから」



セラスは周りに分からないように、飴の包みを開ける動作をして微笑む。

そして、少し不思議そうに首を傾げる。



「アルバさんは、あまりお変わりになりませんね」


「……セラスは、背が伸びたな」


「はい。私だけ大きくなったみたいです」



長命種のアルバにとって、五年など短い。


だがセラスにとっては違う。

あと五年。


それだけで、この少女は自分を殺すために送り出される。



「そういえば、最近習ったんです」


「何をだ」


「アルバさんのお名前です。ノクス・アルバって、古い言葉で『白夜』という意味なんですよね」


「そんなことまで神殿では教えるのか」


「古語の授業がありますから」



セラスは空を見上げた。



「日が沈まない夜なんて、不思議ですよね」


「そうか?」


「はい。夜なのに明るいなんて、私には想像できません」


「世の中には、お前の知らないものがいくらでもある」


「……いつか見てみたいです」



アルバは何も答えなかった。


その言葉が叶うより先に。

彼女は自分を殺すため、旅立つことになる。


それなのにセラスは、当たり前のように笑っていた。



*



三度目に会ったのは、討伐へ出発する前夜だった。


セラスは十七歳。

十八歳の誕生日を翌日に控えていた。


翌朝には、勇者たちと共に王都を発つ予定だった。


夜更け。

神殿の庭に、アルバは立っていた。


なぜ来たのか、自分でも分からなかった。


殺すためではない。

もう分かっていた。


自分には、この少女を殺せない。


それなら、何をしに来たのか。

それも分からない。


ただ、明日になればセラスが自分を殺すための旅に出る。


そう思ったら、気づけばここにいた。



「アルバさん?」



背後から声を掛けられ、アルバは振り返った。

白い寝間着の上に外套を羽織ったセラスが立っている。



「どうしてここに」


「……セラス、逃げろ」



挨拶もせず、アルバは言うと、セラスは目を瞬いた。



「何からですか?」


「全部だ」


「全部?」


「聖女をやめろ。神殿から出ろ。この国から離れろ。誰もお前を知らない場所へ行けばいい」



セラスは黙った。

アルバは続けた。



「お前一人くらい消えたところで、世界は終わらん」


「でも」


「でも、じゃない」


「私が逃げたら、次の子が選ばれます」



アルバの眉が動いた。



「次の子?」


「聖女候補がいるんです。十二歳の子です」



セラスは静かに笑った。



「私が逃げたら、きっとその子が選ばれます」


「……」


「私よりも小さな子に、今度は魔王を殺してきなさいって言うでしょう」


「だから、お前が行くのか」


「はい」


「死ぬかもしれないぞ」


「知っています」


「怖くないのか」



少しだけ間があった。



「……怖いです」



その答えに、アルバは息を止めた。


セラスはずっと、平気そうに見えた。


何を言われても微笑んでいた。

何を命じられても「はい」と答えた。


だが、本当は怖かったのだ。



「なら逃げろ」



アルバの声が低くなる。



「怖いなら逃げればいい」


「でも、私が逃げたら」


「他人のことなど知るか」


「私は知っています」



セラスは困ったように笑った。



「その子の顔を知っているから」



アルバは何も言えなくなった。

自分が魔王になったのも、同じだった。


先代魔王から瘴気を受け継いだ。

魔族を守るため。


自分が受け取らなければ、別の誰かが器にされる。


だから引き受けた。



「……お前は馬鹿だな」


「よく言われます」


「褒めていない」


「分かっています」



セラスが少し笑った。

それから、何か思い出したように顔を上げる。



「そうだ。アルバさん」


「なんだ」


「私の名前の意味も習ったんです」


「名前?」


「はい。セラスは、古い言葉で『オーロラ』という意味なんですって」



アルバは首を傾げた。



「それを俺に言ってどうする」


「どうもしません」


「なら、なぜ」



セラスはほんの少しだけ照れたように笑った。



「もしアルバさんに会えたら、聞いてほしかったんです」



その言葉を聞いた瞬間。

アルバは胸の奥に生じた感情の名前を、考えないことにした。


考えてはいけないと思った。



「白夜と、オーロラです」



セラスが続ける。



「どちらも空にあるものですね」


「それだけか」


「それだけです」


「くだらん」


「ふふ」



聖女のものではない、あの笑顔だった。


アルバは思った。


やはり来なければよかった。


こんなものを覚えてしまったら。

ますます、殺せなくなる。



*



「……旅立ちの前夜は」



魔王城で、アルバが言った。

セラスは顔を上げた。



「え?」


「お前に会いに行ったんだ」



セラスが目を見開く。



「どうしてですか」


「わからない」



アルバは笑った。

ひどく疲れた笑いだった。



「自分でも分からなかった。お前が魔王を殺しに行かされる。それが気に食わなかった」


「……」


「自分で選んだわけでもないのに」



セラスは息を呑んだ。



「俺はお前を殺すことも、逃がすこともできなかった」


「……アルバさん」


「だから、もう終わらせろ」



彼は両腕を下ろした。

完全に無防備だった。


今なら刺せる。

聖剣を胸に突き立てればいい。


アルバの中に蓄えられた瘴気は、聖女の力によって浄化される。


魔王は死ぬ。

世界は救われる。


それが正しい。

ずっとそう教えられてきた。



「やれ、セラス」



アルバが言う。



「お前はそのために来たんだろう」


「……はい」


「なら、やれ」



セラスは聖剣を上げた。

切っ先をアルバの胸へ向ける。


あと一歩。

踏み込めばいい。



「セラス」



名前を呼ばれた。


その瞬間、八歳の自分が蘇った。

泣いていた自分。

差し出された飴。


十三歳の自分。

人々に頭を下げられ続けていた時、隣で小さく皮肉を言った声。


十七歳の自分。

逃げろと言われた夜。



そして、今も。

聖女ではなく、セラスと呼んでくれたのは。



剣先が震えた。

そして。



「嫌です」



声が出た。


アルバが目を見開いた。

セラス自身も驚いていた。


これまで、何度そんな問いを投げかけられてきただろう。



聖女になれますね。


「はい」


治癒の訓練を続けられますね。


「はい」


十八歳になったら魔王を討ちますね。


「はい」


もし討伐できなければ、自らを楔として魔王を封じますね。


「はい」



ずっと。

ずっと選択肢などないかのように、そう答えてきた。


なのに。

今、初めて。



「嫌です」



セラスはもう一度言った。



「私は、アルバさんを殺したくありません」



アルバの顔から表情が消えた。



「……何を言っている」


「そのままの意味です」


「俺は魔王だ」


「知っています」


「たくさん人間を殺した」


「知っています」


「お前の仲間も、俺が傷つけた」


「はい」


「それでもか」



セラスは少し俯いた。



「それでもです」



アルバが歯を食いしばる。



「ふざけるな」


「ふざけていません」


「俺を殺せば終わるんだぞ」


「分かっています」


「それなら――」


「もう一つ方法があります」



アルバが止まった。


セラスは聖剣を床へ落とすと、甲高い音が、大広間に響いた。



「魔王を倒せなかった時のために、教えられている術があります」


「……何だ」


「封印術です」



アルバの目が細くなる。



「魔王と、魔王が抱える瘴気を、世界の外へ封じます」


「それなら最初から使えばよかっただろう」


「……簡単には使えません」


「なぜだ」



セラスは微笑んだ。



「聖女も一緒に行くからです」



沈黙。

アルバの顔から、最後の血の気が引いた。



「……何だと」


「聖女自身が楔になります。肉体を捨てて、魂だけになって、魔王と瘴気を永遠に世界の外へ留めるんです」


「……やめろ」


「アルバさん?」


「やめろ!」



初めてだった。

アルバが声を荒らげた。



「そんなものを使うな!」


「でも」


「俺を殺せ」


「嫌です」


「セラス!」


「嫌です!」



セラスも負けずに叫んだ。

二人の声が、壊れた魔王城に響く。


アルバは荒い息を繰り返した。



「……なぜだ」



やがて、掠れた声で言った。



「なぜ、お前まで来る必要がある」



セラスは答えなかった。



「俺は死んでもいい」


「私は嫌です」


「お前が嫌でも、俺は構わない」


「私は構います」


「なぜだ」



セラスは口を開いた。


けれど。

言葉が出なかった。


好きだから。

そう言えばいいのだろうか。


たぶん。きっと。

今なら分かる。


八歳の頃から、ずっとではない。


いつからだったのかは分からない。


ただ、十三歳の自分がアルバを見つけて嬉しかった理由。


十七歳の自分が、名前の意味を知った時に真っ先に彼を思い出した理由。


そして今。

剣を向けることができない理由。


全部が同じ場所へつながっていた。


けれど、その言葉を口にするのは少し違う気がした。

だからセラスは、別のことを言った。



「私、ずっと『はい』って言ってきたんです」


「……」



セラスは笑った。



「封印術を教えられた時も、『はい』って言いました」



アルバは黙って聞いている。



「魔王を倒せなかったら、あなた自身を楔にして封じなさいって。そう言われて、私は『はい』って」


「……」


「でも、今は違います」



セラスは一歩、アルバへ近づいた。



「これは、私が決めました」


「セラス」



もう一歩。



「世界は救います」



さらに一歩。



「でも、アルバさんを殺したくない」



そして。



「私も、自分で選びたいんです」



アルバは長い間、何も言わなかった。

やがて、ひどく疲れたように目を閉じた。



「……馬鹿だな、お前は」


「はい」


「それを選んだら、二度と戻れない」


「はい」


「肉体もなくなる」


「はい」


「誰にも会えない」


「はい」


「世界から切り離された存在は、どうなる?」


「徐々に人々の記憶から、消えていきます」


「お前のことを、誰も覚えていなくなる」



セラスは少し考えてから、尋ねた。



「アルバさんは?」


「何?」


「アルバさんは、私を忘れますか?」



アルバは呆れたようにセラスを見た。



「忘れるわけがないだろう」



セラスは笑った。

今までで一番、嬉しそうに。



「じゃあ、大丈夫です」


「……本当に馬鹿だ」



アルバの声は、少しだけ震えていた。



*



セラスが最後の術式を唱え始めた頃。

倒れていた勇者が、ゆっくりと目を開いた。



「……聖女様……?」



霞む視界の向こうに、白い光が見える。


聖女の姿だった。

その隣に、魔王アルバがいる。


二人の足元には巨大な魔法陣が広がり、光が柱となって天井を貫いている。



「何を……して……」



勇者が起き上がろうとする。

だが、体が動かない。



「聖女様!」



別の騎士も目を覚ました。

セラスが振り返る。


ほんの一瞬。

勇者たちを見た。


その顔は、不思議なくらい穏やかだった。



「ありがとうございました」



声が届いた。



「お待ちください!」



勇者が叫ぶ。



「聖女様!」



光が強くなる。


セラスは答えなかった。

ただ、小さく微笑んだ。


その隣でアルバが何かを言う。

何を言ったのかは、勇者たちには聞こえない。


次の瞬間。

二人の姿は、光と共に消えた。


残ったのは、静寂だけだった。


そして世界から、瘴気も消えた。

魔物の狂暴化は止まり。


空を覆っていた黒雲は晴れ。

長く続いた人と魔族の戦争も、終わりへ向かっていった。


人々は聖女を讃えた。

魔王と共に消え、世界を救った聖女。



しかし十年が経つ頃。

勇者は、ふと気づいた。


彼女の声は覚えている。

笑った顔も、なんとなく覚えている。


けれど。

名前だけが出てこない。


さらに時が経つと、顔も曖昧になった。



伝説にはただ、こう残された。


かつて聖女が魔王を封じ、世界を救った、と。


聖女の名も。

魔王の名も。


もう、誰も知らなかった。



*



世界の外には、夜も昼もなかった。


ただ暗闇があり。


その中に、無数の小さな光が浮かんでいた。


星のようだった。

本物の星ではない。


そもそも、ここには空すらない。

それでもセラスには、星空に見えた。



「……きれいですね」


『そうか?』



すぐそばから、アルバの声がする。


身体はない。

目もない。


けれど、彼がそこにいることだけは、はっきり分かった。



「星みたいです」


『お前は呑気だな』


「そうでしょうか」


『封印されて最初に言う言葉が、それか』



セラスは笑った。

声だけのはずなのに、不思議と笑ったこともアルバには伝わっている気がした。


しばらく二人で、何もない星空を眺めた。


時間というものがあるのかも分からない。


一瞬だったかもしれない。

百年だったかもしれない。


やがてセラスが言った。



「そういえば」


『なんだ』


「もう、飴は食べられませんね」



沈黙。



『……今さら気にするのがそれか』


「少しだけ残念です」


『馬鹿だな』


「はい」



また静かになる。

けれど、不思議と寂しくはなかった。


誰もいない。


世界の音も聞こえない。


もう二度と帰れない。


それでも、一人ではない。



「アルバさん」


『今度はなんだ』


「覚えていますか」


『何を』


「名前の話です」



アルバは少し黙った。



『白夜とオーロラか』


「はい」



セラスは嬉しくなった。

ちゃんと覚えていてくれた。



「あとで知ったんですけどね」


『何をだ』


「白夜の空では、オーロラは見えないんですって」


『……そうか』


「空が明るすぎるから」


『なるほどな』


「だから、本当なら」



セラスはそこで言葉を切った。


本当なら。

白夜とオーロラは、一緒の空にはいられない。


聖女と魔王も。

人と魔族も。

殺す者と、殺される者も。


本当なら。

けれど。



『セラス』



アルバが呼んだ。



「はい」


『ここは、お前の知っている空じゃない』



セラスは少しだけ驚いて。

それから、笑った。



「……そうですね」


ここには白夜もない。


朝も来ない。


夜も明けない。


世界の理屈から外れた、永遠の星空。


だから。

手を伸ばした。


肉体はないはずなのに。

何かに触れた。


温度もない。

形もない。


それでも、アルバの手だと分かった。

向こうからも、そっと握り返される。



「アルバさん」


『なんだ』


「ずっと一緒ですね」



長い沈黙のあと。

アルバの声がした。



『……馬鹿だな、お前は』


「はい」



暗闇の中で、二人は初めて同じ空にいた。


そして彼らの声だけは、いつまでも途切れなかった。

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