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主人公の友達  作者: quiet
19/25

10話(前)



 保育士になりたい。

 真田隆輝、今よりさらに若かりし中学二年生時代の夢である。


「おー、懐かし……」


 そういうことを彼は、部屋の掃除中に思い出している。


 昨日の昼から、全然落ち着かない。上司が爆弾か何かで吹っ飛ばされて、意識がなくなって、職場がてんやわんやで、そのくせ自分の得意なことはコントローラーを握るばかりで、事務仕事もできなければ機械いじりができるはずもなく、特にやることがないからだ。


 そういうわけで、豊島区のマンションの一室で、朝からずっと部屋の掃除をしている。

 まずはトイレから始めて、前からうっすら気になっていたキッチンと洗面所の配管も流して、掃除機はなんと、そもそも持っていない。フローリングワイパーで大雑把に磨いて、コロコロでカーペットについた髪の毛を取って、窓掃除はまあ、流石にいいか。それより化粧品とか薬とか、古いやつをまとめて捨てちまおう。そう思って、クローゼットを覗いていた。


 配線のごちゃついた機材の中に、それは埋もれている。

 大昔、中学時代に使っていたゲームハードと、ソフトだ。


 なんでこんなもん実家から持ってきたんだか。思い返して、確か、そうだ、二年前。懐かしのゲームを紹介しようの企画で使った。あのとき誰がいたんだっけ。てか、二年前か。そうか、もうそんな経つのか。


 このゲームをやっていた頃から、十年以上。

 あの頃は、まさかゲームで食ってる自分の姿なんて、想像もしていなかった。


 Eスポーツ部を創設とか、正直なところ、ふざけていただけだ。友達に誘われるがまま入ったバレー部は顧問の性格が最悪で、退部者どころか不登校まで出ていた。曲がったことが許せない! ……というわけでもないが、当時は今より遥かに尖っていたし、自分は無敵だと思っていた。あれよあれよという間に猿山のボスになって、新しい部活を作って、日々はアニメのような青春で、気付いたらこんなところまで辿り着いた。


 当時は、ゲーミングPCを買う金なんてなかった。

 中古屋で投げ売りされていたジャンク品のゲーム機を、同級生の江藤に直してもらって使っていた。ゲームの腕前は、だから江藤に育てられたようなもので、初めて大会で優勝したときには江藤の方が号泣していた。そんな江藤は十一月に結婚式で、真田は今から会場での悪酔いが怖い。やっぱ配信者なんだから面白いことやれよとか言われんのかな。江藤の結婚相手、なんかお堅い職業の人らしいから怖えーんだよな。


 ゲームを楽しむ気持ちは、当時、小学生に教わっていた。

 オンラインでフレンドになった、謎のちびっこだ。顔は知らない。『もーた』とか名乗っていたが、流石に本名というわけではないだろうから、名前も知らない。遊ぶ時間帯がいつも被っていた。おれねー。おれねー。今日じゃんけん七十連勝してプリン七十個食った。今体重一五〇キロ。ごっつぁんです。そういうしょうもない話ばかりしてくるガキで、その頃はそういうしょうもない話が一番面白かった。俺、ガキと話すの好きかも。保育士とか向いてっかも。そんなことを思っていた。


 あのちびっこ、今何してんだろ。

 面白かったし、実はどっかでストリーマーやってるとかねーかな。ねーか。そんな取り留めのないことを考えながら、まずはそういう雑多なものの埃を掃うところから始める。精神が不安定なときは掃除をしなさい!とは十年近く前の朝番組に出演していたマックス・ジェットバーンの名言で、そのころ真田はまだ駆け出しで、番組内で放送されていた話題の五分アニメを目当てに見ていて、ストリーマーなのにテレビ出てんだ。社会人じゃん。すげー。そういうことを思っていた。


 今でも忠実に、その教えを守っている。

 その最中に、インターフォンが鳴った。


「んあ?」


 少し身体を捻れば、モニターが見える。誰も映っていない。ということは、と腰を上げる。抜き足差し足で玄関前まで行く。途中で馬鹿らしくなる。さっきまでカーテン全開でどたどた掃除をしていたのだから。しかも四階。今更居留守も何もない。


 スコープを覗く。

 知った顔だった。


「おす。どした?」


 真田が住む隣の部屋は、特装室の警備担当が借り上げている。

 そのうちのひとり、上尾圭太だった。図体は大したものだが相当な年若で、実は真田のファンらしく、本当かよと思いながらたまにラーメンを奢ってやったりしている。そのたび九十度の礼をして「ごちそうさまです!」と言うのは、そういう真面目の行き過ぎた性格なのか、それともそういうギャグなのか、いまだに区別がつかない。


 ドアを開けた先で上尾は、今日も今日とて真面目腐った顔で言った。


「戦争が始まりました」







 嶺一は、動けなかった。 

 正確に言うなら、少し動いた後に、何もできなくなった。


 目の前で見た。はっきりと。メムが出てきた。イルが攫われた。消えた。この時点で嶺一の思考はたったひとつに絞られる。


 ダンジョンだ。


「待て、ばっ――」


 制止も聞かず、欄干を飛び越えて、ダンジョンに飛び込んだ。


 そこまでだった。

 どこから入っても、いつもの場所に見える。壁も床も何も特徴がなくて、違いがわからない。その上、今日は特装室からのアシストもない。何の手掛かりもない場所に飛び込んで、影も形も見当たらない。


 走り回るのは無謀だ、と流石に自分でもわかっていた。


「八坂!」


 驚いて振り向くと、戸渡が立っていた。

 そうだ、と嶺一は思い出す。あの最後の一瞬、戸渡が走っているのも視界の端に見えた。下で待ってるとか言っておいて、すぐ傍までついてきていた。それだけじゃない。


 こんなところまで、ついてきてくれた。


 真っ青な顔をして、彼は首を横に振った。


「退くぞ」


 ただそれだけ。

 理屈は、痛いほどわかった。


「とにかくまずは、助けを呼ぶところからだ」


 何の収穫もなく、戸渡と共に展望台に戻った。

 焼けつくような日差しが戻ってくる。言葉のひとつを放つたびに、体温が一度ずつ上がっていくような心地がする。それでも戸渡は、まずは丁寧に状況を整理しようとしてくれた。


「そう悲観的になるな。仕留めようと思えば、あの場で仕留められた。そうしなかったってことは、向こうにも何か目的があって――」

「メムじゃないかも」


 だから、嶺一も言えた。


「何だって?」

「俺たちが戦ってたやつじゃなくて、イルの世界から来たやつかもしんない」

「――迎えに来たってことか?」


 戸渡は素早く呑み込んでくれたのに、嶺一は何も答えられない。

 わからないのだ。


 ただのメムだとしたら、あんな風に攫ったりはしないと思う。イルも言っていた。メムは野生動物みたいなものだって。じゃあクマみたいに獲物を攫って安全なところに隠しておく気じゃ? いや、待てよ。そうだ。イルだって多分、自分でロボを出せるのだ。ドレスとかいうやつ。じゃあ大丈夫だ。あのくらいのやつなら多分負けない。ほんとかよ。でも、どうだ、わからない、


 戦争、

 とか、言ってなかったっけ。


「いや、よし。わかった」


 五秒の沈黙で、戸渡は方針を決めてくれた。


「どうせ俺には専門的なことはわからん。八坂。直接本部のやつらに報告しろ。携帯でいい。できるな?」


 頷くしかない質問もくれる。

 だから、やることが決まった。


 スマホを取り出す。いつの間にか、手のひらまで汗をかいていた。指紋認証が上手くいかない。パスコードで入る。手が震えている。仕事の連絡でメッセージアプリは使わない。デフォルトの通話アプリを開く。発信履歴の一番上。


 通じない。


「――?」


 慌てて画面を見直した。何かの間違いかと思って、もう一度かけた。三条の公用スマホ。通じない。何かを考えるより先に、佐藤の方にかけた。通じない。電話帳を引っ張り出した。今まで一度もかけたことのない、特装室の代表番号にダイヤルした。


 出ない。


『クーデターだ!』


 意味のわからない言葉が、隣から聞こえてきた。


 もう、指先の動かし方もわからなくなっている。戸渡はこっちが電話をかけている間に、無線機を取り出していた。通信状況はそう良くない。誰の声なのかわからない。多分、警備担当の誰かなのだろう。戸渡もまた、呆然とした顔でそれを聞いている。


 声は、続いてこう告げた。


『ダン庁に自衛隊が乗り込んで、特装室ごと全部差し押さえられてる!』







 のちに『大停電』と称されるその現象が広がるそのとき、廻は全く気が付いていない。


 停電も、電波障害も、こと病院においては無関係のものになりつつあった時代だからだ。Eロボにも使われる次世代型の電池は、ダンジョン庁における一部の職員たちの意向を反映し、『停電してはいけないところ』へ優先的に売却先を割り当てられていった。だから、そのとき彼が身を置いていた都内総合病院では、盲腸の手術だろうが親知らずの抜歯だろうが官公庁前の広場で自動車に仕掛けられた爆弾で吹っ飛ばされた高校生官僚の精密検査だろうが、全てがいつもどおりに進んでいる。そのへんで時間を潰しておいでと放り出された付き添いの後輩は、のんきに自動販売機の前で指をさまよわせている。


 学校にはない、紙コップのやつだ。

 これが好きだ、と廻は思う。レアな感じがするし、昔、旅行先で呑んだあのココアの味が忘れられない。しかし今こうして見てみると、コーヒーだけでもすごい種類のラインナップがある。変わり種もたくさんいる。バナナココアはまだ想像がつくけれど、オレンジココアって一体何だろう。こういうのは極端に美味しいかその逆かの二択と相場が決まっている。興味はある。だが、迷う。


 突然切れた三条との電話のことは、もちろん気にしていないわけではなかった。

 ただ、最後に「かけ直す」という言葉は聞こえていた。千鶴も今はここで診察中とあっては、向こうも慌ただしくしているに決まっている。こういうとき、廻は深追いはしない。誰も周りにいないのをいいことに、二五〇円を投入してからちんたら迷い続けている。


「――廻くん!」


 そのときのことだった。

 知っている声だった。だから廻は振り向いた。そして、予想もつかない光景を見た。


 入院着に上着を羽織った千鶴が、こっちに向かって駆けてくる。


「こっち!」


 こら、とか。走っちゃダメですよ、とか。そういう月並みの言葉が口をつくより先に、手を握られるどころじゃない。胴体に腕を回された。ほとんど抱えられるような格好で、切羽詰まった借り物競争みたいに、持っていかれた。


 二五〇円を回収する暇もない。

 しかも、エレベーターを使わずに、階段をものすごい速度で下っていく。


「先輩、検査、」


 息を切らしながら言っても、千鶴は振り向きもしない。四階三階二階一階、ロビーに出る。エントランスの、煙のように白い日差しの向こうに一直線。


 廻は身構えたのに、千鶴は全く迷わない。

 一番近くに停まっていた、黒い車に乗り込んだ。


「出して!」


 誰の車なんだこれ、という疑問はフロントミラーを一瞥して解決する。菅原真保。年齢は聞いたことがないけれど、他の人との話し方を聞く限り、多分四十代。警備担当として何度か会話を交わしたことのある彼女は、サングラスの奥で、珍しく目礼のひとつもしない。


 息もつかせず、車は公道に出ていった。


「もしもし?」


 そして千鶴は、手品のような鮮やかさだ。

 いつの間にか膝の上にノートパソコンを置いている。ヘッドセットをつけている。誰かと通話を繋げていて、こんな話をしている。状況は大体聞いてるけど細かいところの確認をしたい。よって、大体のところすら聞いていない廻は隣で聞いていても何が何だかわからない。またギガメムでも出たのか。でも、それならわざわざこうやって移動する必要はないと思う。あのこれ何なんですか。そう訊きたいけれど、仕事の邪魔はできない。菅原さんに訊くのも、運転に集中しているみたいだし気が引ける。高架道の下を車は行き、ざざ、とカーラジオにノイズが乗る。


『え、あの、これ本当ですか? 本気?』


 それで初めて、異様な雰囲気に廻は気が付いた。


 平凡な困惑ではない。バラエティのコーナーでスタッフから無茶ぶりをされてとか、そういう声ではない。ノイズに混じって、マイクのずっと遠くから叫ぶような声が聞こえる。紙のめくれる音も、扉の勢いよく開閉する音も混じっている。


 尋常の状態ではなく、


『えー……。皆さん、落ち着いて聞いてください。今、日本政府から発表がありました』


 急にマイクに声が近付く。夏の正午を彩るはずだった明朗な声が、はっきりと、そのニュースを口にする。


『現在、東京ダンジョン内に敵国所属のメムが展開を始めています。戦争が始まりました』


 敵国、という言葉が上手く頭に入らなかった。

 おかげでその後の、戦争、という言葉まで意識が回らなかった。


『えー……ちょっと込み入ってるな、これ。敵国というのは、ダンジョンの向こう側にある国のことだそうです。そちらから一方的に宣戦布告があり、現在敵部隊が展開中とのことです。先制――先制攻撃されたの? まだ? えー、まだ発表はないとのことです。東京ダンジョン周辺で避難地域の指定がされている地域の皆さんは、速やかに自治体の指示に従い、避難を始めてください。また、特定領域対策法、ダン対法の三十五条に基づく緊急事態宣言も発令されています。以降、ダン対法の定めにより民間放送は一時的に停止し、国営放送に情報発信が一元化されることになります。……初めて言うな、これ』


 皆さん、とパーソナリティは息を吐いて、吸って、


『チャンネルを変えてください』







 山を下りて乗り込んだ車内には、この世のものとは思えない熱気が満ちている。

 乾燥機より酷い。嶺一は後部座席の、助手席側に乗るように指示される。シートベルトを締めている間も、戸渡の無線の声は続く。国営放送で政府の発表は続いている。けれど戸渡は、ラジオをつけない。代わりにキーを回して、自動車を発進させる。


 どこへ向かうのだろう。


 それすら嶺一はわからない。室長とまだ連絡つかねえのか。戸渡が言う。電波障害がとか停電がとか、そういう言葉が無線の向こうから聞こえてくる。八染山第一登山口前の駐車場は、まだこの街がにぎわっていた頃の名残なのか、やたらに広い。そのくせろくに車は停まっていない。たった一台、同じタイミングで動き出した車には見覚えがあった。別の警護担当の人間が乗る車だ。駐車場を横切って、出口へ向かう。大して管理もされていない周囲の木々は鬱蒼として、前を行くその車の天板に触れそうなくらいに首を曲げている。


 車が、影の中にゆっくりと入り込んでいく。


 止まった。

 パッシング。


「――マズい」


 小さな声で、戸渡が呟く。

 訊き返す暇もなく、ギアがバックに入った。


 見たこともない動きが始まった。嶺一は、子どもの頃に遊んだ車のおもちゃを思い出している。ガーッと車が引いていったと思ったら、ハンドルと車体が凄まじい勢いで曲がり出す。ガラガラの駐車場を逆側に突っ切っていく。アスファルトが悲鳴を上げる。先を行くはずだった車から、けたたましいクラクションの音が鳴り始める。


「何――」

「掴まってろよ!」


 映画でしか聞いたことのない台詞の後、車は登山口の方へと猛スピードで向かっていく。公衆トイレを曲がった先に、もっと小さな駐車場があった。従業員用、の錆びた看板がスモークガラスの向こうに見えた気がする。


 フロントガラスの向こうには、閉ざされた木製の門が見える。

 身構えたのに、ほとんど衝撃はなかった。


 あらかじめこういう事態を想定して、警備班が鍵を開けていたのかもしれない。そんなもっともらしい説明を嶺一が自分で思いつく頃には、もう車は通りに出ていた。片側一車線の道は、左側の路肩からいくらか雑木林が車道にはみ出していて、右側は激しい陽光に照らされて、病院の床よりずっと白い。


 後ろを見ると、黒塗りの車が数台、後を追いかけてきている。

 その助手席の窓が開く。手が出て、ルーフにそれを置く。


 真っ赤なパトランプ。

 鳴り出した。


「け、警察?!」

「いいか、八坂!」


 車通りすらほどんどない、真夏の地方都市で良かった。

 戸渡が運転する車は、ほとんど路面から浮き上がるようなスピードで、道交法なんて遥か昔に捨て去ったような潔さで、世界が滅び去った後に初めて自動車に乗ったならず者みたいな荒々しさで、田んぼと畑の脇を、ホームセンターの看板を、もうなくなった大型ショッピングモールまで二十キロを知らせる道案内を、アクセルを底まで踏んでぶっ飛ばしていく。


「俺もできる限りのことをする! だけどな、どうしようもなくなったら、走ってでもいい! とにかく逃げろ!」


 いいか、と。

 進行方向から目を逸らすことなく、必死の形相で戸渡は言う。四十台のくせして筋骨隆々。週五のジム通い。好きな食べ物はカレーで、東京周りの店にやけに詳しい。髭を生やそうとしているのか剃り忘れているのか、もう二ヶ月くらいの付き合いになるのにいまだにはっきりしない。


「今お前を追ってきてるのは、警察だの自衛隊だのの中でも相当ろくでもない連中だ!」


 そんな大人が、本気の声で叫ぶ。

 後部座席で、シートベルトで、汗で、嶺一の背中はぐっしょりと濡れている。


「まともな奴らはまずこの速度で反応しない! どこの馬鹿がこんなことしてんだか知らんが、その馬鹿にハナから抱き込まれてたイカれた奴らだ! まともに話そうなんて思うな! 捕まったら何をされるかわからん、絶対に逃げろ!」


 そんなことを言われても、何もわからなかった。警察。自衛隊。パトランプをつけて走ってる車があったらパトカーで、中に乗ってるのは警察で、追われているのは犯罪者で、いつもそういうものなんじゃないのか。警察の中でもろくでもないとか、そんなの何を見て決めればいいのか。わかればいいのか。


 俺はこれから、どうなるのか。


 地響きのような音が、聞こえた。


 初め、嶺一はそれをメムのものだと思った。変身して戦わなきゃ、とかそこまでのことには頭がまわらない。ただ、流れとしてそういうものだと思った。突然警察に追われていると思ったら、さっきイルのことを攫ったみたいなのが横入りしてきて、それじゃなければいつも千鶴の指示の下で相手にしてるでかい奴らがタイミング悪く顔を出してきて、めちゃくちゃな状況がさらに意味不明になっていく。そんな予感がしていた。


 違った。

 県道の向こうに、信号を無視して進む黒い機体があった。


「――クロガネ?」

「くそっ!」


 向かいから来たということは、挟まれたということだ。再び戸渡がハンドルを切る。墓地の手前を左に曲がる。弁当屋とコインランドリーを過ぎたと思ったら、今度はどこが持つ何のための敷地なんだかもわからない小綺麗な駐車場に突っ込む。突っ切って裏の農道に出る。


 嶺一は、後ろを向く。


「なんで今、」

「接収されてんだ! 馬鹿かあいつら、市街地であんなもん持ち出しやがって――」


『――あー。もしもし?』


 そのとき、車が喋った。

 無線だ。別に、変なことじゃない。戸渡はずっとそれで喋っていた。警備班の同僚たちと連絡を取り続けていた。


 けれど、戸渡は息を呑んだ。

 それが、嶺一にも伝わった。


『これで通じてるのか? ひとりで喋ってるだけだと馬鹿みたいだが……まあいいか。どうもこの部署の人間はみんな意地が悪いインテリ揃いみたいだからな。僕の情熱が伝わってると信じよう。八坂嶺一くん』


 名前を呼ばれた。

 戸渡の奥歯が、擦れて鳴るのが聞こえた。



『日本のためにその命、燃やしてみないか?

 ――三者面談をしよう。おじいさんと一緒に、君を待っているよ』



 一分。

 それでも戸渡は、何も言わずに走り続けてくれた。クロガネが向こうからやってきて、後ろからはパトカーが追いかけてきて、ろくでもない道ばかりを通って、それでもどこか西へ、南へ、ここではないどこかへ、連れて行ってくれようとした。


 その一分は、瞬く間に過ぎる。


 止めてくれ、と嶺一が言う。

 運転手は怒りに任せてハンドルを叩き、やがて、車は動かなくなる。







 八染山でイルが姿を消してから大停電が収まるまでの間にも、途切れ途切れに情報は流れていた。


 たとえばそれは、こんなSNSの投稿にも見られる。



『配信急に切れたと思ったら他のダンジョン系も全部じゃん』

『また検閲? それとも何かあった?』

『不安だー』

『停電で仕事になんねえよ』

『手術延期で焦らされてる 一思いにやってくれや』

『暑すぎて死ぬが?』

『なんかさっき山の方にmemが見えた気がするんだけどぼくって政府に消されちゃいますか?』

『なんか放送してるんだけど聞こえない 避難地域だったらどうしよう』

『コロッケ買いに行っちゃおっと』

『今信号機変になってるからやめた方がいいよ』



 しかしそれから、国内インターネット上の通信量は激減する。


 如実な減少は、廻たちが聞いたあのラジオ放送における宣言とほぼ同時刻から始まり、大停電から回復してもずっと続いていた。東京都内を通る鉄道の全てはその場で急停止し、乗客は皆車両を下ろされ、炎天下の中、ようやく最寄りの駅まで辿り着く。それなのに、電話も使えなければネットにも繋がらない。電子決済の多くも通信エラーを起こして、改札前から駅中の売店に至るまでの全てが人でごった返している。駅員が不明瞭な言葉で戦争のことを話す。戦争って何だよ。そう詰め寄られて、知りませんよ政府に訊いてください。その光景はしかし、どこの報道にも映らない。


 このとき、自宅で昼間から寝こけていた者は幸いである。

 この大騒ぎとは、無縁でいられたからだ。


 しかしなぜこの真夏に停電が起こったのかは彼らにもわからない。エアコンが動かないネットに繋がらないどんどん部屋の気温が上がっていく……耐え切れずに外に出て、お互い名前もあやふやなくせに、同じように様子を見に出てきた近隣の住民と談笑する。やがて電気が復旧すれば、ついさっきまで「なぜ停電情報の案内すらないのか」「電話が通じるようになったら電力会社に一言言ってやろう」と盛り上がっていたことなんかさっぱり忘れて、部屋のクーラーの温度を一気に下げて、上がってしまった体温を引き戻そうとする。


 それにしても、一体何が原因だったのか。

 気になってスマホを確かめようとした人間もまた、幸いである。いきなり大音量で鳴り始める警報に対する覚悟が、多少なりできていただろうから。


 突然に、それは始まった。


 画面が急に真っ青になる。パソコンの知識が多少なりある者は、顔色まで同じくするような不吉な色だ。しかし、流れてくるのは英字ではない。白抜きの日本語が、むやみに右から左に流れていく。この映像は政府から提供され、当社が委託に基づき放送するものです。当社ってなんだお前はどこの誰だ。訊いても答えるはずもなく、本放送内容の詳細については官邸HP等でご確認いただき、放送媒体各社やスポンサーへの問い合わせはお控えください。そういう、テロップを作成した人物が混乱しながら作業していたことだけは確かの、意味のよくわからない文章が流れる。


 消える。

 日本国旗を背景に、精悍な顔つきをした、若作りの中年男が立っている。


『突然ですが、皆さん。異世界というものを信じますか?』


 男は、妙に確固たる顔つきで語り始めた。

 カメラのレンズからさらに五メートルは奥を見つめるように、爛々とした瞳で、


『四年前、ダンジョンと呼ばれるものが日本に現れたとき、皆さんこう思ったのではないでしょうか。何か、新しいものが始まったと。それは初めて大陸に辿り着いた船乗りのような気持ちだったかもしれません。あるいは、初めて黒船を見た江戸の侍のような気持ちだったかもしれません。何にせよ、その予感の通り我々の生活は一変しました。夜明けは来たのです』


 男は、手振りを使わない。

 代わりに壇の端と端を手で掴むような格好で、広く肩と胸を開いている。ひとつひとつの言葉を、ゆっくりと話す。


 自信に満ち溢れた顔をしている。


『発電、送電、材料と製造……ハードウェア革命。我々の生活は今や、ダンジョンなくしては成り立ちません。しかし、思い出してください。この奇妙な場所を見たとき、皆さん、もっと単純にこうは思いませんでしたか? ――この奥には、何があるんだと』


 一秒、二秒、たっぷり五秒。

 反応を待つように、男は押し黙る。


 それから、口を開く。




『ダンジョンの向こうには、知的生命体が住んでいます。

 今日、我々はそれらから一方的に、理不尽な宣戦布告を受けました』




 てぃろん、てぃろん、と音が鳴った。上部にテロップが出る。全く普段のテレビニュースに使われているのと変わらないデザインで、こう告げる。ニュース速報。日本政府、緊急事態宣言。ダンジョン法第三十五条による挙国総動員体制へ。


『その内容については後ほど政府から公式に発表しますが、ある意味でこれは、時代の痛みです。我々は前に進むとき、必ず大きな壁にぶつかる。夜明けの前には夜が来る。しかし我々は、日本は! これまでもこれからも、それを乗り越えてきた! ――戦うことの意義は、すでに皆さんご存じでしょう。この夏、あの「ヒーロー」の活躍を、その目で見てきたのですから』


 さあ、と男は笑う。

 カメラが寄って、感動的なBGMが掛かり始める。


『何も怖がることはありません。国民の皆さん。今度こそ侵略者に勝利し、世界のヒーローになろうじゃありませんか』


 テロップが続く。政府は陣ヶ鉢防衛大臣を戦時指揮官に任命。行政・立法を含めた一時的な全権委任へ。


 その意味がよくわからなければ、映像が終わった後にスマートフォンでもっとよく調べてみればいい。それすら待てないなら、そして自宅にテレビがあるなら、リモコンを取ってみればいい。民放はすでに全てが放送を停止しているけれど、国営放送だけは、ついさっきの映像の続きを流している。人によっては見慣れたキャスターが、真夏に背広を着て、ネクタイをしっかり締めて、真剣な顔でこうアナウンスしてくれる。


 それではここで、各界著名人から届いた応援の言葉をご紹介します。


 まずはスポーツから。



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