「お前とは婚約破棄をする!」を特等席で聞くために
「お前とは婚約破棄をする!」
高らかに響いた声に、場は一瞬で静まり返った。
言い放った青年は、端正な顔にはっきりとした決意を浮かべている。
対して、目の前の美女は顔から血の気を失っている。
この台詞を本当に言う人間がいるなんて思わなかった。
だが自分は今、特等席で聞いている。
お気に入りの舞台俳優の台詞のように、うっとりと。
胸の内で呟く。
長かった。本当に長かった。
でも今、すべてが報われた。努力が、ようやく実を結んだのだ。
唇に笑みが浮かんでしまう。目の前の女には気づかれたかもしれない。
沸き上がる満足感を必死に抑え込むため、拳にぐっと力を込めた。
‡ ‡ ‡
鹿追の角笛の音が森の静寂に響いた。誰かが獲物を見つけたのだろう
森を歩き回っていた女も、自分の獲物を見つけた。
薄汚れたマントを肩に引き寄せ、息を整えながら木の影に身を潜める。
落ち葉が音を吸っているが、蹄の音が近づいてくる。
茂る枝をかき分け現れたのは、立派な体躯の栗毛の馬。そして馬に跨る金髪の青年。目は灰色で、まだ少年の面影を残しつつも、凛々しい眉に鼻筋が通っている。簡略化されてはいるが主要な箇所を守る金属の鎧と、肩にかけたマントには立ち上がった雄山羊が見事に刺されていた。
しかし顔には諦念と言うか、どこか投げやりな調子も見られる。獲物である鹿からも遠く離れている。
狩猟はある種、軍事訓練でもある。年若い彼は経験が少なく、今回は親戚の付き合いで仕方なく参加したが、知人たちともはぐれてしまったのだ。
十分距離をつめたところで、頃合いを見計らって靴で落ち葉を踏みつけ、かさりと音を立てる。
青年は背に負った荷から得物であるクロスボウを取り出し、静かに矢をつがえる。
「すいませーん、人間ですぅ! 撃たないでくださぁーい!」
木の陰から両手を振りながら姿を現す。頭まで被ったローブが風でばさりと後ろに流れる。
現れたのは、柔らかそうな、鹿毛のような髪色。
無害な女の姿に、男は矢尻をおろし、踵の動きだけで馬に指示を出す。
馬の鼻面まで見える距離にきたところで、女は膝に手をあてて、ほっと息をついた。
「会えて良かったですぅ。実はあたし、道に迷っちゃって」
そこで顎を上げ、相手の灰色の瞳を見上げる。
瞳が印象に残るよう、無駄な眉毛を抜き、縁取る睫毛を念入りにカールさせている。
「あなた、狩猟会の参加者ですよね? 良かったら、屋敷まで乗せてくれません?」
そのとき、遠くで角笛が鳴った。この合図は、狩猟が終了したということだ。ならば彼もこの狩場の主の屋敷に戻らなくてはならない。同じ道を通るのだから、自慢の馬に一人乗せるくらい訳ないことだ。
「どうぞ」
青年は馬から降りると、片手で手綱を引き、もう片方を差し出す。
「ありがとう、助かりますぅ」
彼女が落ちぬよう手を添えてやる。鐙に脚をかけて伸びあがった時に、ふわりと薔薇の香りがした。
女はスカートだったので背を跨ぐことができず、馬の腰に横向きに座った。颯爽と鞍に掛けた男の腰に、華奢な腕を回す。ぎゅっと体を寄せられ、背中越しの体温と柔らかさに、青年は居心地悪そうに身じろぎした。
助けてくれた相手に好意を持つのは自然なことに思えるが、不思議なことに人は、助けた相手を好きになりやすい。
頼み事をされれば、多かれ少なかれ労力を費やす。嫌いな人のためにそうした労力はかけない。だから頭は、「自分は相手が好きだから助けたのだ」と勝手に言い訳を作って納得するのだ。
まずは第一段階、と女は世間話を振りながら、男に見えないことをいいことにほくそ笑んだ。
‡ ‡ ‡
「またお会いしましたね」
壁には熊や鹿のはく製が飾られ、煤けた燭台の光の元だと不気味だ。それでも遊戯室には、まだ狩猟の熱気が残っていて、誰もそれを気にしない。今日の獲物の大きさを競うように熱心に語り合うだけだ。
長卓には食べ残しの雉肉と黒パン、葡萄酒が置き去りにされ、銀杯のいくつかは横倒しのまま、深紅の染みを卓布へ広げていた。
男たちの一部はテーブルを囲み、賽子や札に興じている。
飲み物を取りに行った青年に話しかける者がいた。
「君は……」
振り返れば、森で出会った女がいた。
茶色の髪をハーフアップにし、薄いショールを羽織っている。
淡い生成りのドレスは、胸元が開いたデザインなのに、首飾りは慎ましく、胸の谷間が目立ってしまう。
「さきほどはありがとうございました。おかげで無事に戻ってこれました」
屋敷についた時は人も集まっていて慌ただしく、ろくに言葉を交わす暇はなかった。
「えへへ。こんな所で出会うなんて運命ですね」
自分は運命なんて信じない。偶然か、必然があるだけだ。
そしてこれは後者の部類、作った機会。
この男の趣味・趣向は調べ上げた。賭け事が好きな彼なら、狩猟後の余興に参加すると思っていた。
「初めましてって言うのもおかしいですけど。あたし、ロジーカって言います。ティサ,ロジーカ」
「俺はツツォル家のカルマン」
そんなことはとっくに知っている。お前の身元資料は穴が空くほど確認した。
握手を交わしながら、「なんだか聞いたことある名前ですぅ」と惚ける。
「そうかもしれないな。十六で領地を継いだから、一時期話題になったんだ」
「あっ」
十代で継いだということは、先代に不幸があったということだ。
彼の両親は王都に向かう途中、馬車が事故に遭って死んでいる。
お悔やみ申し上げます、と初対面で言うのもおかしいし、雰囲気を盛り下げてしまう。気遣いができるが、それほど才気がない女を装うため、気まずげに戸惑う態度をとった。
「君は? ティサ家に嫡子が生まれたとは聞いたけど、年頃の娘さんがいたって聞いたことなかったな」
「あ、はい。今家を継いでいるのは叔父さんです」
幾ら家長の子であっても、騎馬民族を祖に持つこの国で、戦えぬ女に相続権はない。両親がはやり病で亡くなって、父の弟が後見になったこと、何不自由なく暮らしていた屋敷を追い出され修道院に入れられたこと、ところが最近になって、年頃になった自分が家に呼び寄せられたことを簡単に話した。
「それは……」
ティサ家はそれほど豊かな領地を持っていない。わざわざ家から出した姪を呼び寄せたのは政略結婚の駒にするためだ。
さすがに若き領主も察し、同情からかかける言葉に惑う。
「あたしたち、ちょっと似てますね」
ロジーカと名乗る女は儚く、花のように笑う。
「そうかもな」
境遇という共通点に、初対面の二人にあった壁が薄くなった。
「おーい、カール!」
名を呼ぶ声が聞こえる。青年は軽く手を上げる。
「すまん、今行く」
「呼び止めてちゃってすいませんです」
ロジーカは声が上がったテーブルの方を見た。卓の中央にはダイスが幾つか置かれている。
「……賭け事ですぅ?」
修道院育ちの彼女に咎められると思ったのか、カルマンは眉間に皺を刻み「ああ」と素っ気なく返答する。
「ちょっと興味あるな。見学してもいいですか?」
そう提案すると、意外だったのかまた「ああ」とだけ言ったが、今度は声が柔らかかった。
テーブルで行われていたのは、二つのダイスを交代で投げ合い、その出目を予想するというシンプルなものだった。
「つよぉーい!」
カルマンが連勝したので、ロジーカは空かさず褒めちぎる。
「いや、今日はたまたまだよ」
謙遜しながらも十代の領主はどこか得意げだ。
「今日はついてないな」
向かいの年上の領主は、女連れとなった対戦相手に面白くなさそうだ。
「仕切り直しだ。ちょっと飲み物とってくる」
そう言って席を立った。
突然手持ち無沙汰になった青年はダイスから傍らの女に視線を移す。
「良かったら君もやってみる?」
「やってみたーい」
ロジーカは前のめりで瞳を輝かせる。カルマンは向かいの席にかけるよう促した。
「さっきまで見てただろ。まずはメインを宣言して……」
「えっと……七!」
ロジーカは勢いよく言ったが、スリットから手持ちの小さな財布を取り出し、中身を見て眉をハの字に曲げた。カルマンの振るダイスを固唾を乗んで見守り、けれど立方体はあっさりと負けの目を示した。
「負けちゃった」
相手に気分よくさせるため、勝つわけにはいかなかった。最良の結果だが、しゅんと肩を落とす振りをする。
「次は勝つかもしれないよ。もう一度やってみる?」
「ダメですよぅ。さっきのあれ、ロジーカの財布の全部だったんです。もう賭けるものがないんです」
カルマンは気まずそうに眉を寄せた。
「……悪い」
「いいんです。勝負でしょ? それに、楽しかったから」
ロジーカは明るく言い、ちらりと彼を見上げた。
「でも……もしよかったら、また挑戦してもいいですか? 今日の分、取り返したいんです」
カルマンは驚いたように瞬きをしたが、すぐに唇の端に笑みを浮かべた。
「……まあ、いいけど。次は負けても知らないよ」
「じゃあ、約束ですね」
「それにしても、いきなり全財産をかけるなんて豪胆だね」
「馬鹿にしてるですぅ?」
「いや、ギャンブラーの素質があるなって」
「やっぱり馬鹿にしてるっ!」
そうして二人は再会を約束し、その夜は更けていった。
‡ ‡ ‡
その日を境に、二人は頻繁に顔を合わせるようになった。
地方の馬上槍試合、総督夫人の誕生会、大聖堂主催の聖人祭、交易都市の定期市。
その機会は一方の情報力と甲斐性の賜物だったが、もう一方は奇跡に近い偶然の出会いと結論付けた。
顔を合わせて会釈し、あいさつ程度の会話を交わし、賭け事とは関係ない世間話をするようになり、一緒に出掛ける約束を取りつけ。
唇を許したのは二人で芝居小屋を観に行った帰りだ。
恋人のように手を繋ぎ、馬車までの道を歩いていて、ふと空を見上げると、星々が輝いていた。
足を止めて暫く眺めて、キレイですね、と言おうとしてカルマンへ目をやると、顔が思ったより近くにあった。
直接的でないにしろ、夜も一緒に過ごそう、泊っていかないか、と肉体関係を匂わせるような誘惑の言葉も多くなって、ロジーカは嬉しそうにしつつも、叔父の門限を理由に交わしていた。
簡単に手に入るような安い女に、人は価値を感じない。かと言って、あまりに防御が固すぎても相手は敬遠してしまう。少し距離を伸ばせば届く距離を維持していたが、そろそろ結論を出さなくては相手もじれてしまう。
ロジーカは届いたばかりのリネンのドレスに袖を通した。
刺繡は胸元や袖口くらいだが、レモンイエローの染料ウェルドと高価で赤みがかったサフランが使われたドレスは黄金にも見まごう鮮やかさだ。カルマンの髪色に似ていると言ったら、彼がプレゼントしてくれたのだ。
灰色の石が積まれた、要塞のような城の前で馬車を降り、踵の高い、しかし活動的な彼女の足にフィットした革の靴で一歩を踏み出す。
踵の高い、しかし活動的な彼女の足にフィットした革の靴を履いて、ロジーカはカルマンの屋敷を訪れた。
執務室は屋敷の奥、塔の付け根の部分にある。
オークの扉は半ば開き、室内の話し声が聞こえてきた。
「なら、羊毛の商人への関税を一割上げるべきか?」
「お勧めしません。他領では関税を上げた結果、商人たちは隣の領地の市を利用するようになり、税収が下がりました」
恋人の声に答えるのは、落ち着いた女の声だった。若い気もするが、声色は凪いだように感情が現れない。
部屋をのぞき込むと、執務室の中央、オーク材の書き物机は一枚板の天板が見えないほど書類が積まれていて、カルマンはその前に座っていた。
傍らに地味な茶色のドレスを着た女の後ろ姿があった。指先で羊皮紙を押さえながら、恋人に文字列を示している。
ロジーカはノックをした。
「こんにちは。お仕事中に失礼します」
可愛らしく笑いかけたのに、カルマンときたら狼に遭ったように灰色の目を見開いた。
女も振り返る。
髪は白茶色で、一筋の乱れもなく後ろへまとめられている。
額は広く、鼻筋はすっきりと通って、表情はないのに知性を感じさせる。
飛び抜けて華やかな顔立ちではない。
だが、瞳はアイスブルーで、氷のように澄んでいた。
「秘書の方ですか?」
ロジーカは何の気なしに女の方を眺め、次第に顔色を無くしていった。
地味に見えたドレスはウォールナットのような暗い深みのある色で、生地の密度も織りも見事だった。袖口には同色の絹糸による控えめな刺繍が施され、光の加減でようやく模様が浮かび上がる。室内履きの靴も、恐らく靴下も絹でできている。
「早かったね」
カルマンは席を立ち上がり、ロジーカの視界を塞ぐように出迎えた。
「その女は?」
彼の背後で問う女の声は、氷のように冷たい。
「ただの知り合いだ」
「……最近噂になっている方かしら」
「そうなのか? 僕は聞いたことないな」
カルマンは受け流し、何も言えずにいるロジーカの肩を抱いた。
「彼女と約束をしているのでこれで失礼するよ」
「執務がまだ終わっていません」
叱責するような冷淡な女の声に、カルマンの方も冷たい一瞥を投げる。
「君がやればいいだろ」
「お待ちになって、まだ」
カルマンはロジーカを押して強引に執務室の扉を閉めた。
‡ ‡ ‡
馬車は向かいの席だったのに、ロジーカは話しかけることも、目も合わせることもできなかった。過ぎていく景色に目もくれず、俯いてドレスの裾を見ていた。
しかしステップを降りて、目的の職人街に着いてからは、何も見なかったかのように振舞った。からかい、冗談を言い、笑いあう。
このまま終わったら勿体ないと、どうせ終わるなら楽しく終わりたいと、過ぎ行く時を惜しむように明るく振舞った。
太陽が陰り、程もなく教会の鐘が鳴り、別れる時間となった。
カルマンが誘いの言葉をかける前に、ロジーカはその手を握った。
「ちょっと付き合ってもらえますか? あたしの宝物をお見せします」
そう言って案内したのは、滞在している宿だ。二階建ての木製で、割合清潔感があり、身元の安全は保障できるが、貴族の令嬢が泊まるような宿ではない。
建物内に消えてしばらくすると、ロジーカは木箱を持って戻ってきた。決して落とさないように、我が子のように抱きしめて。
「これがあたしの宝物です」
留め金を回し、木の蓋を開けると、中から出てきたのは黄金の杯だった。カップの部分には見事な細工があり、脚と二つの持ち手がついて、夕闇にも燦然と輝いている。
「これは黄金?」
カルマンは思わず現金なことを聞いてしまった。純金なら、一財産になる。貧乏な令嬢の持ち物ではない。
「いいえ。鍍金だそうです。でも、綺麗でしょ?」
ロジーカの今にも沈みゆく夕陽の如き微笑みが金属光沢に映る。
「これ、あたしが唯一相続した財産なんです。父と母との結婚式で使われたんですって」
このあたりの地域では、司祭の前で婚約を誓った後、杯にワインを注ぎ、二人が順に口をつける風習がある。同じ杯を分け合うことが、生活を共にする象徴となるのだ。
「あたしもあたしの結婚式の時に使いたいと、ずっと思っていました」
女は一度閉じた瞳をゆっくりと開け、美しい笑みを形作る。
「カール、あたしたちもう会わない方がいいと思います」
なんで、と言いかけた。でも空気の漏れるような音だけで声にならない。
「アンブルシュって人、知ってます? バルタ領を治めてる。
あたし、結婚します。叔父が縁談をまとめてくれました」
「馬鹿な。年が離れすぎている。君と同じくらいの子どもがいるんだぞ。しかも、もう三度も結婚してる」
「でも、ろくに持参金がないロジーカと結婚してくれます」
ロジーカは両親から財産を継げなかったし、冷淡な親戚も出し惜しむだろう。
「女が生きていくためには、裕福な男と結婚するしかないんです。きっと亡くなった両親もそれを望んでいます」
爪まで整えた指で、丁寧に、丁寧に杯を布にくるみ直し、箱の蓋を閉める。
「あなたには婚約者がいるって、親切な人が教えてくれました。ヘドヴィカさんって言うんですってね。名門の生まれで、氷の才女ってあだ名で、すっごく優秀なんだって。
……あなたとなら、この杯を交わせると思ってた。でも、ロジーカの勘違いでした」
箱を抱えなおし、女はくるりと背を向けた。
「さよなら」
振り返らず、宿の玄関へカツカツ靴音を鳴らしてと歩き出す。そのまま消えてしまう気がして、カールはか細い腕を掴む。
「離して」
声は拒絶しているが、足は止まっている。彼女は引き止められたいとどこかで思っているのだ。その考えに勇気をもらって、カルマンは言い訳を並べ立てる。
「あいつとは家の関係で仕方なく婚約しているだけだ。愛してるのは君だけで」
「あたしは!」
声が裏返っている。それで、泣いているのだと気づいた。
「あたしは結婚式を挙げるんです。両親が残したこの杯を使うんです。あなたのことがどんなに好きでも、公にできない関係なんか絶対にならない!」
涙が顎をつたい、零れる。ロジーカは背を向けたまま頑なにこちらを見ようとしない。華奢な肩は嗚咽を堪えようと小刻みに震えている。
たまらず、カルマンは痛々しい肩を抱きしめた。
「このまま君を一人にしたくない。会わないなんて言わないでくれ」
「じゃあ、あの人と婚約破棄してください」
ロジーカはキッと振り返り、まだ濡れる目でカルマンを睨みつける。
「あたしとの関係を続けたいなら、結婚してください。……どうせできないくせに」
言葉を失うカルマンの腕を振りほどき、女は宿へと駆け出した。
‡ ‡ ‡
「おかけになって。お時間を頂戴して感謝するわ」
絹のヴェールを被った令嬢が、白の手袋で席を示す。
大聖堂でのミサが終わり、信徒たちの足音はすでに遠い。
壁に聖書の一場面の絵画が掲げられた、寄進した貴族のみが使える控室には、二人の女しかいない。
ヘドヴィカの髪は前のように一部の隙もなく編み込まれているが、今日は秘書とは見間違えられないようだった。
外国製の深い青のベルベットドレス、首にかけた十字架には真珠が埋め込まれており、圧倒的な気品が身分の差を示す。
対して、白い外着で袖口のほつれたドレスを隠している娘は立ち尽くしたまま、今にも泣き出しそうに茶色の髪を俯けている。
ヘドヴィカは目を細める。顔立ちが奇麗だとは思わなかった。背も低い。自分のほうが目鼻立ちははっきりしている。しかし、化粧が上手いのか、目は実物より大きく、眉は美しく、唇は可憐な花のような桃色だった。
「早速、本題に入らせていただきますわ。あなたは、わたくしの婚約者と親しくしておいでですね」
「……はい」
相手は誤魔化すつもりはないようだった。否定しても無意味だなのが。
「率直に申し上げます。どうか、カルマンから手を引いていただけませんか」
内心腸が煮えくり返っているが、声には現れなかった。高貴な女はどんな時でも感情を露わにしないものだ。
「どういうことですぅ? あたし、カールにさよならしましたよ?」
ロジーカと呼ばれる女は小首を傾げる。そのあざとい仕草が小憎たらしい。
「あなたは、関係を続けるか結婚を迫ったそうですね」
「言いましたけど、それが? カールはお坊ちゃんです。どうせあたしみたいな……持参金のない女とは、結婚しないでしょ?」
逆に持参さえ解決できれば結婚できるとでも言いたげな言葉に、苛立ちが増す。最も、この女の何を見ても腹立たしいことに変わりないのだが。
「ところが、わたくしに婚約破棄を提案しました」
「そんなッ!」
相手ははっと口を押えた。信じられない、というようを装っているが、ヘドヴィカへの嘲笑を隠しているようにも感じる。
「わたくしとしては到底受け入れられません。婚約は両家の契約です。破棄されれば、カールは損害を賠償せねばならないでしょう。また、カールは賭け事で少なくない借金をしています。彼はわたくしの持参金をあてにしていたはずです」
ヘドヴィカは事務的に続ける。この女が裕福な生活を夢見て領主夫人を望んでいるなら、お門違いだと知らせるために。
「ここに、手切れ金があります。新しい場所で生活していくには十分な額のはずです。これを受け取って、彼の前から姿を消してもらえませんか」
ドレスのスリットから銀貨の詰まった革袋を差し出す。
テーブルの上に置いたが、娘は手を出そうとしない。しかしその瞳は冷徹に金額を計算していた。
やがて彼女は口を開いた。
「受け取れません。あたしはカールが好きです」
なんて幼稚なんだろう。こんな女のどこがいいのか、婚約者に問い質したい気分だ。
「あなたはそれで良いかもしてません。しかし我々の婚約はわたくしたちだけのものではありません。
我々はオノグル国の領主に連なる者として生まれ、この血肉は領民が納める税によってできています。
我々は領民に対して責任があります。この婚約には、多くの人間の生活に関わっているのです。
カルマンはご両親から継いだ領地があります。わたくしの実家とは領が隣接し、交易路や水路、防衛上の取り決めもありました。もし破談となれば、我が家との関係悪化だけでは済みません。家臣たちも、領民たちも影響を受けます。これは国の問題でもあるのです」
「……えっと? 結婚って相手が好きだからするんでしょ? 国とか関係なくないですか?」
これだけ説明してもわからないのか、とため息が出そうになった。
目の前の娘とオノグルの貴族として責任を説かれて育った自分との間には、常識とも言うべき決定的な隔絶がある。
「つまり、あなたは仕方なく結婚するってことですか? カールのこと好きじゃない?」
「そんな安っぽい言葉で、わたくしたちの関係を言い表さないで」
氷の才女の陰に、伏せたまつ毛の陰に不器用な少女の面影が過る。
「わたくしと彼は、物心がつく前からの付き合いですわ。
初めて馬に乗った日も、勉強が嫌で家庭教師から逃げ出した時も、ずっとそばにいた。王宮にお招きいただいた時は、前日まで作法の練習に付き合った。彼の両親が亡くなった時、真っ先に駆けつけて、冷たくなっていた彼の指をずっと握っていた」
語る自分の声は慈しみに満ちている。天涯孤独となってしまった彼の力になりたくて、領の経営を必死で勉強した。様々な事務仕事、税金の計算、村の視察、近隣の社交、陰に日向にずっと助けてきた。
「あなたの言う”好き”が、一時の情熱を指すのなら、確かにわたくしの中にあるものは違うのかもしれません。けれど、わたくしにとって彼は、もう家族も同然です。
彼を大事に思っているからこそ、わたくしは彼を破滅させたくない。彼が領主としての義務を放り出せば、最後に傷つくのは彼自身です。わたくしは妻として彼を守ります」
「カールはあたしのこと好きなんですよ? それなのに妻になるんですか?」
「彼があなたが必要だというのなら、仕方ない、許容します。けれど、わたくしたち貴族は、義務を果たすために、形だけでも秩序を保たねばなりません。わたくしは領主夫人として様々な雑事を引き受けましょう。あなたは愛人として彼の傍にいれば良い。これはあなたにとっても悪い話ではないはずです」
言っていて、腹が立ってきた。どうして泥棒猫にここまで気を遣わねばならない。
どうせ彼は熱に浮かされているだけだ。一時の感情。いずれ目を覚ましてくれる。
出会ったばかりの女にとられるはずがない。自分と彼の間には積み重ねた絆がある。そう自分に言い聞かせる。
「あたしに領主夫人は無理だから愛人で我慢しろって言ってるです? 勝手に判断しないでください。ロジーカ、認めてもらうよう頑張りますから」
思いがけずこちらの意図をくみ取った女に、自分が血の滲むような思いで身につけてきた教養を容易くがんばるなどと言う女に、怒りのあまり本音が零れた。
「あなたに常識的な振る舞いは難しいのじゃないかしら。婚約者がいる男に言い寄るなんて恥知らずな真似をするくらいですもの」
「そんな! あたし、出会ったときは婚約者がいるって知らなかったんです。カールだって何も言わなかったし」
ロジーカは酷い悪口を言われたとでもいうように涙目だが、その被害者面が鼻についた。
「嘘ね。知ってて近づいたでしょ。
仮にも過去に貴族の一員だというのなら、それぞれの一族が紋章を持っていることくらい知っているでしょう?」
自分は氷の才女なんて呼ばれている。頭は悪くない方だという自負もある。
情報を集めてくれる部下もいる。
「あなたが彼と出会った時に着ていた山羊の刺繍のマントは、彼ではなくわたくしの家の紋章よ。わたくしが心をこめて一針ずつ刺したの。
それにあなたが現れる少し前に、彼の周りを嗅ぎまわる連中がいたと報告を受けているわ。
彼は若く経験も少ない。結婚に口を挟むような近しい親戚もいない。調べ上げて狙いを定めたのね」
この女がカルマンと出会ったのは偶然ではない。この女がカルマンに抱いているのは純粋な好意だけではない。
「ふーん」
睨むようなヘドヴィカに、女は血のような色の目を細める。
何かが変わった気がした。具体的には言えないが、雰囲気のようなものが。化けの皮を剝がされてようやく本性を見せたのかもしれない。
じっとりと嫌な汗が額を伝う。
なんで恐ろしいと思うのだろう。目の前の相手は常識もわからない小娘のはずで。
「あなた、頭が良いって噂ですけど。馬鹿ですねぇ」
「ば?」
言われ慣れない言葉に、気の利いた返しもできず、未知と遭遇した子猫のように目を丸くしてしまった。
「だってあなた、馬鹿にしてるでしょ。あたしのことも、カールのことも」
「わたくしは確かにあなたを軽蔑しているかもしれません。しかし、カルマンとは幼いころからの付き合いです」
「ふーん。付き合いが長いなら当然カールのこと知ってますよね? 彼が好きなものはなんですか?」
「賭け事と狩猟です」
眉間に皺が寄った。彼のことは大切に思っているが、その趣味はいただけない。
「どんな賭け事が好きなんですか?」
さらなる追求に眉根が寄る。
「……そんなこと、何か関係ありますか?」
「どうせ答えられないんでしょ。あなた、カールのこと見てないから」
そんなことはないと言おうとした。けれど、確かに仔細までは答えられない。
「因みに、運で勝負するサイコロやコイントスが好きで、カードゲームとか、早馬を当てる類いはあまり好きではないそうです。他者の思惑や駆け引きが入ってくるからって。
因みにカールは狩猟が嫌いですよ。馬に乗るのは好きですけど、飛び道具を使って狙うのが苦手だそうです」
知らなかった。賭け事をする彼が理解できなかったので、やめるよう諫めるだけだった。
生き物を殺すような野蛮な遊びは苦手で、スポーツが不得手なので付き合うこともできず、狩猟会に出かける彼に幸運を祈ると告げ、通り一遍のことしか尋ねなかった。
「あなたは、カールの好きなことに興味を持とうともしなかった。低俗な遊びと決めつけ、関わりを避けた。知ってます? それって、相手のこと否定しているようなものです。相手に関心を持つのが、尊重の第一歩ですから」
確かに自分は賭け事なんかしたことないし、遠駆けをするという婚約者についていくこともなかった。
この女は、どちらもしたというのか。彼と共に。
「それとあなた、カールの執務を手伝っていたそうですね。
失敗を上げ連ね、文句ばかり言うって愚痴ってました。
自分を馬鹿にするような人間と、誰が一緒にいたいと思います?」
誰だって自分がかけがえのない存在であると思いたい。蔑ろになんかされたくないはずだと、女は語る。
彼女の言うことが図星だと、そう思ってしまうからだろうか。
「馬鹿にしているわけではありません。わたくしはただ、立派な領主になっていただこうと思って」
「へー、今は立派じゃないってことですぅ?」
頬杖をついて覗き込まれ、ヘドヴィカは言葉に詰まった。
だって事実だ。領の経営に興味を持たず、その運転資金を賭け事のチップに溶かすような領主のどこが立派だというのだろう。
「肯定するばかりでは、彼のためにならないわ」
「でも彼は、褒められて伸びるタイプですよ。ご両親を早くに亡くし、愛情に飢えている。甘やかしてほしいんです。なのに、あなたときたら否定ばっかり。
できないことを指摘されて、できるようになろうと奮起する人ばかりじゃないんですよ。
これは得意じゃないって諦める人だって、自分には何もないって悲しくなる人だっているんです」
確かに自分は、やればできるのだから、注意されたくないなら努力すれば良いと思ってしまう。
寧ろ、なんで彼は努力をしないんだろう、と思っていた。
「あなたのお話は、貴族として義務を果たすべきだ、領民を守るべきだ、国のことを考えるべきだ、これだけ世話を焼いてあげたわたくしを尊重すべきだ。
それって、他人がしてほしいことでしょ? そこにカールがしたいことって入ってます?」
鼻にかかった甘ったれた喋り方なのに、舌鋒は鋭い。
頭がカッと熱くなるのは、図星をさされているからだろうか。
自分はそんなこと思っていない。ただ、彼のために必死で。
でも、本当に? 女の言葉を聞いていると立ち位置を見失いそうになる。そう思ってたのは自分だけで、自分の独りよがりだった? 少なくともカルマンにはそう受け取られていたのだろうか。
「あなた、カールのこと本当に愛していたんですかぁ? こうありなさいって理想の姿を押し付けるだけで、目の前の彼を何も見てなかったんじゃないですか? だから愛想をつかされたんでしょ」
ロジーカは「これ、お返しします」と銀貨の詰まった革袋をこちらへ押しやる。
「もっと上手く立ち回るべきでしたね。
あなたが周囲を味方につけられれば、まだ勝算があったでしょうに。元凶に頭を下げて頼まなくてはいけないほど、追い詰められている。あなたの言う恥知らずな女が大きい顔をしている時点で、あなたの敗北です。
領主夫人になれるかもしれないのに、この程度の手切れ金で満足すると思ってるんですか?」
女は席から身を乗り出した。
桃色の唇を三日月の形に吊り上げ、令嬢の耳元に囁く。
「なんでそんなにバカなんですかぁ?」
バチン、と乾いた音がした。
ヘドヴィカは手を振り上げたまま呆然としている。
嘲りの声に、反射的に手が出たのだ。
彼女は今まで、高度な教育を受け、優秀な成績を出して称賛されていた。血統も高貴な女はこんな侮辱を受けたことがない。それが、二度までも。
「ふぇ」
ぶたれた頬は徐々に真っ赤になっていく。ロジーカは頬を抑えた。
呆然と見開かれた瞳が、徐々に潤んでいく。
「痛い! なんでこんなっ! 暴力を振るうなんて……っ」
ロジーカはぷるぷる震えながら甲高い声で喚いた。
「ご」
幼子に目の前で泣かれたら、自分が悪くないと思っても、反射的に謝りたくなってしまう。
涙を目にしたヘドヴィカは一瞬、気が迷った。
「何をしているっ!」
ドアがばん、と開いた。ヘドヴィカは息を止める。入ってきたのは婚約者のカルマンだ。
なんでここに。タイミングが良すぎる。
呆然自失のヘドヴィカが反応するより先に、カルマンは頬を押さえ、泣いているロジーカを背でかばった。
「金を払うから別れてくれ、それがダメなら愛人に甘んじろっていうから、あなたはカールのこと愛してないんだって言ったんです。そしたらほっぺを叩いてきて」
「わ、わたくしは」
自分は悪くない。女に手を上げたかもしれないが、それ以上に言葉の暴力を受けた。
でも、敵意のある瞳で睨む婚約者に、なんと弁解したら納得してもらえるのか、見当がつかない。
なんでそんな女を庇うのだろうと思った。傷つけられたのはこっちだ。その女は害悪だ。
険のある感情が表に出てしまったらしい。
「なんだ、その目」
「あたしの言うこと、何か間違ってますぅ?」
女の言うことは何も間違ってない。多少婉曲されて、省かれているが、真実だ。
婚約者の表情は憎々しげだ。その目に映る自分が敵になってしまったのだと悟った。
「お前とは婚約破棄する!」
たった今、元になってしまった婚約者が決別を宣言する。
頭が真っ白になった。
視界の端、婚約者の腕の陰で女が嗤っていた。
‡ ‡ ‡
「休憩されませんか?」
声をかけられ、帳簿をめくる手が止まっているのに気付いた。
ありがとう、とカップを受け取った。ほっとする味のハーブティー。カモミールが入っているのか、ほのかにりんごの香りがする。
狐の髪色をした青年、オルバンが心配そうにこちらを伺っている。お茶汲みなんて侍女の仕事なのに、この気の利く文官が、気遣ってくれたのだろう。
あの後、ツツォル家から正式に婚約破棄の通知が来て、父には失望され、母には泣かれ、確かだったはずの将来設計を失い、宙ぶらりんになってしまった。
ふとした瞬間に、婚約破棄されたことが思い浮かぶ。後悔して何度も落ち込んでいる。
「こんな有様ではダメね。自分が嫌になるわ」
「あなたは何も悪くありませんよ」
狐の髪色をした青年、オルバンが優しい言葉を投げてくれる。
あの女が、自分を馬鹿にするような人と一緒にいたいと思わない、と言っていた。
そうかもしれない。今自分の心は弱っている。否定されたら立ち直れないかもしれない。
「いいえ、どんなことがあるにせよ、暴力に訴えたわたくしが悪かった」
思えば、あの女はわざとヘドヴィカを挑発したのだ。ミサの後に、カルマンと会う約束でもしていて、近くにいることを知っていたののかもしれない。
自分が必死に取り繕ってきた世間体は、自分の味方をしてくれなかった。出しゃばりで可愛げがなく、婚約者に捨てられるのも当然の女として表向きは同情を示され、陰では嘲笑われている。婚約していたのに一方的に破棄した相手、婚約していた男に言い寄った相手の方に否があるというのに。
恋愛ごとに勝敗があるとしたら、自分は惨めな敗残者だ。
今日、カルマンはあの女と婚約式を開いているはずだ。自分は当然呼ばれなかった。か弱い恋人に危害を加えようとするヒステリックな女を、誰が招待するだろう。
唇を噛み締める。いけない。せっかくオルバンがハーブティーを淹れてくれたというのに。
「あなたって優しいのね。あなたと結婚できる人は幸せね」
褒めると、オルバンは耳まで真っ赤にした。それがまた微笑ましい。傷ついた心が温まるような気がする。
「誰か良い人はいないの?」
「それなのですが……」
彼の答えを待つ耳に、慌ただしい物音が飛び込んできた。
それは、常ならば眉をしかめるほどの足音だった。
「お嬢様、お伝えすべきことがございます」
部屋の扉から古株の侍女が顔を出す。彼女は四十を過ぎ、他の侍女たちを指導すべき立場だというのに、ノックも忘れている。
「先ほど、カルマン様の婚約式で多数の方が嘔吐や腹痛となられ、亡くなった方もいらっしゃるとの知らせが来ました」
「え!?」
「ジャンシ様がいらっしゃっていますが、お通ししてよろしいですか?」
「え、ええ」
ジャンシとは、ツツォル家に使える執事見習いだ。執務の手伝いでツツォル家に出入りしていた頃にすっかり顔なじみとなった鷲鼻の青年は今にも倒れそうな青い顔で入室した。
「ジャンシ、何があったのかしら。家の使用人が妙なことを言っていたけど、聞き間違いよね」
「いいえ、ヘドヴィカ様。事実でございます。招待客にはカルマン様が仕留めた鹿が振舞われましたが、その肉が古かったようで」
カルマンは狩りは苦手だと言っていた女の話を思い出した。たぶん、自力で獲物を仕留めることができず、急遽用意する羽目になったのかもしれない。
「式の一、二時間後に鹿肉を口にした殆どの者が腹を下し、嘔吐された方もおられます。高熱を発した方もおられ、まだ腹痛に苦しんでおる方もおられます。特に重篤な四名、亡くなりました。長年当家に勤めておりました執事のフリギェシュ、招待客のハビッチ家のデーネシュ様、シフ家のドモンコス様そして……カルマン様」
「カルマンが?」
ヘドヴィカは信じられなかった。だって彼はまだ若く、壮健である。彼が生き残るならまだしも、命を落とす少数側にいるとは考えられない。余程たくさん鹿肉を食べたのだろうか。
そもそも、彼が死んだなんて信じられない。あまり悲しくないのは、単に事実が受け入れないからか、自分が薄情だからか、それとも……自分が彼の不幸を願っていたからか。
「あの、ロジーカさんは」
「さあ。式の最中、緊張のあまり食事を口にしなかったので、無事だったようです」
執事見習の顔が強張る。彼女が来なければ婚約式を開くこともなかった。とんだ疫病神だとでも思っているのかもしれない。
「今はティサ家にお戻りかもしれませんが、このようなことがあって今後良縁に恵まれるとも思えませんし。修道院にでも行ったのではないでしょうか」
「それは」
お気の毒、と言うべきだろうか。
良い気味だと思わないでもない。自分の地位を奪った。自分の未来を奪った。彼女を呪いたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。それでも自分は、果たしてこれほどまでの不幸を願っていたのだろうか。
裕福な領主夫人となることが目的だったとしても、彼女はカルマンのことをよく見て、理解しようとしていた。自分よりも。それだけは事実だ。
だからやっぱり、お気の毒と言うべきなのだろう。伴侶となるはずだった男に死なれてきっと悲しいはずだから。
ヘドヴィカは目を伏せ、しばし黙祷した。元婚約者を含めた死者に哀惜と、幸せになりたくて他人を押しのけてまで掴み取ったのに、不幸になってしまった女性に同情して。
「それで、なぜあなたはここに?」
ツツォル家の執事見習、ジャンシとは知り合いだが、わざわざ関係の切れた元婚約者の家に直接知らせにくてくれるほど親しくはない。
今更その異常に気が付く。
――まさか
血の気が引いた。よく食中毒は毒を盛ったと勘違いされることがある。主人とその新たな婚約をよく思ってなかった人物といえば、ヘドヴィカだ。自分は、疑われているのだろうか。
しかし執事見習いは、傍らの文官の青年に跪いた。
「お迎えにあがりました、オルバン様」
「……どういうこと?」
ヘドヴィカの問いに、オルバンはバツが悪そうな顔をした。
「僕はツツォル家の分家の血筋で、カルマンとは従弟にあたります。しかし、ご子息が壮健ならば継ぐべき財産もなく、生計を立てるために職が必要でした」
婚約者の家に幼いころから出入りしていたのに、オルバンが縁戚なんて思わなかった。言われてみれば鼻筋や耳の形が似ている気がする。
「待って。それなら、なぜ我が家に?血族であるツツォル家に面倒を見てもらおうとは思わなかったの?」
「幼いころから外国語に計算、弓の腕、ご子息よりできてしまうことが多く、身の程を弁えろと睨まれていました。婚家として出入りすることになった旦那様がその様子をたまたま見とがめ、この家で文官として働けるよう、雇ってくださいました」
「そうだったの。わたくし、ちっとも知らなくて」
「僕が知られたくなかったのです。お嬢様はご子息のことを大事に思っていらっしゃったので、悪い評判を聞かせたくなかった」
オルバンはふっと自嘲する。
「……単に嫌われたくなかったのかもしれません。婚約者を悪く言ったら、きっとあなたは僕をお嫌いになったと思います」
そうだろうか。そうかもしれない。自分はあまりにも見えていなかった。
「きっとわたくしのこと、馬鹿な女だとお思いになっていたでしょうね」
婚約相手の願いや、本性に目を向けず、献身しているつもりで空回っていた。
「そんなことありません、あなたは素敵な女性です。カルマンには見る目がなかったんです。僕はずっと彼のために一生懸命なあなたを見てきました。彼が羨ましかった」
そんなこと言わないでほしい。胸が躍ってしまう。
ヘドヴィカはカモミールティーに視線を落とす。もう殆ど残っていない。
「ツツォル家を継ぐの?」
「はい。以前お嬢様が仰っていましたよね。オノグルの貴族として、領民の安寧を優先すべきだと。正直僕には荷が重いですが、できるだけのことをしようと思います」
余計なことを言うのではなかった。
領主となってしまえば、当然ながら彼は文官の職を辞し、この家を出ていく。
こんな風にヘドヴィカの心に寄り添って、ハーブティーを入れてくれることはなくなるだろう。
祝福すべきなのに、言い出せずに俯いていると、オルバンは席を立った。
「まだ気持ちの整理がつかないかもしれませんが」
ヘドヴィカの前に立ち、その白い手をとった。
「お嬢様。いえ、ヘドヴィカ。あなたのことを思っています。僕と婚約してくださいませんか」
‡ ‡ ‡
「……報告は以上です」
女が告げると、正面に座す彼女の主は執務机の隠し引き出しから一枚のリストを取り出した。
この冬に、国境付近の宿で不幸な事故が起き、死亡した身元不明の男がいた。その持ち物を調べてみたところ、どうやら陸続きの隣国、帝国のスパイらしいということがわかった。帝国はこのオノグル王国への侵略を虎視眈々と狙っている。彼が遺したリストはオノグル人の名前……オノグル国内の協力者たちの名簿だった。
そこで国の最高権力者でもある主は、オノグルの死神に命を出した。
死神というのは正式な名称ではない。あまりにオノグルの王に都合の良い人間ばかりが死ぬので、訝しんだ者たちが「この国には死神がいる」と言い出した。
憶測はある意味真実であった。人為的に事故死を引き起こす名もない組織が存在していたのだから。
オノグルは元は騎馬民族の国。族長たちからの信頼が無ければ王の地位は危うい。
帝国への情報漏洩に関わっていたと直接処刑すれば見せしめにはなるだろうが、領主も名を連ねている簿の存在を明らかにすれば、いずれ帝国と戦う彼らに動揺は避けられない。
そこで主人は秘密裏にリストの人物を始末することにした。
帝国へは警告になるだろう。事故死した彼らの関係性、全体像を知るのは帝国のだけなのだから。
「しかし、食中毒とはな」
この国の死因の大半は食中毒である。
食物だけでなく水が原因のこともある。衛生環境が多少改善したとは言え、肉は常温で保存するしかなく、一度呼吸麻痺などの重篤な症状が出てしまえば、有効的な治療方法はない。
「一度に複数人亡くなっても不思議ではありませんから」
ツツォル家は仮想敵国である帝国に近い領である。開戦した場合は前線になることもあり得る。だというのにカルマンは賭け事に負け、借金の補填に要塞の機密情報を漏洩していた。それも執事も巻き込み、家ぐるみで。
縁戚にもターゲットがいた。自分も領地の情報を売っていて、カルマンを唆したデーネシュ、オノグル軍の物資を横流ししていたドモンコス。彼らも招待客に含ませた。
処刑場を整えるために婚約を目指したと言ってよい。
「確実に殺れる保証はなかっただろう?」
人為的に食中毒を引き起こすことはできるかもしれないが、それで対象を殺害することは不可能だ。相手が幼子や高齢者、病弱な人間なら死亡するのもわかるが、今回のターゲットは健康な十代の青年である。
「だから、杯によく似た症状の出る毒を仕込みました。蜂蜜で包み、底の方に沈殿させて」
宝物と偽った鍍金の杯は暗殺の成功率を上げるための小道具だった。
婚約する二人が杯のワインを飲み干す風習を利用した。蜂蜜が溶けきる前にワインを口にしたロジーカは何ともないが、その後杯をくるくる回すなどして蜂蜜を溶かし、毒が溶け出した残りをカルマンに飲ませた。
万が一毒の存在がバレたとしても、婚約破棄された令嬢が疑われるだけで、婚約したばかりの幸せいっぱいの娘に疑いの目が向くことはないだろう。
主は一つ頷いて、リストにあった名前に五本の線を引く。
それを見届けない内に女は、
「あ”ーガキのお守り疲れるですぅ」
と毒を吐いた。
自らの責任から逃れようとする甘えた男の相手も疲れたが、世間知らずのお嬢様の相手も疲れた。
才女だかなんだか知らないが、本からの知識だけで社会経験に乏しく、目の前の人を見る目がない。
良い教訓を授けてやったのだから、これからの成長に期待したいものである。
主はお前何歳だ、と視線で問いかけたが、口には出さない。女に年齢を尋ねるのは、主従が解約され、寝首をかかれる程のタブーである。
「しかし、殺す必要はあったか? 矯正すればどうにかなったんじゃないか? 若いし」
「あいつ、賭け事好きだし、付き合っている時も婚約者がいるって言い出さなかったですよ。性根腐ってるです」
令嬢はまっとうにしようと働きかけていたが、信頼を得てない相手からの言葉も献身も響かないものだ。
信頼を得たロジーカなら、スパイ行為をしないよう監視し、更生させることができたかもしれないが、そんな労力を割きたくない。
「婚約者さんはあたしに感謝してもいいくらいですよね。結果的にあんな男と結婚せずに済んだんですから」
「事情を全部知らない限り、男をとられて感謝などしないと思うぞ」
自分勝手な女よりは、多少思いやりがある主人があきれ顔で指摘する。
「では、事情を知る我が君はあたしに感謝するです?」
革張りの長椅子にどかりと腰を下ろす。
来客用だけあって、座板が柔らかい。背のカーブもフィットする。
主はその無作法に眉をしかめたが何も言わなかった。この数か月働きづめである。苦労をかけている自覚はあるらしい。
「何か望みがあるのか?」
「結婚相手を紹介してください。貴重な若い身空をフイにして働いているんですから」
「お前、結婚願望あったのか」
主が猫のようなシトリンの瞳を丸くしている。
「失礼な。あたしだって人並みにありますよぅ」
「お前は自力で男をひっかけられるから、結婚しないのは自らの意志だと思っていた。しかし、よく考えれば任務に支障を来すから自粛してくれていたのだな」
生真面目な主は鷹揚に頷いた。
「わかった、努力しよう。因みにどんなタイプが好みだ」
女はちょっと考えてから答えた。
「うーんと年上で」
「年上が好みなのか」
「優しくて」
「甘えたいタイプだったのか」
「うるさい親戚がいなくて、たっぷり財産を遺してくれそうな老人」
「殺る気か」
主は半眼になったが、女は頓着しない。
「お金も、皺だらけのおじいさんより、あたしみたいな可愛い女の子に使ってもらった方が嬉しいと思いますよ?」
「そんなことで善良なオノグル国民を殺さないでくれ」
「何言ってるです? 裕福な男なら女がほっとかないです。その年まで独身ということは、よっぽど後ろ暗いことがあるんですよ」
「決めつけは良くない」
善良なる主は首を振る。
エゴイスティックな女は主のために用意された茶菓子を、爪先まで整えた指でちゃっかり摘まむ。
「あ、このベイグリ、美味しい」
渦巻き型のこのロールケーキのような焼き菓子は、本来聖夜のものだ。
パンっぽい白い生地に、皮ごと煮たブドウのジャムや香りづけのワイン、レーズンを混ぜ込んだフィリングを巻き込んで焼いてある。
「もしかして、あの人が作りました?」
「ああ。王の配偶者のはずだが、一体どこを目指しているのやら」
異国から来た主の婚約者殿は貧乏生活が長く、料理長と玉ねぎの切り方について白熱した議論を交わすほどには料理ができる。
このベイグリ、本来は生地にクルミやケシの実のペーストを混ぜ込むのだが、ワインくらいしか味の違いがわからない主が少しでも楽しめるように葡萄をメインにしたのだろう。
その気遣いに、我が君は気づいているのだろうか。
……気づいてないだろうな。
戦地においては軍師要らずの優れた策略家だが、自分のことになるととんだ朴念仁だから。
結婚するとして、相手が裕福ならそれに越したことはないと思っていた。
でも、落ち込んだ自分にお茶を淹れてくれるような、少しでもおいしく食べてほしいと茶菓子一つに試行錯誤してくれるような、そんな相手が自分にも現れるだろうか。
そんなこと考えるなんて、らしくない。あたしは男を手玉にとる超可愛い死神様だ。
とりあえず長らく不在にしていて機嫌を損ねているであろう財布君たち二百名余りを構ってやらねばならない。
窓から零れてくる午後の微睡に、死神はうーんと伸びをした。
よく悪役令嬢もので浮気相手が頭の軽い女に扱われるけど、絶対そんなことないと思うの。男を落とすのも(勉学ではないにせよ)頭を使うと思うの。
だってこの話書くために、恋愛偏差値底辺の作者は心理学の本とかラブ〇の上野さんとか読む羽目になったから!
あ、この話を読んで死神ちゃんに興味を持たれた方は拙作『女王陛下に婿入りしたカラス』または『王妃代行、猫曜日(女性主人公版)』をご覧ください。最後の方にちょろっと活躍します。




