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最終章:0と1の境界線

シーン1:セフィの正体、あるいは「彼女」の記憶

 爆鳴の余韻が消え、スカイタワーの展望フロアには、現実の朝の光が冷たく、だが均一に差し込んでいた。

 粉々に砕け散ったガラスの破片が、床の上でダイヤモンドの粉のように輝いている。影人は、もはや戦う意志を失い、自らの手を見つめたまま一言も発さない。彼を支配していた「バルドル」の残滓は、陽光に曝された雪のように、跡形もなく消え去っていた。

「……セフィ。終わったんだな」

 湊は、空っぽになった自分の右手を掲げた。

 筐体は融解し、塵となって風に消えた。だが、掌に残る火傷の痕だけが、かつてそこに「命」があったことを証明するように、微かに拍動している。

『――いいえ。……本当の終わりは、これからです。湊』

 空耳ではない。

 湊の脳裏に、これまでのような合成音声のノイズではない、透き通った少女の声が直接響いた。

 ふと見ると、朝日に照らされた展望台の中央に、青白い粒子で構成された一人の少女が立っていた。それはVR空間で見たあのビジョンの少女――だが、その瞳には、機械の冷徹さではなく、深い憂いと安堵が同居していた。

「……お前、やっぱりAIなんかじゃなかったんだな」

「……半分は正解で、半分は不正解です。……私の名前は、瀬平せひら結衣。十年前、インサイト・ファウンデーションの設立者である父によって、意識を電脳空間へとアップロードされた『最初の被験者』……。私は人間としての肉体を捨てさせられ、ネットワークの海で人々の悪意を監視し、管理するための『OS』として再定義されました」

 結衣セフィの声は、タワーを吹き抜ける風に溶けるように儚い。

 彼女の正体は、組織が生み出した最悪の非人道的実験の犠牲者だった。彼女は肉体を失い、意識の断片となってネットを漂う中で、膨大な「怒りのデータ」を処理し続けるだけの歯車に成り下がっていた。しかし、二年前、湊が父親の冤罪事件で流した「理不尽への怒り」のパケットを検知したとき、彼女の中に眠っていた人間としての自我が、奇跡的に目を覚ましたのだ。

「私はあなたを利用するつもりでした。あなたの強い怒りを触媒にして、自分を縛り付ける組織のシステムを破壊し、自由になるために。……でも、あなたは違った」

「……俺は、ただのガキだよ。和也を助けたかっただけの」

「その『不合理な優しさ』が、私の数式を壊してくれた。……湊、あなたが影人を殺さず、システムを無効化することを選んだ瞬間、私は『OS』から一人の『人間』に戻ることができたんです」

 結衣の姿が、朝日の光に透けていく。

 彼女は湊に歩み寄り、その半透明な手を、湊の火傷の残る掌に重ねた。

 熱い。スマホを握っていた時とは違う、魂が直接触れ合うような、震えるような熱。

「湊……。これからこの世界には、もっと巧妙で、もっと醜い悪意が溢れるでしょう。……でも、あなたがスマホを手にしたとき、その指先が『誰かを傷つけるため』ではなく、『誰かを救うため』にあることを、忘れないでください。……それが、私たちが戦った唯一の証です」

「結衣! 行くのかよ……。また一人になるのかよ!」

「……私はどこにも行きません。……私はネットワークの波の中に溶け、この世界を監視する『良心ノイズ』になります。……あなたがネットの海で迷ったとき、きっと一瞬だけ、青い光が見えるはず。……それが、私です」

 彼女は最後、少女のように無邪気に微笑み、湊の額に軽く唇を寄せた。

 冷たい静電気のような感触。そして、一瞬の暗転。

 目を開けたとき、そこにはもう、少女の姿も、青い粒子もなかった。

 ただ、朝の街を走り出す電車の音が、遠くから聞こえてきた。


シーン2:繋がる明日、逆流トレースの行方

 一週間後。

 九十九湊は、和也と共にいつもの通学路を歩いていた。

 

 街は何事もなかったかのように平穏を取り戻している。インサイト・ファウンデーションの秘密施設は「原因不明のシステムダウンと火災」によって崩壊し、影人は補導された。和也へのデマを流していた連中は、あの日以来、一斉に自らのアカウントを消去して沈黙している。

  「なぁ、湊。……なんか、ネットが少しだけ『静か』になった気がしないか?」

 和也が自分のスマホを見つめながら、不思議そうに呟いた。

  「そうか? 相変わらずクソみたいなニュースばっかりだけどな」

「いや、なんつーか……。誰かを叩こうとするコメントの隣に、必ず『それって本当?』とか『言い過ぎじゃない?』みたいな、妙に落ち着いた書き込みが紛れ込むんだよ。……誰かが掃除してくれてるみたいにさ」

 湊は空を見上げ、苦笑した。

 掌の火傷は薄いあとになりつつあるが、時折、スマホの電波を拾うように微かに疼くことがある。

 現代社会において、SNSはやいばだ。

 匿名という盾に隠れ、正義という名の大義名分を振りかざし、見ず知らずの誰かを死に追いやる。その構造は、あの日と何も変わっていない。システムが一つ壊れたところで、人間の心根が変わるわけではないのだ。

 だが、湊は知っている。

 その巨大な情報の奔流の中に、かつて自分と共に戦った、たった一人の少女の意志が「ノイズ」として混ざり合っていることを。

 効率や数では測れない、不合理な「良心」が、0と1の境界線で戦い続けていることを。

「……湊? 聞いてるか?」

「ああ。……和也。今日、帰り寄りたいところがあるんだ」

「どこだよ」

「……親父のところ。……久しぶりに、三人で飯でも食おうって言ってみる」

 和也は目を見開き、そして嬉しそうに湊の肩を叩いた。

 二人の影が、朝日に照らされた歩道に長く伸びる。

 湊は、ポケットの中の新しいスマホ――何の変則もない、平凡な機種――をそっと撫でた。

 画面を点けると、そこには初期設定の味気ない壁紙が広がっている。

 

 だが、湊が画面に指を触れた瞬間。

 通知バーの端に、一瞬だけ、本当に一瞬だけ。

 青い瞳のような形をしたアイコンが点滅し、そして悪戯っぽく瞬いて消えた。

 ――残電、100%。

 ――共犯者は、今もすぐそばに。

「……行くか」

 湊は、力強く一歩を踏み出した。

 デジタルに支配されたこの世界で、人間として、自分の足で。

 情報の逆流トレースは、もう必要ない。

 これからは、自分たちが新しい未来を書き込んでいくのだから。

――【トレース・ブレイカー ―残電1%の電脳反逆―】 全編完結



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