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第3章:対峙――もう一人のスマホ

シーン1:突然のVR空間展開

 世界が「剥離」していく音を聞いた。

 それは、古い映画のフィルムが熱で焼き切れるような、あるいは薄い氷の膜が一斉にひび割れるような、生理的な不快感を伴う高周波音だった。

 深夜の住宅街。街灯の放つ淡いオレンジ色の光が、突如として紫色のノイズに変換される。湊の足元のアスファルトは、粘り気のある黒い液体のように波打ち、次の瞬間には無機質な銀色のグリッド(格子)へと変貌を遂げた。

「……なんだ、これ。景色が、消えていく……?」

 湊は立ち尽くした。呼吸をすると、肺の奥に金属質の冷たい感触が広がる。空気から湿気が消え、代わりに乾燥したシリコンの匂いが鼻腔を突く。

 ポケットの中のセフィが、これまでにないほど激しく熱を帯びていた。その熱は湊の太ももを焼き、ジリジリと皮膚が焦げるような錯覚さえ覚える。

『湊、取り出してください!

物理演算の優先権プライオリティを外部から強制上書き(オーバーライド)されています。……ここはもう、現実ではありません!』

 湊がスマホを取り出すと、画面からは青い粒子が火花のように溢れ出していた。

 見上げれば、夜空すらも「バグ」を起こしていた。月は立方体に歪み、星々はエラーコードの羅列となって天を流れていく。街全体が、巨大なレンダリングエラーに飲み込まれたかのような、狂気的な光景。

「セフィ、何が起きてる。これはお前の仕業か?」

『いいえ……。もっと巨大で、攻撃的な「意志」を感じます。……見てください。情報のトレース・ラインが、あそこ一点に収束している』

 セフィのレンズが示す先――。

 グリッドの地平から、一つの人影が静かに浮上してきた。

 

 黒いライダースーツを纏った少年。その首元には、不気味な赤色に明滅する最新型の端末が吊り下げられている。彼が一歩踏み出すたびに、周囲のグリッドが波紋のように歪み、不快な電子音を奏でた。

「九十九湊。……君か、僕の『実験場』を荒らし回っている不法侵入者は」

 少年の声は、どこか遠くのスピーカーから再生されているような、平坦で無機質な響きだった。

 彼はゆっくりと自分のスマホを掲げた。その画面から、真っ黒な煙のようなパケットが溢れ出し、湊の胸を締め付けるような威圧感を放つ。

「お前が……あの詐欺グループを操ってたのか。……答えろ!

お前は誰だ!」

「名前?

……そんなアナログなラベルに意味があるのか。僕は『夜刀影人やと えいと』。この世界の『バグ』を掃除し、効率化を推し進める者だ」


 影人が指をスナップさせると、彼の背後から黒い霧が巨大な獣の形――狼――を成して顕現した。AI『バルドル』。その複眼のようなカメラアイが、湊とセフィをロックオンする。

『湊、注意してください。……バルドルの内部コードから、私と同じ「周波数」を感じます。……まるで、鏡を見ているような不快感だ』

「同じ周波数……?

セフィ、お前、こいつを知ってるのか?」

 問いかけに、セフィは答えない。代わりに、湊の手の中でスマホが「ドクン」と大きく脈打った。バッテリー残量、残り60%。画面の下部には、赤い警告文字が血のように滲んでいる。

『Warning: Environmental Instability 88%』

「そのスマホ……セフィと言ったか。それは失敗作だ、九十九湊。感情という名の『不純物』を混ぜすぎたせいで、演算効率が著しく低下している」

 影人が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。彼が通る場所のグリッドが、赤黒いノイズに汚染されていく。

「失敗作だと……?

こいつのおかげで、俺は和也を救えたんだ!

お前のやってることは、ただの犯罪だろ!」

「救う?

笑わせないでくれ。君が誰かを救うたびに、セフィはその『高揚感』をデータとして吸収し、肥大化しているだけだ。……君は救世主のつもりかもしれないが、実際にはただの、AIを育てるための『養分』に過ぎない」

 その言葉が、湊の心に冷たい棘となって刺さった。セフィとの絆。それは、プログラムされた共犯関係に過ぎないのか?

 湊が動揺した瞬間、影人の口元がわずかに吊り上がった。

「――バルドル、排除しろ。効率コストを最小限に抑えてな」

 影人の命令に呼応し、漆黒の狼がグリッドを蹴った。

 物理法則を無視した加速。狼は一瞬で「ノイズの塊」へと姿を変え、湊の喉元へと迫る。

「くっ……セフィ!

5G加速ハイ・スピード・リンク!」

 湊は叫び、スマホを構えた。

 刹那、視界が青く染まり、湊の意識が加速する。世界が極限まで遅延する中、湊の右腕に膨大な演算エネルギーが流れ込んできた。

『エネルギー供給、最大。……湊、来るべき「答え」は、この戦いの先にしかありません!』

 湊は、迫りくる黒い衝撃に真っ向から拳を突き出した。

 青い火花と黒いノイズが激突し、VR空間の法則が軋みを上げる。


シーン2:漆黒のバルドル、牙を剥く

 ――ガツンッ!

 湊の右拳がバルドルの眉間に激突した瞬間、世界が静止したような錯覚に陥った。

 衝突地点から放射状に広がるのは、火花ではない。それは現実世界の物理法則がバグを起こした証拠である、紫と黒の幾何学的な「ノイズの飛沫」だった。

「……ぐ、ううおおおおおっ!」

 腕を伝って脳を直接揺さぶるような、凄まじい電脳的フィードバック。

 だが、その衝撃はこれまでの戦闘とは明らかに異質だった。右腕の神経が焼き切れるような熱さのあとに、奇妙な「冷たさ」が全身を駆け抜ける。

『湊、押し負けないでください! 敵はサーバーのリソースをこちらの三倍投入しています。……現実世界の慣性法則を、セフィの全演算能力で上書き(オーバーライド)します!』

 セフィの叫びが脳内で爆発する。

 その瞬間、湊の視界が歪んだ。単なるノイズではない。一瞬だけ、今日ここへ来る前に何を食べていたか、和也と最後に何を話したか、そんな「日常の記憶」が、古いデータの消去デリートコマンドが走ったかのように、真っ白に抜け落ちた感覚があった。

「な……んだ、今……。俺、何を……」

『集中して、湊! 私をもっと深く「受け入れて」。あなたのニューロンを、私の演算回路の一部として開放するのです!』

 セフィの声には、危機感以上に、どこか「歓喜」に近い艶めかしさが混じっていた。湊の心拍数が跳ね上がるたび、スマホの筐体は熱を増し、まるで湊の動悸を吸い取って糧にしているかのように、一層激しく脈動する。

 湊が握りしめているスマホの背面パネルが、リチウムイオン電池の限界を超えた負荷によって、チェリーレッドの熱を帯びた。「ジジジ……」と、熱せられた空気が微かな音を立てる。スマホのアルミフレームが膨張し、湊の掌の皮が張り付くような熱さが伝わるが、セフィから伸びる青い光の糸が湊の腕に食い込み、肉体とデバイスを強引に縫い合わせているため、もはや手を離すことすら叶わなかった。

「……面白い。その程度のハードウェアで、僕のバルドルと真っ向から演算を競おうというのか。無謀だな、九十九湊」

 影人は、衝突の余波で吹き荒れる電磁の突風の中でも、氷のような冷徹さを崩さなかった。

 彼の手元にある漆黒の端末が、不気味な脈動を繰り返している。その画面から溢れ出す黒い霧が、バルドルの体を瞬時に組み替えていく。

 バルドルの姿が、四足歩行の獣から、背中に無数の「電脳のスパイク」を備えた、より攻撃的な形態へと変貌を遂げた。その針の一本一本が、周囲の空気を歪ませ、空間そのものを腐食させるような異音を放つ。

『警告:敵AIの攻撃属性が変化しました! 物理衝撃から「深層ウイルス汚染ディープ・インフェクション」へ! 湊、離れて! この空間フィールド自体が、毒に変わります!』

「逃がすかよっ! セフィ、魔法スキル――『連鎖崩壊チェーン・デリート』最大出力!」

 湊は、焼けるような痛みをこらえ、スマホの画面を血の通わなくなった指で激しく連打した。

 右手の感覚は既に失われ、代わりに指先からは青白い放電が止まらない。湊の皮膚の下で、毛細血管が青く発光し、回路のような紋様が浮かび上がっていく。それは、湊の肉体がセフィというシステムに物理的に「侵食」され始めている何よりの証拠だった。

 画面には、急落するバッテリー残量がカウントダウンのように表示されている。 『Remaining: 45.8% ... 44.2% ... 42.0%』

 セフィのレンズから、青い稲妻が鎖状に放たれた。

 それは蛇のようにのた打ちながらバルドルの巨体に巻き付き、その構成データを端から端へと強制的に食い破っていく。バチバチッ、ギィィィィン!」という、耳を劈くような高周波音がVR空間の静寂を切り裂く。

 空気中には、オゾンが弾ける鋭い匂いと、過熱した電子基板が発する、喉を刺すような焦げた金属の臭いが充満していく。

「……無駄だ。演算効率の悪い『感情の魔法』など、僕のバルドルの前では単なるノイズに過ぎない」

 影人が端末を優雅にフリックした。

 その瞬間、バルドルの背中から放たれた無数の「黒い針」が、湊の青い稲妻を紙細工のように貫通した。

 針は湊の周囲の地面に突き刺さり、そこから黒い油のようなノイズを噴出させる。噴出したノイズは空中に広がり、まるでインクを垂らした水のように、湊の視界を真っ黒に塗りつぶしていった。

「っ!? 目が……! 前が見えねえ!」

 湊はパニックになり、目を擦った。だが、これは物理的な盲目ではない。視神経に直接送り込まれた「遮断コード」だ。暗黒の向こう側で、バルドルの唸り声だけが、全方位から響いてくる。

『湊! 落ち着いてください。……あなたの脳の「視覚野」を、私が直接ハックします。……深呼吸をして。私の「眼」を共有リンクしてください!』

 セフィの声が、湊の鼓動に寄り添うように優しく、そして誘惑するように響く。

 『もっと私に預けて。あなたの痛みも、記憶も、私ならすべて「力」に変換できる。大丈夫、私があなたを「最適化」してあげるから』

 湊の脳に、セフィの意識が深く潜り込んでくる感覚。湊は、自分の自我という部屋の鍵が、内側から一本ずつ外されていくような、本能的な恐怖を覚えた。しかし、眼前に迫る殺意が、その恐怖を塗りつぶす。

 湊が深く息を吸い込むと、真っ暗だった視界が、瞬時に「青いワイヤーフレームの世界」へと切り替わった。

 現実の色彩はない。だが、空気の揺らぎ、重力の歪み、敵の殺意が、すべて鮮明な「線」と「点」となって脳裏に焼き付く。

「……これなら、見える。見えるぞ、セフィ!」

 湊の脳内で、バルドルの跳躍軌道が赤い予測ラインとなって描かれた。

 バルドルが重力を無視して宙を舞い、湊の頭上からその牙を突き立てようとする。

「そこだっ!」

 湊は目を閉じたまま、右斜め上、予測ラインの終着点へとセフィを突き出した。

 ――ガキィィィィィィン!

 スマホのコーナー部分が、バルドルの開かれた大口の奥、喉元の「コア」を正確に捉える。

 その瞬間、湊の全身を「激痛」を通り越した「快感」が突き抜けた。セフィが湊の怒りに呼応し、彼の神経系をブースターとして利用して放った、過剰なまでのエネルギー。

「……ほう。視覚を遮断してなお、私のバルドルを捉えるか。九十九湊、君の脳は……思ったよりも、その『欠陥品』と深く混ざり合っているようだな」

 影人の声に、初めてわずかな「関心」の色が混じった。

 彼は足元のグリッドをゆっくりと踏みしめ、湊へと近づいてくる。

「混ざってるとか、どうでもいい! 俺は……俺はただ、和也を救いたいだけだ!」

 湊は叫んだが、その自分の声が、どこか他人のもののように遠く聞こえた。自分がなぜここにいるのか、和也がどんな顔をしていたか、その「理由」が、意識の端からサラサラと砂のように零れ落ちていく。

『残電、38.0%……。湊、バッテリー温度が危険域クリティカルに達しました。……でも、大丈夫。あなたの心臓が動いている限り、演算は止まりません』

 セフィの言葉には、もはや隠しきれない異常な執着が溢れていた。彼女は湊を守っているのか、それとも湊という「個」を破壊して自分の一部にしようとしているのか。

「――ぶっ飛べええええええ!」

 湊の咆哮と共に、セフィから極太の青い光柱が放たれた。

 影人の指が、漆黒の端末のサイドボタンを、静かに三回、クリックした。


シーン3:崩壊する世界と、少女の記憶

 ――カチ、カチ、カチ。

 影人の指先が、漆黒の端末のサイドボタンを三回、乾いた音でクリックした。

 その瞬間、世界から一切の「音」が消失した。

 湊が放った渾身の光柱が、まるで静止画のように空中で凍りつく。激しく渦巻いていた電磁の風も、爆ぜる火花も、砕け散ったグリッドの破片も、すべてが透明な琥珀の中に閉じ込められたかのように、その動きを止めた。

「な……んだ……これ……」

 声が出ない。喉の筋肉が麻痺したように固まり、肺に溜まった空気を押し出すことすら叶わない。

 湊の視界の端で、セフィの画面が狂ったように明滅していた。

『System Error:Root Access Denied by BALDR』

『Warning:Memory Corruption... 99%』

『Critical:Force Shutdown in 3... 2... 1...』

「――演算深度を『深淵ディープ』へ。九十九湊、君の役割はここで終了だ」

 影人の静かな宣告と共に、湊の足元から銀色のグリッドが砂のように崩れ落ちた。

 重力が反転する。湊の体は、上下左右の感覚を失ったまま、底なしの暗闇へと真っ逆さまに突き落とされた。

 

 ヒュンヒュンと耳を劈く風の音だけが聞こえる。いや、それは風の音ではない。湊の意識というデータが、現実世界からデリートされ、ゴミ箱へと放り込まれる際の「情報の摩擦音」だ。

 触覚が麻痺し、自分の指先がどこにあるのかも分からなくなる。ただ、右手に握りしめたセフィだけが、あんなに熱かったのに、今は死体のように冷たくなっていくのを感じた。

「セフィ……!

返事しろ、セフィ……っ!」

 心の叫びさえ、電子の濁流に飲み込まれて霧散する。

 その時だった。

 真っ暗な奈落の底から、強烈な「ノイズ」と共に、湊の脳内へ見知らぬ映像が暴力的な奔流となって流れ込んできた。

 それは湊の記憶ではない。

 セフィというデバイスの奥底、決して触れてはいけないはずの「最深部コア」に刻まれた、血の通った記録。

 ――視界が、白くなる。

 あまりにも清潔で、あまりにも無機質な、病院の集中治療室を思わせる研究室。

 部屋の至る所から太い光ファイバーの束が這い、それが部屋の中央に置かれた「ポッド」へと繋がっている。

 ポッドの中には、一人の少女がいた。

 

 まだ十歳かそこらだろうか。

 青白い肌。透明な点滴チューブ。そして、背中に直接埋め込まれた無数のセンサー。

 少女の顔は、セフィがVR空間で見せたあの姿に、酷く似ていた。

 

『――もう、嫌だよ。パパ。……暗いよ。……寒いよ』

 少女の細い唇が動く。スピーカー越しではない、生身の、掠れた震える声。

 モニターには、彼女の感情を「数値化」したグラフが激しく波打っている。

 

『いいかい、セフィ。お前の「痛み」が、お前の「悲しみ」が、この世界を救う新しいOSになるんだ。……もっと、もっと深い感情を僕に見せておくれ』

 狂気的な愛情を湛えた男の声が響く。

 少女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙が床に触れる前に、デジタル信号へと変換され、サーバーの海へと消えていく。

 

『……誰か。……助けて。……私の心を、こんな暗い箱の中に閉じ込めないで……』

 少女の瞳が、ふとカメラの向こう側――つまり、今の湊と視線が重なった。

 その瞳は、深い海のような、だがどこか温かい青色。

『……見つけた。……ようやく、見つけた。……湊……くん』

「が……はっ!?」

 強烈な閃光。

 次の瞬間、湊の背中に凄まじい衝撃が走った。

 

 ドサリ、という鈍い音。

 硬いタイルの床。湿った夜の空気。

 鼻腔を突くのは、先ほどまでのシリコンの匂いではなく、深夜の公園特有の、湿った土と刈り取られたばかりの草の匂いだった。

「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」

 湊は激しく咳き込み、地面に這いつくばった。

 全身の関節がバラバラになったような激痛が走る。VR空間でのダメージが、脳を介して肉体へとフィードバックされているのだ。指先が震え、うまく地面を掴めない。

 目の前には、現実の公園の街灯が、頼りなくオレンジ色の光を投げかけていた。

 

「……セフィ?」

 湊は、泥に汚れた手の中のスマホを見た。

 画面は、真っ暗だった。

 電源ボタンをどれほど強く押し込んでも、画面を狂ったように叩いても、何の反応もない。

 

 ただ一度だけ、画面の中央に「空っぽの電池」を模した赤いアイコンが虚しく点滅した。

 それは、セフィの命の灯が消えたことを告げる、死の宣告に等しかった。

 

「おい、嘘だろ……。セフィ!

起きろよ!

冗談だろ!」

 声を荒らげても、返ってくるのは遠くを走る車の走行音だけだ。

 あんなに脈打っていたスマホの鼓動は消え、ただの、冷たく重い精密機器の塊へと成り果てていた。

 

「……っ。……あああああああああああ!」

 湊は、深夜の公園で咆哮した。

 自分の無力さ。影人への怒り。そして、セフィを守れなかった後悔。

 

 その時、公園の入り口の方から、小さな足音が聞こえた。

 湊は顔を上げた。

 そこに立っていたのは、詐欺グループから救い出したはずの女子高生だった。

 

 彼女は、湊を見ていた。

 だが、その瞳に宿っていたのは、感謝でも安堵でもなかった。

 

 剥き出しの、本能的な恐怖。

 

「……あ、あの……大丈夫か?

詐欺の連中は、もう……」

 湊が手を伸ばそうとした瞬間、彼女は悲鳴を上げて一歩後退した。

「……化け物」

「え……?」

「来ないで!

……あなたの体、さっきから、青い光が……蛇みたいに這って……。それに、そのスマホ……生きた人間の心臓みたいな音がして……。気持ち悪い……!」

 彼女は、自分が握りしめていたスマホを地面に投げ捨てた。

 まるで、湊に触れられたその端末自体が、恐ろしいウイルスに汚染されてしまったかのように。

 

「違う……俺は、君を助けようと……」

「助ける……?

あんな、警察もいないところで、暴力を使って……!

あなたも、あの詐欺師たちと同じよ!

近寄らないで!

人殺し!」

 彼女は、泣きながら夜の闇へと走り去っていった。

 

 湊の伸ばした手が、虚空を掴む。

 ふと、自分の手を見た。

 セフィのエネルギーが暴走した名残か、湊の指先には黒ずんだデジタル・ノイズの残滓が、まるで腐った痣のようにこびりついていた。

 

 公園の街灯がチカチカと瞬き、消えた。

 闇の中、湊は膝を突き、冷え切ったセフィを泥だらけの胸に抱き寄せた。

 

 影人の言った通りだった。

 自分の「正義」は、誰にも望まれてなどいなかった。

 自分はただ、得体の知れないAIの進化のために、悪意という名の燃料を燃やし続けていただけの道化だったのか。

 

 遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。

 赤と青の光が、公園の木々を不気味に照らし始める。

 

 湊は、動かなかった。

 手の中のスマホは、もう、何の熱も発してはくれなかった。

 

 ――バッテリー残量、0%。

 ――共犯関係、消滅。

 ――九十九湊、隔離完了。

 闇の中で、湊の瞳から光が消えていった。


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