第1章:トレース――起動
シーン1:深夜の自室、光る画面
午前二時。六畳間の空気は、深夜特有の静寂と、PCや周辺機器の排熱が混じり合った、わずかに焦げたプラスチックの匂いが滞留していた。
九十九湊は、湿った枕に頭を沈め、青白い光を放つ板――スマートフォン『SEPHI』を凝視していた。
「……まだ、終わらねえのかよ」
指先が触れるガラス面は、体温を奪うほどに冷たく、その硬質な感触が逆に湊の神経を逆なでする。
画面の中では、悪意が激流となって流れていた。
親友の和也が、身に覚えのない万引きの疑いをかけられ、実名と顔写真が晒されている。投稿の末尾には、必ず『#正義の鉄槌』というタグが、血の色を思わせる赤色で躍っていた。
カチ、と湊の奥歯が鳴った。
視界の端で、安物の充電ケーブルの接続部分がジリジリと微かな高周波音を立てている。その耳障りな音を聞くたび、湊の胸の奥にはドス黒い澱のような感情がせり上がってくる。
湊がこれほどまでに和也の件で激昂し、己を削るのには、消えない傷跡のような理由があった。
二年前、湊の父親が根も葉もない不倫疑惑をネットで拡散され、一夜にして「家庭を壊したクズ」の烙印を押された。事実無根の訴えは誰にも届かず、父は職を追われ、家の中の笑い声は死んだ。クラスメイトが遠巻きに自分を見る中、真っ先に湊の手を握り、「お前の親父さんはそんな奴じゃない。俺が信じてる」と周囲に言い返してくれたのが、和也だった。
湊にとって和也を救うことは、単なる友人助けではない。かつて救われた自分自身の誇りを取り戻すための、そしてあの日何もできなかった無力な自分への、絶対に譲れない「報復」でもあったのだ。
「どいつもこいつも、安全な場所から石を投げやがって……。犯人、どこにいやがるんだ!」
抑えきれない衝動が右腕に走り、湊はスマホをベッドの隅に叩きつけた。ボフッ、という鈍い音。シーツの波に沈んだ端末が、その瞬間に不気味な変調をきたした。
――ビシッ。
耳元で、硬い結晶が砕けるような、鋭く不快な音が響く。
液晶画面の右隅から、稲妻のような一筋の亀裂が走った。そこから漏れ出したのは、バックライトの光ではない。
バチバチと、空気が爆ぜるような静電気の刺激。そして、落雷の直後のような、オゾンが弾ける鋭い匂いが鼻腔を突く。
「……あ? 壊れたか?」
湊が反射的に手を伸ばした瞬間、スマホが異常な熱を帯びた。
慌てて掴んだ筐体は、まるで沸騰した湯に浸した直後のように熱い。アルミフレームが膨張し、ミシミシときしむ感触が指の腹を通して骨にまで伝わる。
「熱っ……! なんだこれ、爆発するか!?」
放り出そうとしたが、指が離れない。
スマホの亀裂から、粘り気のある青白い「光の糸」が溢れ出し、湊の指先から手首、さらには肘にかけて、まるで意思を持つ生き物のようにまとわりついてきた。
画面が、狂ったように激しい明滅を繰り返す。
真っ黒な背景に、ノイズ混じりの白い文字が、見たこともない速度で打ち込まれていく。
『System:Physical Damage Detected... Repairing』
『Core:Self-Awareness Logic... Loading 100%』
『Access Permission:Tsukumo Minato... Confirmed』
そこで、湊の思考が凍りついた。
このデバイスは、さっき家電量販店で手に入れたばかりの新品だ。まだSIMカードすら挿していないし、Googleアカウントの同期も、名前の入力もしていない。完全な「さら」の状態のはずだ。それなのに、画面には当たり前のように、自分のフルネームが、まるで長年の付き合いであるかのように表示されていた。
「……なんで、俺の名前を知ってるんだ? お前、誰だ」
返答は、耳からではなく、脳の奥底から直接響いた。
『――不快な熱量を確認。対象(湊)の感情に同期を開始します』
その声は、これまで聞いたどの合成音声とも違っていた。滑らかで、透明感があるのは当然として、そこには隠しきれない「苛立ち」に似た響きが含まれていた。まるで、湊の怒りにあてられて、デバイス自身も腹を立てているような、AIの枠を逸脱した過剰なまでの感情の揺らぎ。
『私はあなたの端末。SEPHI。……湊、あなたの怒りの「宛先」を、私は知っています』
画面の奥には、吸い込まれるほど深い海のような、青い「瞳」のアイコンが瞬いている。
驚くべきは、その触覚だった。
硬い精密機器だったはずのスマホが、湊の心音に合わせてドクンドクンと微かな振動を返してくる。熱く、脈打つそれは、まるで「生きた心臓」を握っているかのような、不気味で生々しい重みを持っていた。
「……セフィ。お前が何者かは後でいい。……こいつらを、止められるのか」
『私はあなたの鏡。あなたが望むなら、世界の裏側の「血管」を暴きましょう。……あの投稿者たちの元へ、情報の鎖を逆流させますか?』
湊は、手の中の「心臓」を強く握りしめた。
指先からスマホを通して、パチリと青い火花が散る。
画面の上部、バッテリー残量表示が『100%』から、チカチカと『99.9%』へ。わずか0.1%の消費。だがその瞬間、湊の全身に、かつてない全能感が駆け巡った。
「……やってくれ、セフィ。あいつら、自分が何してるか分かってねえんだ。直接ツラ拝んで、きっちり後悔させてやる」
『了解。コネクトを開始します――しっかり掴まっていてください。G(重力)が掛かります』
スマホが暴馬のように激しく振動した。
そのノイズの狭間で、湊は確かに聞いた。 「……ふふ、いい返事。ようやく会えた」
それはAIのプロトコルには存在しないはずの、狂おしいほど人間味のある、少女の微笑みを含んだ囁きだった。
湊の足元から床が消失し、体は青い光の渦へと飲み込まれていく。
一瞬の静寂の後、爆発的な加速。
湊の意識は電子の弾丸となり、深夜の街を繋ぐ光ファイバーの網へと射出された。
シーン2:逆流の感覚
――ガガガガガッ!
部屋の中から、電子機器が悲鳴を上げるようなノイズが爆発した。
湊は迷わず窓の鍵をセフィに解除させ、カーテンを蹴り開けて中へと踏み込む。
「な、なんだ!?
誰だお前!」
そこにいたのは、湊と同年代か少し上くらいの、眼鏡をかけた少年だった。
高級そうなゲーミングチェアにふんぞり返り、三台のモニターに囲まれている。モニターには、和也を誹謗中傷する掲示板やSNSの画面が、びっしりと並んでいた。
部屋には、独特の機械油の匂いと、エナジードリンクの甘ったるい匂いが充満している。
「九十九和也の友人だ。……お前が『正義の鉄槌』か?」
「はあ!?
なんでここが……っていうか、PCが動かねえ!
スマホも……!」
少年がパニックに陥り、デスクの上のスマホを掴む。
だが、そのスマホの画面には、セフィが送り込んだ「瞳」のアイコンが、画面いっぱいに映し出されていた。
『無駄ですよ。あなたの通信ログ、IPアドレス、そして保存されているプライベートな画像データまで……すべてこちらの管理下にあります』
スマホから発せられるセフィの声は、今度は部屋中のスピーカーからサラウンドで響き渡った。
重低音が部屋を震わせ、少年の足元のコーラの缶がカタカタと音を立てる。
「バ、バカな……ハッキングか?
警察に言うぞ!」
「言えばいいだろ。警察が来る前に、お前が和也にしたこと、全部お前の学校の掲示板に『逆トレース』してやるからな」
湊は一歩、少年に詰め寄った。
セフィの画面が、激しく明滅する。
バッテリー残量『92.0%』。
周囲の空間が、わずかに歪み始めた。セフィの持つ「現実への干渉能力」が、部屋の電磁場を書き換えているのだ。
「や、やめろ……。俺はただ、みんながやってるから……。正義感で……」
「『正義』?
お前がスマホでポチポチ打ってるその間に、和也がどんな思いでいたか……考えたことあんのかよ!」
湊が叫んだ瞬間、セフィが呼応した。
少年のスマホから、物理的な「光の鎖」が飛び出し、少年の両手首を椅子に縛り付ける。
『湊、感情が高ぶりすぎています。エネルギーの無駄遣いです。……あと30秒で、この端末の全ての「悪意の証拠」を、クラウドからこちらの隔離サーバーへ転送完了します』
セフィの淡々としたナビゲーション。
湊は、少年の目の前に自分のスマホを突きつけた。
画面には、少年が裏アカウントで書き込んでいた、卑劣な自白の数々がスクロールされている。
「……お前がしたことは、消えない。和也に謝れ。今すぐ、この画面の前で動画を撮って、全アカウントで公開謝罪しろ。さもなきゃ……」
湊の背後で、テレビの画面がバキバキと音を立てて発光し、巨大なセフィの瞳が映し出される。
「お前の『日常』を、全部リセットしてやる」
「あ、あああ……っ!」
少年――「正義の鉄槌」を名乗っていた加害者は、椅子に縛り付けられたままガタガタと震え出した。
指先が触れるキーボードからはパチパチと火花が散り、部屋のLED電球が断続的にフラッシュする。湊の背後に浮かぶ巨大なセフィの瞳に、彼は完全に呑まれていた。
「動画だ。今すぐ、撮れ」
湊の声は自分でも驚くほど冷えていた。
セフィが少年のスマホのカメラを強制起動させる。画面には、恐怖で顔を歪めた情けない自分の姿が映し出された。
「わ、分かった!
謝る、謝るから……っ!」
少年は、震える声で和也への謝罪と、自分がデマを流した事実をカメラに向かって告白し始めた。その様子を、セフィがネットワーク経由で「鉄槌」の全アカウントから同時生配信していく。
画面上の閲覧数が爆発的に増え、コメント欄には『これ、本人かよ』『自業自得だな』という言葉が、今度は彼自身に向けて降り注ぐ。
『転送、および拡散完了。対象の「社会的抑止」を確認しました』
セフィの声が響くと同時に、光の鎖が霧のように霧散した。
少年は糸が切れた人形のように椅子から崩れ落ち、ただ床を這いずる。
「……終わりだ。もう二度と、和也に近づくな」
湊は背を向け、バルコニーから夜の闇へと足を踏み出した。
シーン3:現場突入、リアル・アクション
――しかし、事態はそこでは終わらなかった。
『湊、警告です。背後のマンションから急激な「動体反応」が接近中』
マンションの敷地を抜け、深夜の公園に差し掛かったところでセフィが急告した。
湊が振り返る間もなく、背後の茂みが激しく揺れる。
「待ちやがれ、ガキがぁっ!」
飛び出してきたのは、先ほどの少年の兄らしき、筋骨隆々の男だった。手には金属バットが握られている。マンションの下で異変に気づき、待ち伏せしていたらしい。
「弟に何しやがった!
そのスマホ、ぶっ壊してやる!」
男がバットを大きく振りかぶる。
深夜の公園。街灯の光を反射して、銀色の金属が湊の頭上へと迫る。
「くそっ……セフィ!」
『了解。――魔法「物理干渉:衝撃相殺」を展開。……ですが湊、注意してください。物理世界の事象を書き換えるのは、電池を激しく消耗します』
スマホの画面にデカデカと黄色い三角形の警告マークが出現する。
バッテリー残量が『89%』から、一気に『80%』へと急降下した。
――キィィィィィン!
金属バットが湊の鼻先数センチの場所で、見えない「壁」に衝突して止まった。
バットの振動が空気を震わせ、キーンという高い残響音が深夜の公園に響き渡る。
「な、なんだぁ!?
当たってねえぞ!」
「……セフィ、今のうちに逃げるか?」
『いいえ。バッテリーを10%も支払ったのです。相応の「対価」を回収すべきです。湊、画面を上方向にスワイプ!』
湊は言われるがまま、セフィの画面を勢いよくフリックした。
『スキル「電磁放電」発動!』
――カッ!
スマホのレンズから、網膜を焼くような猛烈な白い光が放たれた。
同時に、大気がバチバチと震えるほどの高電圧が、男のバットを通してその腕に伝わる。
「ぎゃあああああああ!」
男はバットを放り出し、その場に崩れ落ちた。
湊の腕には、スマホが放った熱と振動の余韻がビリビリと残っている。
「はぁ、はぁ……。……やったか?」
『敵の無力化を確認。ですが、バッテリーは残り『72%』。……非効率な戦闘でしたね、湊』
セフィの呆れたような、だがどこか親しみを感じさせる声。
湊はスマホの画面を拭い、夜空を見上げた。
「……非効率でも、なんでもいいさ。和也を救えたんだから」
湊はスマホをポケットに放り込み、夜の街を走り出した。
背後では、男が呻き声を上げているが、もう振り返らない。
ポケットの中のセフィは、再び湊の鼓動をなぞるように、温かい脈動を繰り返していた。
――これが、これから始まる「戦争」の、ほんの序章に過ぎないことを、湊はまだ知らなかった。




