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元婚約者様、ごきげんよう。魔力なしと見下した私ですが、あなたの知らない〝科学〟という力で、この国の頂点に立ちますので。  作者: 九葉(くずは)


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第二話

夜の闇を切り裂いて走る馬車の中、わたくしは一人、固く拳を握りしめていた。

パーティー会場で見せた毅然とした態度は、今はもうない。


(……お父様、お母様。ごめんなさい)


わたくしのせいで、アシュベリー家に破滅が訪れるかもしれない。

両親は、魔力のないわたくしを疎んじてはいたけれど、それでも勘当せず、立派な婚約者まで見つけてくれた。その恩を、仇で返すことになるなんて。


後悔と不安で、胸が張り裂けそうになる。

けれど、感傷に浸っている時間は一秒たりともなかった。


わたくしはドレスの隠しポケットから、小さなガラスの小瓶を取り出す。

中に入っているのは、月光を溶かし込んだかのように淡く輝く、黄金色の液体。

指先で蓋を開けると、ふわりと、これまでこの世界の誰も嗅いだことのない、甘く華やかな香りが満ちた。


わたくしの、そしてアシュベリー家の運命を握る、反撃の切り札。

――前世の知識と技術の結晶だ。


「御者の方。行き先を変更してくださいまし。アシュベリー侯爵邸ではなく、中央区の『クロウ商会』へ」


指示を出す声は、自分でも驚くほど冷静だった。

もう、迷わない。

泣いている暇があるなら、頭を使い、手を動かす。

それが、研究者としてのわたくしの生き方だったのだから。



深夜にもかかわらず、「クロウ商会」のランプは煌々と灯っていた。

馬車を降りると、店の奥から一人の青年が駆け寄ってくる。


「オリバー先生! お待ちしておりました」


夜の闇に溶け込むような黒い髪。その奥で、ランプの光を反射して鋭く輝く金色の瞳。

急成長を遂げるクロウ商会の若き会頭、レオンその人だ。


「レオン。夜分に申し訳ありません」

「いえ。それより、お噂はかねがね。……大変でしたね、オリビア嬢」


レオンは、わたくしが女性であることを知る、唯一の協力者だ。


彼との出会いは一年前。

わたくしは前世の知識を活かして開発した製品の売り込み先を探していた。

しかし、魔力を持たない、ただの侯爵令嬢の話に耳を貸す商会などどこにもない。


途方に暮れていた時、〝出自や身分を問わず、面白い品を扱う〟という噂のクロウ商会を見つけた。

わたくしは「オリバー」という男性の偽名を使い、顔をフードで隠してレオンに接触した。


最初は訝しんでいた彼も、わたくしが差し出した試作品――ガラス瓶に入った液体石鹸ハンドソープ――の効果を見るなり、目の色を変えた。


『……なんだこれは!? 泡立ちも、汚れの落ち方も、香りも、既存の洗浄剤とは比べ物にならない!』


それからだ。

わたくしが「発明家オリバー」としてレシピを開発し、レオンがそれを製品化して売り出す、という秘密の協力関係が始まったのは。


「パーティーでの一件、あなたの情報網なら、もうご存知でしょう?」

「ええ。ヴァレンティン公爵子息が、あなたとの婚約を破棄し、莫大な借財の即時返済を要求したと。……まったく、愚かな男だ。彼は、自分が何を失ったのか、まだ気づいてもいない」


レオンは吐き捨てるように言うと、その金色の瞳で、まっすぐにわたくしを見つめた。


「オリビア嬢。いいえ、オリバー先生。クロウ商会は、あなたに全面的な協力を約束します。資金も、人材も、流通網も、すべてあなたの望むままに」


彼の言葉には、貴族が口にするような上辺だけの慰めはない。

そこにあるのは、事業家としての打算と、わたくしの才能への絶対的な信頼。

だからこそ、わたくしは彼の言葉を信じることができた。


「ありがとう、レオン。あなたなら、そう言ってくれると信じていました」

わたくしは懐から取り出した設計図の束と、先ほどの香水の小瓶をテーブルに広げる。


「これが、わたくしたちの次の商品。そして、逆転のための一手です」


レオンは設計図を手に取り、驚きに目を見開いた。


「これは……巨大な蒸留装置? こんな複雑な構造、見たことがない。それに、この液体は……なんという香りだ……!」


「わたくしたちは、二つの新商品を世に出します」

わたくしは、自信を持って宣言した。


一つは、『魔法の香水』。

花やハーブから、特殊な蒸留装置を使って香りの成分だけを高純度で抽出したもの。これまでの、香油を塗りたくるだけの香水とは違い、香りは一日中持続し、上品に香る。


そしてもう一つは、『奇跡の石鹸』。

動物性の油脂と、森で採れる植物の灰から作ったアルカリを化学反応させて作る、固形の石鹸だ。液体石鹸ハンドソープは既に富裕層向けに販売して大成功を収めているけれど、これはその量産・廉価版。庶民にまで「体を洗う」という新しい文化を届けることができる。


どちらも、魔力など一切使わない。

この世界の誰も知らない、「化学」という名の魔法。

魔力至上主義のこの国に、わたくしが叩きつける挑戦状だ。


「素晴らしい……! これがあれば、市場を独占できる!」

興奮するレオンを、わたくしは冷静に制した。


「問題は、時間です。ヴァレンティン公爵家への返済期限は、明日の正午。それまでに、必要な資金をすべて現金で用意しなければなりません」


「ご安心を」

レオンは、不敵な笑みを浮かべた。

「そのための準備は、とうの昔に済んでいます。これまでの事業で得た利益は、すべて換金性の高い宝石やゴールドに変えて保管してある。さらに、この新商品を担保にすれば、中央銀行も他の大商会も、喜んで金を貸してくれるでしょう。彼らは、クロウ商会の〝目利き〟を信用していますから」


彼の商人としての手腕は、いつもわたくしの想像を超える。

この一年、わたくしが研究に没頭できたのも、すべて彼が事業面を完璧にこなしてくれていたからだ。


「レオン……。あなたには、感謝してもしきれません」

「礼を言うのは、こちらの台詞ですよ。先生」


レオンは、わたくしの手を取り、その甲にそっと口づけを落とした。

「あなたの知識は、世界を変える力を持っている。家柄や魔力などという、くだらない物差しでしか他人を測れない愚か者たちに、思い知らせてやりましょう。本物の価値とは、何なのかを」


その真摯な眼差しに、胸が高鳴るのを感じた。



それから、わたくしたちは夜を徹して準備を進めた。

レオンは商会の部下たちを叩き起こし、各方面への資金調達の指示を飛ばす。

わたくしは、明日発表する新商品の最終チェックと、プレゼンテーションの準備に追われた。


空が白み始めた頃。

レオンが、温かい紅茶の入ったカップをそっと差し出してくれた。


「少し、休んだ方がいい。目の下に隈ができていますよ」

「あなたこそ。ずっと働き詰めじゃないですか」

「私は平気です。先生の夢が叶う瞬間に立ち会えるのですから。これ以上の喜びはありません」


そう言って笑う彼の顔は、少しだけ疲れているように見えた。

わたくしは、この一年間のことを思い出していた。

地味で、魔力がなくて、誰からも期待されずに生きてきたわたくし。

そんなわたくしが、唯一「先生」と呼び、その知識と才能を心から評価してくれたのが、レオンだった。


彼がいなければ、わたくしは今頃、絶望の底で泣いていたかもしれない。


「……ありがとう、レオン。あなたがいてくれて、本当によかった」


素直な気持ちを口にすると、彼は少し驚いたように目を見開き、そして、とても優しく微笑んだ。


その頃――。

ヴァレンティン公爵家の朝は、祝杯で始まっていた。


「くくく、今頃アシュベリーの連中は、泣きながら屋敷のものを売り払っている頃だろうな!」

アレクシス様は、朝から上質なワインを煽り、下品に笑っている。


「まあ、アレクシス様。オリビア様がお可哀想ですわ」

イザベラは心にもないことを言いながら、その瞳は勝利の喜びに輝いていた。

「でも、これでやっと、わたくしたち、堂々とお付き合いできますのね」


「ああ、そうだとも、私の天使よ。あんな魔力なしの地味な女ではなく、君こそが私の隣に立つに相応しい」


彼らは、アシュベリー家の破産を、わたくしの絶望を、疑いもしなかった。

まさかその裏で、自分たちの足元を根底から揺るがすほどの巨大な嵐が生まれようとしていることなど、知る由もなく。


やがて、運命の正午を告げる鐘が鳴り響く。


わたくしは、クロウ商会が用意した、上質ながらも華美ではない、深い青色のドレスに身を包んでいた。

もはや、そこに昨夜までの地味な侯爵令嬢の面影はない。

背筋を伸ばし、顔を上げれば、自信に満ちた一人の事業家の顔つきになっているはずだ。


「準備はよろしいですか、オリビア嬢」

隣に立つレオンが、手を差し伸べる。

彼の仕立ての良い黒の礼服は、まるでわたくしの護衛騎士のようだった。


わたくしは、その手を強く握り返した。


「ええ。――さあ、始めましょうか。わたくしたちの、反撃を」


向かう先は、ヴァレンティン公爵邸。

屈辱の舞台ではなく、今度は勝利を宣言するための舞台へ。

わたくしたちは、新たな時代の幕開けを告げるため、ゆっくりと歩き出した。

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