15
帰り道は、マートルがネリネを背負って途中からニーレンの手も引いて歩いた。
その後ろをアイスリンとエリカが歩き、しんがりをフリージアが努めた。
ニーレンの話では、エリカはどうやら本当に貴族のようなので何かあっては不味いと思いフリージアがしんがりを買って出た。
しばらく川沿いに歩くと小屋が見えた。
先ほど、ニーレンに言われたことを思い出す。
アイスリンはエリカとの婚姻を了承する代わりにワイバーンの単独討伐を許された。
討伐後は2人は婚姻してエリカの領地を継ぐようだと……
貴族にとっての婚姻は感情など必要ない、仕事の一貫だとよく聞くけど…
『スリンは、私をノースポールに連れて行きたいって言ってくれたわよ。』
『しかしエリカさまは、はっきり仰っしゃってましたよ。この仇討ちの後アイスリンさまと婚姻して跡を取ると。』
『では、ジアさまは愛人に据えられるのですか?』
『まさか!愛人になれなんて言われてないわよ。』
『ジアさまがノースポールに付いて行っても、もって3ヶ月ですね。』
『あなたがそんな状況に耐えられるわけないでしょう。結果は火を見るより明らかですからね、王家は特に反対なさらないでしょう。』
『正妻と旦那さまを取り合う、そんな環境が好みですか?』
『マゾですか?推奨しかねます。よく考えて下さいね。』
「ニーレン…はっきり言い過ぎ。」
フリージアは呟いた。
色々考えながら前を歩くアイスリンとエリカを見た。
(そういえば……まだ、好きって言われたわけじゃなかった。)
(好きなんて、子供みたいな告白をするものなのかな…)
フリージアは溜め息をこぼした。
(愛人って…気が早いわよ。)
一同は小屋に到着した。
フリージアは黙々と夕飯の用意をする。
パンを窯に入れる。
ニーレンが隣で手伝う。
「無口ですね、大丈夫ですか?」
「別に……」
「どうするんですか?ノースポールに行くつもりなら、あちらに連絡しますけど。」
残っていた肉を冷蔵庫に入れておいたので、それを焼く。
今夜はお祝いに果実酒を出そう。
エリカは、先に風呂に入っている。
「そういえば、エリカさまって最初から思ったけど王都の貴族とは違うね。一人で入浴されるんだよ。」
「魔物の討伐に森に入られるぐらいですからね。」
アイスリンといい、エリカといいおよそ自分の知ってる貴族とは掛け離れている。
(もしかしたら、スリンは政略結婚なんて嫌って言うかも!)
(エリカだって私がスリンに選ばれたと知ったら身を引くかもしれない。)
「ちょっと元気が出てきたわ。」
フリージアが焼いていた肉を裏返す。
「それは良かったですね。」
ニーレンが、おつまみになるチーズとドライフルーツを小皿に入れておく。
フリージアの手が止まった。
なんとなく、アイスリンの視線を感じている。
「ちょっとハーブ探して来る。後任せていい?」
「両面しっかり焼いておきます。答えが出たら教えて下さいね。」
フリージアが川岸に生えているハーブをなんとなく見ている。
好きな花の蕾を見つけたのでしゃがみこむ。
花の蕾を摘んで袋に入れる。
(ニーレンの言う通り、自分に愛人なんて無理だよ。)
(それに、もしも私を選ぶなら当然エリカとの婚姻を解消するよね……自由な立場の三男って言ってたし。)
「フリージア。」
振り返るとアイスリンが立っていた。
(やっぱり来てくれた。)
「スリン良かったね、念願叶って。」
「ああ、フリージアのお陰で万全の体調で挑むことが出来たからね。」
「怪我の手当までしてもらったし全てが順調にいったよ。」
アイスリンがフリージアを見つめた。
「フリージア、私とノースポールに来ないか?」
「え…」
(やっぱり私を選んでくれるんだ。)
「フリージアが来てハーブティーやあの簡易食の作り方を教えてくれたら、うちの領地としては討伐で野営する時の食事や栄養面の水準も上がると思うんだよ。」
「それに、私自身もフリージアが来てくれたら嬉しい。」
アイスリンの瞳をフリージアが覗き込んだ。
澄んだ水のように美しい水色の瞳が揺らめいている。
アイスリンも見つめ返した。
(ここで、怖いけどちゃんと聞いておかなきゃ!)
「スリン…さっきエリカさまから聞いたんだけど、帰ったらエリカさまと婚姻するんでしょう?」
アイスリンは全く表情を変えずに答えた。
「そうだね、今回の討伐に行くのにそれが交換条件だったんだよ。戻ればそうなるな。」
フリージアの表情が抜け落ちた。
(やっぱりか…さらっと言うんだな…)
貴族の婚姻は政略的にまとまる。
(そこに感情はないと聞いたけど、他所で聞くのと当事者になるのは大違いだわ。)
(私のことをどう思っているのか聞くのが怖い…)
(なんとも思ってないなら失恋で片付けてしまえる。)
(もし好きだと言われたら、そちらの方が辛い。)
貴族の常識として恋愛と結婚は別なのだろうが、フリージアには受け入れられなかった。
ニーレンの言葉が頭の中でしつこい位に反芻される。
「わかってる……けど無理だよ、一緒に行きたくても行けない。」
ニーレンの言葉を思い出して、思わず声に出してしまう。
その言葉を聞いてアイスリンが聞き返した。
「王家の監視?」
フリージアが気持ちが昂ぶってアイスリンの両腕を掴んで俯いた。
目に涙が溜まる。
声が鼻声になって震える。
「そうじゃないよ、私はスリンが好きだからエリカと夫婦になるところをずっと見ているのは無理。」
「そんなの……無理。」
アイスリンが息を飲んだ。
「エリカのことは、妹だと思っているって言ったと思うけど……」
「結婚は仕事のようなものだよ。」
慰めるように言う。
(やっぱり価値観が違い過ぎるんだ…)
「スリンには…ね。」
フリージアはこの恋を捨てようと決意した。
「フリージア……」
アイスリンがフリージアの濡れた瞳を見て、始めて動揺を見せた。
アイスリンの瞳が揺れて潤む。
直ぐに俯いて唇を引き結んだ。
「ハーブティーのレシピは紙に纏めておきます。」
門外不出のもの以外なら教えても問題ないだろうと判断する。
(去りがたいけど、ここにいるとスリンが欲しくなって馬鹿なことを言い出しそう。早く小屋に戻らなきゃ。)
(脚を頑張って動かさなきゃ!まず目を逸らすところからだわ。)
フリージアがアイスリンから視線を外して、小屋の方に身体の向きを変えた。
フリージアがこの場を去る気配を感じ、アイスリンが切ない目を向ける。
夕陽がフリージアの後ろ髪に当たってキラキラ光るのをアイスリンが見惚れる。
夕方のこの時間帯が、フリージアの持つ髪や瞳の色が夕陽と調和して、フリージアを一番美しく魅せる時間帯だ。
フリージアが離れがたくて、もう一度アイスリンの方を向いて声を掛けた。
「先に、小屋に戻るね。スリンはどうする?」
アイスリンの指先がフリージアの顔の横の髪に触れ、やるせない表情をみせた。
フリージアはそんなアイスリンの表情に絆されそうになる。
ふいに、草を踏み分ける不自然な音がフリージアの耳に入った。
アイスリンが、フリージアの頬を手のひらで触れて意を決したように口を開いた。
「フリージア、私は今気付いたが…どうやらフリージアのことを…」
草を踏み、掻き分ける音がより鮮明になった。
それが、フリージアの意識を現実に引き戻した。
木の陰から熊の魔物が出現した。
(少し小屋から離れ過ぎたかな…)
こちらを餌と認めて勢いよく突進してくる。
アイスリンが気配を察して振り返り、熊の魔物を認めた。
アイスリンが剣を抜く前に、フリージアがアイスリンの肩を右手で軽く突いた。
アイスリンが想定外のことに、バランスを崩した。
熊の魔物とフリージアの間に遮るものが無くなった瞬間に、左手で流れるようにチュニックの裾を片方に寄せて上げた。
大腿に装着していた銃を、右の手で抜いた。
両腕を真っ直ぐ伸ばして、熊の魔物の核を狙い寸分違わず打ち抜き破壊した。
そのまま、大きな音を立てて熊の魔物が前にドサリと倒れる。
銃弾には、対魔物用にタランの銃弾を仕込んでいた。
「スリン押しちゃってごめんね、怪我は無い?」
フリージアが、レッグホルスターに銃を手慣れたように仕舞ってアイスリンに手を差し伸べた。
アイスリンが熊の魔物の核が破壊されたのを確認した。
「すごくいい腕してるね。まだ、今以上の秘密がある?」
アイスリンが片膝を立てた姿勢で座り込んでいて、楽しそうに見上げながらフリージアの手を掴んだ。
「フリージア、私を好きなら一緒に来ないか?私はこのまま離れたくない。」
アイスリンがフリージアの手を引いて、座り込んだままアイスリンを引き寄せて抱きしめた。
「スリンを大好きだよ、だから行けない。」
フリージアがアイスリンの胸を押した。
(2人きりで話せるのはこれで最後だろうから、笑顔で終わりたいな。)
フリージアは軽い口調で伝え直す。
「エリカと一緒にいるスリンなんて見たら、絶対に我慢なんて出来ないと思う。毎日喧嘩して殴っちゃいそうだから。」
(これでいい、泣くのは後だわ!)
アイスリンはそんなフリージアを見て、殿下を殴って森に謹慎処分になった話を思い出して、笑った。
「ワイバーンの討伐の時、スリンは仇討ち以外の全てを忘れて戦ったでしょう。」
「あの時間はエリカのものでもない、ノースポールのものでもないスリンだった。ただのスリンを私はずっと見ていたよ、すごく素敵だった。」
「私は、私だけのスリンじゃないと無理なの。」
「貴族のスリンの価値観が理解できなくてごめんね。」
アイスリンの透明感のある水色の瞳が見開かれて揺れている。
「明日は、私達早めにここを出るね。使った小屋の報告は私の方から組合に出しておくから。」
フリージアは、先に立ち上がりアイスリンの手を引いて立ち上がらせた。
フリージアは俯いて早口で伝えた。
「今夜はお祝いに果実酒を用意してるから、エリカと…未来の奥様とゆっくり楽しんで。」
そう言って立ち去ったフリージアの背中をしばらく見つめていたアイスリンは、俯いてしばらく顔を上げなかった。