パテと計画と酔いのはて
その夜の寄宿舎の部屋は、いつもより少しだけ騒がしかった。
いや、正確に言えば――騒がしかったのは、俺の胃袋とヒナタの手元だ。
「レバーって、あんま人気ないんだよね。でも、こうやって潰してハーブ混ぜると食べやすくなる。ほら、食べて食べて」
小ぶりな陶器の皿に、薄くのばされたパテ。パンに塗って一口食べると、最初にくるのはねっとりとしたコク。すぐあとからハーブの爽やかさが追いかけてきて、飲みかけの安ワインが妙に上等な味に思えてくる。
「……うまっ」
気がつけば、二口、三口とパテをぬったパンを繰り返し頬張っていた。胃袋が止まらない。
「はい、こっちは魚のやつ。昨日のうちに燻製しといたサケ使ってる」
「おまえ……これ、どっちがメインでどっちがつまみなんだ?」
「さぁ? たぶん、つまみがメインかな。君の食いっぷり見てると、そんな気がしてきた」
思わず笑ってしまう。ヒナタは自分では食べず、膝を抱えて座ったまま、満足そうに俺の食べっぷりを眺めている。どこか中性的な顔立ちで、光の加減によっては少年にも少女にも見える。髪の艶と指先のしなやかさが妙に印象に残るタイプだが、口を開けば見事に少年っぽい。
「こんなん学生の夜食じゃねえ……いや、もはや晩餐だな。なんでお前、こんなもん作れるんだよ」
「なんとなく? やってりゃ覚えるし、魚さばくのとか得意だしな。あと、レバーは栄養あるし安いから、便利なんだよ」
酔いがまわってきた俺は、何か名案を思いついた気になっていた。
パテ。夜食。スピークイージー――そう、ツマミだ。
「ヒナタ。これさ……スピークイージーに持ってこうぜ。ツマミ担当のばあちゃんが入院するかもってマスターがボヤいてたから、これ出したら飛びついてくるぞ」
「売るの?」
「うん。あわよくばツマミでタダ酒ってやつだ。ほら、これだけ美味けりゃ支払いもこいつで済ませられるかも」
「あはは、いいねそれ。……そしたら、僕も飲めるし」
俺たちは、酔った勢いそのままに、冷蔵庫から残っていたパテの瓶を取り出した。ワインの瓶を握ったままのヒナタは、そのままふらりと立ち上がる。
学生街の夜は静かだった。アーカムの街灯は古ぼけていて、霧がかかるとすぐにぼやけてしまう。ヒナタが持つ瓶詰と、俺の懐に忍ばせた期待。
そんなものを詰め込んで、俺たちは夜の街を歩いた。
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ベローズ・ホールは、表向きは洋装店の地下にある、アーカムでもとびきり目立たない店だ。夜な夜な“関係者”が地下扉の前で合言葉を囁き、静かに階段を降りていく。店内には常連の顔ぶれが揃い、ピアノの自動演奏と煙草の煙が混ざり合った空気が漂っていた。
「いつもの」
入り口で俺が指を二本立てると、カウンターの奥でグラスを拭いていたマスターが軽く頷いた。
すぐに出されたのは、薄い琥珀色の液体が並々と注がれたグラス。アルコール度数は高いが、風味は穏やかで、鼻に抜ける香りがなんとも心地よい。
「くぅ……沁みる……」
横でヒナタが小さく笑う。彼はというと、俺の酒をチビチビもらいながら、カウンターに置いたパテの瓶をちらりと見やった。
「さて――行くか」
一杯目のグラスを空けたあと、俺は二杯目を頼むタイミングで、瓶を手にしてカウンター越しにマスターへ話しかけた。
「なぁ、マスター。ちょっと味見してくれないか。うちの自家製ツマミなんだけどさ。悪くないと思うんだ」
「自家製?」
マスターは一瞬だけ訝しげな目をしたが、瓶の蓋を開けた瞬間にその表情が変わった。香草とレバーの匂いがほのかに漂い、思わず周囲の常連客たちがこちらを向く。
「パン、ある?」
「あるにはあるが……何の真似だ?」
「まぁ、まずは食ってみてよ。俺が作ったわけじゃないから安心して」
パンが軽く炙られ、パテが塗られ、マスターの口へと運ばれた。
数秒の沈黙。
そして、マスターの眉が、かすかに持ち上がる。
隣の席の客――片袖をまくり上げた屈強な男が、パンごと奪うようにひと口食べる。
「おい、これ……ばあちゃんのパテと違うが、凄えうめえ」
「ほんとに? おお、ほんとにうめえわこれ」
周囲がざわつき始める中、マスターはもう一口パテを味わい、しばし目を閉じてから、カウンターに肘をついた。
「……作ったのはどっちだ」
「こいつ」
俺はヒナタの肩を指さした。
「僕です」
ヒナタは素直に手を挙げる。
「しばらく、うちの厨房借りて作ってみるか。ツマミ担当のばあさん、やっぱりしばらく戻って来れそうにないんだ」
「つまり……ツマミ係として採用、ってことで?」
「そういうこった。材料は相談して決めよう。酒代は、そのぶん差っ引いとく」
「やったな、ヒナタ。タダ酒確定だ!」
「よっしゃ、働きがいあるなー」
ヒナタは満足げに頷いた。周囲からは「もっとねぇのか」「瓶持ってこい」と声が飛ぶ。
その晩、俺たちは客席の一角で即席の“試食会”を開き、冷蔵庫から持ってきた分をあっという間に売り切った。
深夜になり、常連たちの酔いもまわってきたころ、マスターが再び俺たちをカウンターに呼び寄せた。
「……ところでさ。ちょっと、変な話をしてもいいか?」
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深夜のベローズ・ホール。喧騒がいったん落ち着き、バーカウンターには常連たちが酒と煙草に身を沈めている。そんな中で、マスターはグラスを拭きながら、俺たちの前に静かに話を切り出した。
「お前ら……密造って、興味あるか?」
「……急だな。というか、それ普通に犯罪じゃん」
思わず身を引いた俺に、マスターはちらと目をやり、苦笑する。
「俺の店にいる時点で、お前らもうその辺のラインは多少踏み越えてるだろ。だがまあ、これは“知ってる人向け”の話だ」
ヒナタは特に驚いた様子もなく、グラスの水を飲んでいる。
「で、その密造ってのは、何? 新しい仕入れ先探してるの?」
「ああ。いつも世話になってた業者が、最近“連邦の方”に睨まれちまってな。しばらく休業だ。別のツテを辿ることになったんだが……」
そこでマスターは声を落とし、店内の一角を顎で示した。
「……あそこの奴、見えるか。うちの常連で警官やってるんだが、まぁ……正義感より義理を優先するタイプでな。そいつの伝手で、森の奥に住んでる別の密造業者と繋がった。だが問題は……その業者、ちょっと気難しくてな。初対面の人間は信用しない」
「なんで俺たちなんだよ」
「ツマミ持ち込んで、常連全員黙らせた奴が信用できないってのも、変な話だろ? それに、お前ら学生だし、目立たない。業者も、余所者の若いのならかえって油断してくれるかもしれない。頼むよ、悪い話じゃない」
そこまで言ったところで、件の警官――グラス片手の、やや面の割れた男が近づいてくる。
胸元のバッジはシャツの下に隠されているが、腰に下げた革製のホルダーと、どこか威圧的な視線が、それを隠しきれていない。
「よう。ここのマスターが無理言ってるみたいだな?」
俺たちは黙って頷いた。
「ま、あれだ。あの業者、たしかに偏屈で疑り深いが、手伝うって話なら悪いようにはしねえよ。何より――」
そこで男は、にやりと笑って俺の肩を軽く叩いた。
「マスターが困ってるんだ。頼むよ、な?」
これは命令じゃない。けれど、断ったらどうなるかを自然と察してしまうような、そんな言い方だった。
「……なあヒナタ。これ、思ってたよりヤバいバイトなんじゃねえか?」
「うーん……でも、断ったら多分出禁の上にタダ酒が無くなるからなあ」
「問題はそこじゃねえだろ……」
ため息をつきながらも、俺は頷くしかなかった。背中を押されたのか、崖の下へ足を出したのか、その区別もつかないままに。
「……わかったよ。やるよ。酒が足りないってんじゃ、こっちも困るしな」
「助かるぜ」
男はニヤニヤしたまま、グラスの底をコツンとテーブルに当てて立ち去った。
マスターは一枚の紙切れ――日付と場所が書かれたメモを、俺たちの前に差し出す。
「明後日、午後五時。郊外の林道沿いにある道標のところに行け。そこに、使いをよこすそうだ。あとはそっち次第だな」
そこには、薄暗い森と煙の匂いが、すでににじんでいた。
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約束の日の午後、アーカムの街は湿った霧に包まれていた。空は一日中、灰色の雲を貼り付けたまま動かず、通りを歩く人々もどこか足早だった。
俺とヒナタは、例の林道の入り口に立っていた。小さな道標には「Wrights’ Hollow」と、かすれかけた筆記体の文字。手書きの地図を頼りに進むしかないような、そんな心もとない場所だ。
「うわ、思った以上に森だな」
「うん……あと、たぶん湿地混じってる。地面、変な匂いする」
「わかるのかよ、それ」
「なんとなく」
ヒナタは今日もリュック一つ。中には密造業者への手土産として、スモークチーズと干し肉、それから例のパテを少しだけ詰めてきた。顔はいつもどおり飄々としているが、背筋は妙に真っ直ぐだった。
舗装されていない細道を15分ほど進むと、森の空気が一変した。木々の密度が増し、光が届きにくくなってくる。木の皮は苔に覆われ、どこかで水の滴る音がかすかに響いていた。
やがて、少し開けた場所に入ったところで、低くくぐもった声が聞こえた。
「……お前らか?」
木の陰から姿を現したのは、年のころなら五十を越えたあたりの男だった。長めのコートにブーツ。顔は風に焼け、顎には無精髭。腰には工具か銃か判別しづらい革ケースをぶら下げている。
「“ベローズの紹介”って言やあ、通じるんだろ?」
俺がそう言うと、男は数秒、じっとこちらを見つめたあと、小さくうなずいた。
「ついてこい。無駄口は叩くな。道中で変なもん見ても目を逸らせ」
そう言って男は先を歩き出す。
ヒナタがぽつりと呟いた。
「変なもんって、どのくらい?」
「聞くな。歩け」
俺は小声で言ったが、ヒナタはどこ吹く風で鼻をひくつかせていた。
森の奥へと続く道は、やがて明確な“気配”を帯びはじめる。
何かがこちらを見ている気がするのに、視界には映らない。木の根が奇妙に絡み合い、地面の起伏が人為的に見える場所もある。踏み込むべきではない区画と、無事に通ってよい小道の境目が、言葉ではなく“空気”で伝わってくる。
「こっちには近寄るな。そっちの林、ひと月前に人が消えた」
男の言葉に、俺たちは反射的に足を止める。
「……それ、何にやられたとか……分かってるの?」
「さあな。ただ……何かがいるのは、確かだ」
それ以上は語らず、男は足を止めることなく歩き続けた。
20分ほど歩いたところで、林の奥にぽつんと掘立て小屋が現れた。
煙突からは細く白煙が立ちのぼり、裏手には大きな樽が二つ、逆さに伏せられている。
「ここが俺の仕事場だ。言っとくが、真似しようなんて思うなよ。お前らには“軽作業”だけ任せる」
男は小屋の扉を開け、俺たちを中に招き入れた。
中は予想以上に整然としていた。銅製の蒸留器、仕込み桶、道具棚。
土の床には藁が敷かれ、酒瓶の空き箱がいくつも積まれている。酸味と麦の甘い匂いが混ざり合い、鼻腔をくすぐった。
「作業は明日からだ。今日は段取りと材料の搬入。お前らが逃げねぇか、見ておきたくてな」
「逃げてもこの森じゃ、帰れそうにないな……」
「察しがいいじゃねぇか。……ま、まずは乾杯だな。こいつで手を組む縁にでも」
そう言って、男は棚から三つのグラスを取り出した。
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翌朝、まだ空気に朝露が残る時間に、小屋の扉がきぃと軋んだ音を立てて開いた。
「起きてるか。今日は仕込みだ。まずはマッシュを作るぞ」
男――密造業者は、既に作業着姿だった。昨日より少し表情がやわらいでいる。俺たちが一晩逃げ出さなかったことを、少しは評価してくれたらしい。
「マッシュって……何だっけ。穀物のどろどろしたやつ?」
「発酵前の原料だ。甘く仕上げりゃ、飲み口がよくなる。まずは材料を運べ。そこに砂糖と穀物が入った袋がある。全部で……三十袋な」
「さんじゅう!?」
思わず叫んだ俺をよそに、ヒナタは静かに腕まくりをした。
「まとめて持ってくね」
「いや無理だろ! てか普通は一袋ずつ──」
言い終わる前に、ヒナタはひょいひょいと袋を肩に積み上げていき、左右の腕と背中を使って一度に六袋、運び出していった。
「うそだろ……」
俺は一袋担ぐだけで膝が笑ったというのに、ヒナタは何往復かで全袋をあっという間に運び終えてしまった。業者の口がぽかんと開いていた。
「お、お前……ちょっとは手加減ってもんを……」
「え、でも全部運べるし、早い方がいいでしょ?」
「……こいつ、まさか……」
業者はしばし俺とヒナタを見比べていたが、深くは追及しなかった。
その後は、粉砕した穀物を湯で煮る工程に入る。木製の大桶に材料を放り込み、でかい木ベラで撹拌しながら、温度を調整していく。地味で重労働だ。
「このへんかな」
ヒナタは、木べらの感触でぬるりとしたマッシュの粘度を見極める。
「火、ちょっと弱めて。もうすぐ糖化し始める」
「おい坊主、お前なんでそんなの分かるんだ」
「匂いと手触り。あとは泡の出かた?」
「……あぁ……は?」
業者は納得しかけてから疑問にぶつかったらしく、眉をひそめる。俺は目を逸らした。説明できることと、しない方がいいことの境界線が、最近だんだん分かるようになってきた。
午前中いっぱいの作業を終え、ようやく一息つける時間になった。
俺は桶の縁に腰かけて、首筋に浮いた汗を拭った。
「……つかれた……」
「おつかれー」
ヒナタが隣に座る。その膝の上には、妙に可愛らしい布包みが乗っていた。
「なにそれ?」
「弁当。作ってきた。……中見ていい?」
広げてみると、そこにはあの時代の人気カートゥーンキャラを模したサンドイッチが三つ。輪切りの茹で卵やピクルスで目鼻がつけられ、小さなベーコンが耳のように張りついている。
「……なんでそんな手間かけた?」
「いや、こういうのって……楽しいじゃん?」
俺は返す言葉がなく、ただ黙ってサンドイッチを受け取った。
業者はといえば、しばらく沈黙したあと、ぽつりと漏らした。
「……最近の若ぇのは、何考えてんだか分からん」
そのくせ、サンドイッチはしっかり平らげていた。
こうして、俺たちの最初の“仕込み”は無事に終わった。
あとは数週間の発酵を待ち、蒸留を行う。次に来るとき、果たして俺たちの平穏な日常が残っているか――それだけが、少しばかり気にかかっていた。
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作業が終わり、午後の日差しが森の上空から斜めに射していた。湿った空気がゆるく流れ、鳥の声も、風の音も、どこか遠くに聞こえる。
業者は鍋を火から下ろし、冷ましながら何かを計算していた。ヒナタは後片付けに手を貸しつつ、空き瓶をまとめて箱に詰めている。
俺はというと、小屋の裏手にある木の切り株に座って、ぼんやり空を見上げていた。
「……なあ、ヒナタ」
「ん?」
「お前さ。なんであんなに重い袋を一度に運べるんだ? 筋トレとかしてたっけ」
「してない。というか、あれくらい普通に持てるでしょ。重いって感じたこと、あんまないし」
ヒナタは特に気にするふうもなく、紐を結びながら答えた。まるで、自分が他人と違う自覚すらないような言い方だった。
小屋の中から、業者がこちらを呼ぶ声が響いた。
「おーい、お前ら! 明日からは発酵に入るから、しばらく作業は無しだ。二週間後、蒸留やるから、また来いよ」
「了解ー!」
「……二週間ね。予定空けとくか……」
「どうせ他に予定ないでしょ」
「うるさいな」
その日はそのまま、業者のトラックの荷台に乗せられて森を下りた。帰り道、森の空気は行きとは微妙に違っていた。音が少なく、葉が揺れる音さえどこかよそよそしい。
俺たちが今いるこの場所が、アーカムという“街”のすぐ隣にあることを、信じられなくなってくるような、そんな空気だった。
けれど――それでも。
「なあヒナタ、今日の弁当……次も頼んでいいか?」
「もちろん。今度は甘いのも入れとく?」
「頼む。なんか、ああいうのがあるだけで安心するわ」
「そっか。じゃあ次は……猫の顔のパンにしようかな」
日常は、まだ続いている。少なくとも、今はまだ。
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数日後。アーカムの中心部にある小さな喫茶店。
店内は穏やかな午後の陽光に包まれており、ラジオの音が小さく流れていた。
>「……本日のローカルニュースです。先日、アーカム近郊を流れるハッチ川で男性の遺体が発見されました。身元はまだ確認中ですが、所持品から地元の警察関係者である可能性があるとのこと……」
ラジオの声に、カウンター席の中年男が眉をひそめる。
「またか……あの辺り、最近物騒だな」
「森の中じゃ何があっても不思議じゃないさ。見つかっただけマシだよ」
「あんたの言い方、なんか怖いな」
カップの中でスプーンがくるくると音を立てる。
午後の静けさの中に、わずかに不穏なざわめきが混じっていた。




