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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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それが私の懸念だ

 1927年6月。


 アーカムの街角には、蓄音機から流れるチャールズ・リンドバーグの快挙を祝うラジオ放送が響き渡っていた。

「翼の生えたアメリカ」の象徴がパリに降り立ってから、街の熱気は冷めることを知らない。誰もがこの国を無敵だと信じ、終わることのない黄金時代の絶頂に酔いしれていた。


 だが、その熱狂を一段低い視点から見つめる○○○と、少年の姿に擬態したヒナタにとって、目の前の現実は決して「輝かしい」ものではなかった。


「……ねえ、○○○。このイチゴ、値段の書き間違いじゃないよね?」


 市場の八百屋の軒先で、ヒナタが指差した木箱には、例年の倍近い値札がつけられていた。

瑞々しいレタスも、初夏の陽光を浴びた果実も、庶民が気軽に手に取れる価格をとうに越えている。


 ○○○は眉をひそめ、店番をしている中年の店員に声をかけた。


「随分と強気な値段だね。今年は豊作だって聞いていたけど?」


 店員は吐き出すような溜息をつき、苛立ちを隠そうともせずに答えた。


「ああ、豊作さ。だがな、収穫する奴がいねえんだよ。

一昨年にあの『イエロー』共を一掃して追い出した報いが、今になって一気に来たんだ。今年に入ってから収穫時期が重なった途端、どこもかしこも深刻な人手不足さ」


 店員は、リンドバーグの快挙を報じる新聞を忌々しげに丸めた。


「代わりに雇った連中は、ちょっと暑けりゃすぐサボるし、作業も遅い。おまけに給料の文句ばかりだ。

農場じゃ、収穫しきれなかった果物が山ほど腐り始めてる始末だよ。流通量が減れば、値段が上がるのは道理だろう?」

「……連中、自分たちの都合で追い出しておいて、そのツケを今さら嘆いているんですか?」


 呆れたように呟く○○○の隣で、ヒナタもまた呆れを孕んだ視線を店員に送った。


「代わりの算段も立てずに、ただ不気味だからって追い出したんですか?

……自分たちで自分の首を絞めるのが、お金持ちの趣味なのかな?」


 人々が空を見上げ、銀色の翼に夢を見ている足元で、この国の「土台」を支えていた精密なシステムは、自ら抜き取った歯車によって静かに、だが確実に崩壊を始めていた。


---


 結局、何も買わずに市場を後にした二人は、研究室に戻るなり、カニンガム教授に市場の惨状を報告した。


 教授は万年筆を置き、窓の外でリンドバーグの記事に読み耽る学生たちの姿を冷ややかに眺めていた。

○○○が野菜の価格高騰と農場の窮状を語り終えると、彼は短く鼻で笑った。


「当然だよ。何も驚くことではない」


 教授は椅子の背もたれに深く体を預け、机の上の書類を整理し始めた。


「農場主たちは、自分たちが何を使いこなしていたのか、その価値をこれっぽっちも理解していなかったのさ。

ヒナタ君やカイ君のような……つまり、小柄だが疲れを知らず、精密機械のように働き、かつ文句一つ言わずに土壌を管理していた者たちの労働力を前提に、この地域の経済システムは組まれていたんだ」


 教授の冷徹な分析は、かつての日系移民たちが担っていた「役割」を浮き彫りにした。


「その中核、いわば『知性ある重機』としての代わりが務まる人間が、そう簡単に現れるはずもない。

トラクターを数台導入したところで、繊細な収穫時期の見極めや、土壌の変化への対応ができるわけではないからね。

システムから基幹部品を抜き取れば、全体がガタつく。自業自得としか言いようが無い」


 来客用の椅子に座り、コーヒーとスコーンを食べていたカイが、その言葉を聞いて無言で、だが深く、重々しく頷いた。

彼女もまた、一昨年まで地上にいた同胞たちがこの街の「見えない土台」としてどれほどの負荷を背負わされていたかを、当人達の愚痴から理解していた。


「……自分達で自分達の土台を壊しておきながら、被害者面をする。

義務教育が機能しているのか怪しくなってきますね……」


 ○○○が呆れ顔で応じると、教授は眼鏡を拭き直し、ふと表情を険しくした。


「だが、問題は野菜の値段だけではない。

○○○君、この歪みは単なる『一時的な不作』で終わるような代物ではないんだよ。

もっと深い、致命的な『崩壊』の始まりだ」


 教授の瞳に宿った予言者のような鋭い光に、研究室の面々は嫌な予感を感じた。


 研究室の空気は、窓の外から聞こえる狂騒的なラジオの音とは裏腹に、急速に熱を失っていった。


 カニンガム教授は机の引き出しから、いくつもの経済指標が乱雑に書き込まれた個人的なメモを取り出し、それを広げた。


「……笑っている場合でもないんだ。○○○君、ヒナタ君、そしてカイ君。

もし君たちが株や債券、あるいは銀行の預金といった『紙の資産』を多く持っているなら、今のうちに忠告しておこう」


 教授は一度言葉を切り、万年筆の先で机を叩いた。


「早ければ半年。遅くとも……そうだな、再来年、1929年の秋までには、それらをすべて現金キャッシュに換え、可能であればゴールドのような実物資産に変えておきたまえ。

それも、信頼できる金庫に隠しておくことだ」


 あまりに具体的で、かつ唐突な「資産運用のアドバイス」に、○○○は一瞬呆気にとられた。


「……教授、それはいくらなんでも悲観的すぎませんか?

今のアメリカはかつてない好景気だ。リンドバーグの快挙で、投資もかつてないほど活発になっている。

みんな口を揃えて、この繁栄は永遠に続くと言っていますよ」

「永遠、か。耳に心地よい言葉だが、経済にそんな魔法はない」


 教授は冷徹な眼差しを○○○に向けた。


「いいかね。さっき君たちが市場で見た野菜の高騰。あれは氷山の一角だ。

農業が死に、生産基盤が脆弱になっている一方で、都市部の人間たちは実体のない期待感だけで数字を買い合っている。投機の金額だけが釣り上がって行っているんだ。

土台の腐ったビルが、さらに上の階を増築し続けているようなものだ。そんな事をしていればやがて自重に耐えきれなくなり、崩壊の瞬間は一気に、そして無慈悲に訪れる」


 教授が語る未来図は、神話生物がもたらす破滅とはまた別の、極めて人間的で、かつ不可避な「絶望」の匂いがした。


「この宴は、まもなく終わる。次にくるのは、酒やパンも買えなくなる……所まで行くかもしれない暗黒時代デプレッションだ。……それが私の懸念だ」


 教授の指し示した恐慌への階段。

 それはこれから起こる歴史そのものであり、研究室にいた全員が、目に見えない巨大な津波が遠くから押し寄せてくるような、底知れぬ恐怖に沈黙した。


 窓の外では、依然としてリンドバーグの「大西洋単独無着陸飛行」という輝かしい偉業を讃えるラジオのファンファーレが鳴り響き、アーカムの若者たちが未来への希望に満ちた声を上げていた。

しかし、この部屋の中だけは、数年後の冬に放り出されたかのような冷気に支配されていた。


「せっかく禁酒局が緩くなったのに、生活が厳しくなるなんて……」


 ヒナタが、手元の空になったコップを見つめながら、絶望的な未来予想図を前に肩を落とした。


「怪物よりもずっと性質が悪いよ……」


 隣で静かにスコーンを咀嚼していたカイも、食べ終えた指先を見つめ、少しだけ悲しげに目を伏せた。


「……地上の人たちが自分たちで作り上げた『豊かさ』が崩れるなら、ボクたちのような異質な存在は、真っ先にその怒りの矛先に……ならなさそうだね。

残りのチャイナタウンに今矛先にされてる人達がいるし。」


 ○○○は、教授が広げたメモの数字を食い入るように見つめた。

そこには、過剰生産に陥った製造業の在庫数と、日系人という精密な労働力を失って荒廃しつつある農業生産指数の反比例が、残酷なまでの正確さで記されていた。


「教授、これはもはや『予測』ではなく、『確定した未来』として語っていますね」

「そうだとも、○○○君」


 カニンガム教授は万年筆を胸ポケットにしまい、深く溜息をついた。


「怪物なら、銃弾で対抗する術もある。だが、この『経済』という巨大な怪物は、実体がない。

数億人の欲望と絶望が織りなす底なしの沼だ。一度沈み始めれば、誰にも止められん。

……いいかね、ヒナタ君、カイ君、今のうちにリュウグウ側の同胞たちにも伝えておくんだ。

……そういえば、彼等は海底都市での生活の為に資産は全て物資に変えてたから心配要らないな……」


 教授の勧告は、西アーカムという狭い街の枠を飛び出し、海底に眠る古き民の経済圏にまで及ぼうとしていた。


 1927年6月。人々が黄金の夢に浮かれ、青空の向こうにある無限の可能性を信じていたその夏。

文化人類学研究室の一行だけは来るべき大恐慌という暗黒の季節に向けて、静かに準備を始めるのだった。

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