命は大事にしろよ……って聞いてねえな
野球大会の熱狂から一夜明けた西アーカムの朝は、いつになく騒がしかった。
霧雨が晴れた街角では、新聞を広げた市民たちが足を止め、あちこちで信じがたいものを見たと言わんばかりのどよめきが沸き起こっている。
ミスカトニック大学、カニンガム研究室のデスクにも、刷りたての『アーカム・アドバタイザー』紙が放り出されていた。
その一面を飾っていたのは、およそ理性的とは言い難い衝撃的な見出しだった。
『西アーカムの怪! 時速60マイルで爆走するダブルベッド、禁酒局と決死のカーチェイス!』
その見出しの下には、夕陽を背に受け、地上数インチを滑空しながら猛スピードで突き進む重厚な家具と、その後ろから身を乗り出してトンプソン短機関銃を構える連邦捜査官の姿が鮮明に写し出されていた。
たまたま現場を通りかかった新聞記者が、驚きながらも本能的にシャッターを切ったという、文字通りの「奇跡の一枚」である。
「……まさか、家具が空を飛ぶ姿が、これほど克明な証拠写真として残るとはね」
カニンガム教授は、新聞を読みながら、深く溜息をついた。
「……やれやれ、近いうちにまた、これに便乗した安っぽい怪奇映画が増えそうだ」
その隣で、アーサーは新聞を奪い取ると、愉快そうに声を上げて笑った。
「これは保存版ですね」
○○○はコーヒーを啜りながら、窓の外を走るパトカーの列を眺めた。
「笑い事じゃないぞ、アーサー。
これは俺達も呼び出されるかもしれないな……」
○○○の予感は、この街においてはそれなりに的中する。
五月の爽やかな日差しが差し込む研究室に、昨夜の羽毛と硝煙の匂いがまだ残っているような気がして、○○○は眉間を揉んだ。
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同日の午後、西アーカム郊外。
かつての所有者の名から「コービット邸」と呼ばれるその廃屋の周囲は、不穏な緊張感に包まれていた。
昨夜、ベッドが壁を突き破って飛び出した大穴が、まるで屋敷が叫び声を上げているかのように開いている。
西アーカム警察は、面子を潰された禁酒局からの「強力な要請」を受け、今日こそこの不気味な屋敷の膿を出し切るべく、精鋭の警官隊を派遣していた。
彼らの手には、もはや標準装備となりつつあるショットガンやトンプソン短機関銃と、予備の弾倉が鈍い光を放っている。
「いいか、相手は家具だ。動くものがあれば迷わず撃て」
班長が指示を出し、警官たちが玄関へ踏み込もうとした、その時だった。
――ガシャァァン!!
窓ガラスが内側から粉砕され、一人の男が転がるようにして庭へと飛び出してきた。
「うわあああ! 来るな! 来るんじゃない!」
埃まみれで、仕立ての良いジャケットの袖を真っ赤に染めたその男は、警官隊の姿を見るなり、救いの神に出会ったような顔で叫び声を上げた。
その首から下げられた大きなライカのカメラだけは、まるで赤ん坊を守るかのように必死に抱え込まれている。
「おい、しっかりしろ! お前は昨日の……あの記者か!?」
駆け寄った警官が男の肩を掴む。男はガタガタと震えながら、背後の屋敷を指差した。
「中だ! 地下だ! 二階のベッドだけじゃない、中にはまだ何かいるんだ!」
昨日の「爆走ベッド」の写真を撮り、あろうことか一攫千金とさらなるスクープを狙って、今朝から単独で屋敷に忍び込んでいたという無謀な記者だった。
「地下室で……ナイフが踊ったんだ!
ひとりでに空中を舞って、俺を切り刻もうとした!
それに……奥の壁から、死体が、干からびたミイラみたいな奴が起き上がってきたんだ!」
記者は腕の傷を押さえながら、狂乱状態でまくし立てた。
彼のカメラのレンズには、恐怖に歪む自分自身の顔と、その背後で蠢く「何か」の輪郭が焼き付いているようだった。
「……空飛ぶナイフに、動き出すミイラか。なるほど」
警官の一人が、冷淡にショットガンの遊底を引いた。
昨夜のダブルベッドを経験した彼らにとって、もはや宙に浮く刃物程度では驚く理由にならなかったのだ。
「班長、どうします?」
「決まっている。怪我をした記者と新人を一人、パトカーに戻せ。
……残りの野郎どもは俺に続け。クソ共が本当にいるなら、弾丸をたっぷりご馳走してやる」
負傷した記者がパトカーへと担ぎ込まれる横で、三人の警官が覚悟を決めた足取りで屋敷の中へと踏み込んでいった。
五月の明るい日差しは、蔦の絡まる玄関先で途絶え、その先には硝煙でしか浄化できない、深淵のような闇が口を開けていた。
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踏み込んだ廃屋の内部は、カビとすえた埃の匂いが混じり合い、一歩歩くごとに床板が悲鳴のような音を立てた。
三人の警官は互いに背後をカバーしつつ、記者が指し示した地下室へと続く扉を見つけ出した。
「行くぞ……」
班長が合図と共に扉を蹴り開けると、地下からは死後数十年は経過したであろう濃厚な死臭が逆流してきた。
懐中電灯の細い光が階段の先を穿つ。
そこに広がるのは、煤けたレンガの壁と、異様な静寂に包まれた闇だった。
三人が地下の床に足を下ろした、その瞬間だった。
―――ヒュッ!!
鋭い風切り音と共に、作業台の上に放置されていた錆びたナイフが、まるで目に見えない糸で操られる操り人形のように宙を舞った。
それは重力を無視して加速し、先頭を行く警官の喉元をめがけて容赦なく襲いかかる。
「させるか!」
警官の一人が、咄嗟に手にしたショットガンの銃身でナイフを叩き落とした。
弾かれた刃物が床に突き刺さるのと同時に、周囲の棚から別の刃物や工具が次々と浮き上がり、群れを成して襲撃を開始する。
「撃て! 叩き落せ!」
――ドォォン!! ドォォン!!
至近距離から放たれた散弾の奔流が、空飛ぶ刃物を次々と弾き飛ばし、壁にめり込ませていく。見えない力が何であろうと、質量と火薬のエネルギーがそれを上回れば関係ない。
近代兵器の圧倒的な火力が、オカルト的な現象を物理的にねじ伏せていく。
だが、異変はそれで終わらなかった。
地下室の最奥、レンガの壁が崩れ落ちた穴の先。
そこから這い出してきたのは、黒く干からびた皮膚が骨に張り付いた、眼窩の奥にどす黒い光を宿す「ミイラ」だった。
「……ア、アァ……」
記者の話していたミイラが侵入者を呪うように腕を伸ばす。
その指先が触れれば、生者の命など瞬時に吸い取られるであろう禍々しい空気が漂う。
「いたぞ!いたぞぉぉぉ!」
警官達がショットガンやトンプソン短機関銃の銃口を向け、引き金を引く。
地下室を埋め尽くすような轟音と共に、無数の散弾と45口径の弾丸がミイラの胴体を容赦なく穿った。
弾丸が着弾するたびに、干からびた腐肉が千切れ飛び、黒い塵となって散っていく。
ミイラは何もできないまま、蜂の巣にされて粉々に粉砕した。
一分も経たぬ間に地下室には、硝煙の白煙と、沈黙した瓦礫だけが残されていた。
「銀じゃなくても効く物なんだな……」
班長は銃口から立ち昇る煙をそのままに、地下室の闇を、再び懐中電灯で冷たく照らし出した。
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静寂が戻った地下室で、警官たちは警戒を解かぬまま、懐中電灯の光を交差させて隅々まで調べ上げた。
かつてミイラが眠っていたであろう場所には、砕け散った骨の破片と、数世紀分の埃が混ざり合った黒い残骸が散らばっているだけだった。
「日記とか、手紙の類はなしか?」
班長が声を殺して尋ねるが、部下たちは首を振った。
棚にあるのは、どれも実用性を失ったガラクタか、あるいは文字すら読めないほどに腐朽した紙屑ばかりだ。
主であるミイラが近代兵器の掃射によって「物理的に消滅」したことで、この屋敷に満ちていた異質な力――家具を飛ばし、刃物を操っていた「呪い」の正体は、文字通り霧散してしまったのである。
結局、このミイラが何者だったのか、何のために地下に潜んでいたのかを語る証拠は、何一つ残らなかった。
この街の深淵は、解決してもなお、その真相を闇の中に隠匿し続けるのだ。
「……引き上げるぞ。ここはもう、ただの不潔なゴミ溜めだ」
班長が短く告げ、三人は硝煙に満ちた地下室を後にした。
一方、屋敷の外。
パトカーの後部座席で応急処置を受けていた新聞記者は、腕の痛みも忘れて、震える手でカメラを抱きしめていた。
彼の脳裏には、先ほど地下室の闇から飛び出してきたミイラの姿が焼き付いている。
「……撮った。撮ったぞ……!」
屋敷から飛び出す前、彼は恐怖に駆られながらも、地下室で自らに襲いかかってくるミイラの姿を確かに捉えていた。
ナイフを避けて脆くなった地下室の壁を体当たりで突破した先の隠し部屋の中でミイラが自分を見ながら立ち上がった瞬間、反射的にシャッターを切ったのだ。
「うへへ、家具が飛ぶだけじゃない。死体が歩くんだ。
この街は、本当にとんでもないことになっている……!」
記者はうわ言のように繰り返しながら、現像前のフィルムが入ったカメラを、まるで聖遺物のように愛おしそうに撫でた。
地下から戻ってきた班長が、その様子を冷ややかに見下ろす。
「記者のお兄さん、命は大事にしろよ……って聞いてねえな」
記者は答えなかった。ただ、自らの傷口から流れる鮮血と、カメラの中に閉じ込めた「狂気の断片」だけが、この不条理な午後の唯一の戦利品だった。
五月の西アーカムの空は、何事もなかったかのように高く、青く澄み渡っていた。
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翌日の朝。西アーカムの住人たちは、コーヒーを啜る手さえ止めて、再び届けられた『アーカム・アドバタイザー』紙に釘付けとなった。
『地下室に潜むリビングデッド! 勇敢なる警察官が怪異を撃破!』
そこには、昨日の「爆走ベッド」を優に超える衝撃的な写真が載っていた。
地下の闇の中から、フラッシュに照らされながら剥き出しの歯を剥いてカメラに向かって今まさに襲いかかろうとする、この世のものとは思えないミイラの姿。
ミイラの形相があまりに凄まじかったため、それを見た市民の間には戦慄が走ったが、同時に「警察が物理的に粉砕した」という記述が、妙な安心感をもたらしていた。
「……無茶なことをする記者だね。よくもまあ、あんなものを目の前にしてシャッターを切れたものだ」
カニンガム研究室では、教授が呆れたように鼻を鳴らし、新聞をテーブルに置いた。
隣ではヒナタとカイが、新聞に掲載されたミイラの写真を興味深そうに覗き込んでいる。
「へぇー、こんなのも西アーカムにいたんだ。
誰が何考えて作ったんだろう?」
「さあね、干物を動かす趣味なんて無いから私達にはわからないんじゃないかな?」
ヒナタの台詞にカイも適当に返し、トーストを口に運んだ。
「まだまだ俺達が知らないだけで、世界中の身近な所にこの手のオカルトが転がってるなんて事が無いと良いんだがな……」
○○○は、窓の外を眺めながら、半魚人やダンウィッチの怪物以外にもまだまだ人類の脅威が存在する現実に何とも言えない気持ちになった。
真実は解明されない。呪いの由来も、飛翔の原理も、闇の中に消えたままだ。しかし、目の前の脅威だけは、法執行機関の弾丸によって確実に塵に帰っていく。
「廃屋の物音の正体がミイラとポルターガイストだったとは……」
アーサーが、手帳内の噂の一つに注釈を書き加えながら楽しげに呟く。
「動くミイラとか、想像以上にこの街ってとんでもない事になってませんか?」
「……笑って言う事ではないんじゃないか?アーサー」
「笑わなきゃやってられませんよ……」
○○○は苦笑し、カップに残った冷めたコーヒーを飲み干した。
五月の爽やかな風が、開け放たれた窓から新聞のインクの匂いを運んでくる。
街の人々が新聞を読み終え、いつも通りの仕事へと向かう中、研究室にはいつもの空気が流れていた。
Q.ミイラの正体って屋敷の元持ち主のコービットなんですか?
A.違います。
コービットが屋敷を手放した後に魔術師が無断で住み着いて弄り回した後、後片付けせずに資料を抱えて別の場所に移住した結果がこの廃屋です。




