散れ! 全員伏せろ!
五月。アーカムの街を吹き抜ける風は、冬の湿り気を完全に追い払い、新緑の鮮やかな匂いと共に、どこか浮き足立った熱気を運んできた。
ミスカトニック大学西アーカム分校の研究室では、カニンガム教授がデスクの上に広げられた「ある文書」を苦虫を噛み潰したような顔で見つめていた。
それは学術論文でもなければ、当局からの呼び出し状でもない。
「……『特別合意書:西アーカム裏社会親善野球大会・規約第1条。
研究室所属の日本人、およびそれに類する不可解な膂力を持つ存在は、投打ともに選手としての出場を一切禁止する。
万が一、ボールが消滅、あるいは音速を超えた場合は、その時点で当該チームの即時失格とする』……だそうだ」
教授が読み上げた書面を覗き込み、○○○は深い溜息をついた。
「去年、ヒナタがバットを振っただけでボールを消し飛ばしましたからね。妥当な判断ですよ。野球を『競技』として成立させたいなら」
当の本人であるヒナタは、隣でカイと一緒に暢気に笑っている。
「大丈夫だよ、今年は元々出る気無いし、アルさんから『始球式の余興で一球だけ消してくれれば、あとはバックネット裏のVIP席で最高級のパストラミサンドとジンジャーエールが飲み食い放題だ』って言われてるから!」
「ボクも、今日は食べる専門で頑張るよ」
カイも嬉しそうに頷く。彼女たちの食欲はますます健気(かつ底知れないもの)になっていた。
カニンガム教授は、真新しいハンチング帽を被り直したアーサーを伴い、重い腰を上げた。
「やれやれ。禁酒局が血眼になって『目に見えない脅威』を追い回している最中に、その情報源である我々がマフィアの野球見物とはね。
シュールを通り越して、もはや喜劇だ」
研究室の外へ出ると、四月の長雨が嘘のように晴れ渡った青空が広がっていた。
一行は教授の愛車、黒塗りのフォードに乗り込み、郊外の特設グラウンドへと向かう。
窓の外では、時折、連邦禁酒局のパトロール車両がサイレンを鳴らさずに猛スピードで走り去っていくのが見えた。
彼らは今日も今日とて、アーサーが提供した「噂」を頼りに、街の膿を出し、あるいは闇の中に潜む「何か」を銃弾で教え込んでいるのだろう。
「いい休日になりそうですね、教授」
アーサーがステッキを膝の上で弄びながら、不敵に微笑む。
「公権力が必死に治安を維持してくれているおかげで、僕たちは心置きなく、球遊びを鑑賞できるというわけです。
これこそ、知性ある者の特権だと思いませんか?」
「……君のその図太い神経は、いつも羨ましいと思っているよ」
○○○は呆れ顔で応じながら、五月の爽やかな風に目を細めた。
この先に待ち受けているのが、単なる野球の試合だけで済むはずがない――そんなアーカム特有の不穏な予感を感じつつも、一行を乗せたフォードは、歓声の上がるグラウンドへと滑り込んでいった。
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会場となる郊外の野原に設けられた特設グラウンドは、一見すると昨年と同じ熱気に包まれていた。
バックネット裏の観客席には、西アーカム中の弱小組織の面々が陣取り、手垢で汚れたノートに賭けの倍率を書き込んでいる。
さらにその周囲には、不測の事態――主に従争から派生する乱闘――に備え、数台のパトカーと共に西アーカム警察の面々が「待機」と称して目を光らせていた。
「いやあ、教授! 今年も華やかでしょう?」
一行を真っ先に出迎えたのは、イレギュラーズのボス、アルだった。昨年同様、組織のロゴが入ったユニフォームを着こなしているが、その表情にはかつてない自信が漲っている。
「アル、相変わらずの盛況だね。
……だが、去年は投手の差で負けたと思うのだが、大丈夫なのかい?」
カニンガム教授の懸念に、アルは野太い笑い声を上げ、胸を張ってグラウンドを指差した。
そこにはイレギュラーズの選手たちに混じって、一際体格の良い、見慣れない男たちが数名並んでいた。
「なあ教授、見てくれよ。去年はスネークアイズの剛腕投手に苦労させられたからな。
今年はこっちも、州外のマイナーリーグから食い詰め者の『本物』を数人スカウトして来たんだ。
日本人が使えないなら、人間の中の最高戦力を揃えるまでさ」
一方、対戦相手のスネークアイズ側も黙ってはいない。
彼らもまた、どこから連れてきたのか「野球が得意そうな」屈強な用心棒たちを並べ、殺気立った視線をこちらに送っている。
彼らもまた勝利という名の利権を掴もうと必死だった。
「なるほど、純粋な戦力の増強というわけだね。
それにしても、受けてくれる選手がいるとは驚いたな……」
教授は内心で安堵した。少なくともボロ負けする心配はなさそうだと判断したからだ。
○○○が周囲を見渡すと、グラウンドの遥か外縁部、森の境界あたりで連邦禁酒局の黒い車両が数台、音もなく移動していくのが見えた。
彼らは野球の試合などには目もくれず、噂を追って、深い緑の中へと消えていくのだろう。
「……彼らが『あっち側』で頑張ってくれているおかけで、僕たちが『こっち側』で遊んでいられる。実に美しい分業体制じゃないですか」
アーサーが笑みを浮かべながら、VIP席へと腰を下ろした。
ヒナタとカイは、席に着くや否や、アルが用意させた大量のホットドッグとパストラミサンドに手を伸ばしていた。
「始球式、もうすぐかな?
見ててよカイ、思いっきりフルスイングするように頼まれてるからね。遠慮しないでやって来るよ」
「了解、ちゃんと見てるから空振らないでよ?」
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マウンドに上がったのは、スネークアイズの投手の一人。
去年何が起きたかを知る彼は、やけくそで全力の速球を放った。
―――瞬間。
ヒナタの瞳に、獲物を狙う猛禽の鋭さが宿る。
彼女が踏み込み、バットを一閃させた刹那、空気が「破裂」した。
―――パァァァン!!
乾いた打球音ではない。
火薬が爆発したような破裂音が響き渡り、マズルフラッシュにも似た衝撃波が砂埃を巻き上げた。
放たれた白球は、ヒナタのフルスイングによる尋常ならざる衝撃と圧力に耐えきれず、革の繊維とコルクの粉塵に分解された。
白い煙のような残骸がダイヤモンドに降り注ぎ、バットは衝撃で粉々に砕け、ヒナタの手元にはグリップだけが虚しく残った。
「……よし、ノルマ達成!」
ヒナタは満足げに笑い、粉々になったバットの破片をポイと捨てると、軽やかな足取りでバックネット裏のVIP席へと戻ってきた。
呆然自失とするスカウト組の選手たちと、腰を抜かした審判の神父を置き去りにして、グラウンドには歓声と興奮が渦巻いた。
ヒナタが試合に参加する訳じゃないと知ってるので観客席のマフィア達は、ただの余興としか見ていないのだ。
「お疲れ様、ヒナタ。派手にやったね」
○○○が差し出したジンジャーエールを、ヒナタは喉を鳴らして飲み干した。
「うん! 去年より綺麗に弾けた気がするよ。さあ、食べるぞー!」
こうして始まった本戦は、昨年とは打って変わって、極めてハイレベルかつ泥臭い「人間同士」の戦いとなった。
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試合は四回を終えて三対三の同点。
バックネット裏では、ヒナタとカイが競うようにパストラミサンドを頬張り、コーラを啜る平和な咀嚼音が響いている。
歓声に沸くグラウンドから数マイル離れた、鬱蒼とした森の境界。
そこには、かつて地元の名士が住んでいたとされる、今は蔦に覆われた古い石造りの屋敷が沈黙していた。
主を失って久しいその「廃屋」は、近隣住民から「夜な夜な妙な物音がする」という通報を受け、現在は西アーカム警察と連邦禁酒局の共同調査対象となっていた。
「……何も出ないでくれよ……」
二階の薄暗い寝室で、西アーカム警察の巡査が懐中電灯を振り回しながら毒づいた。
彼に同行しているのは、同じく警官一人と、禁酒局の捜査官二人だ。
「ただの浮浪者だと良いんだがな……」
捜査官が銃の安全装置を外した、その時だった。
ギィィィ……と、錆びついた金属が擦れるような音が寝室の奥から響いた。
四人が視線を向けた先には、埃を被った巨大な木製フレームの「ダブルベッド」が鎮座していた。
それが唐突に、生き物のようにブルリと震えたかと思うと、四脚の脚をバネのようにしならせ、床から数インチ浮き上がった。
「な、なんだ!? ベッドが浮いて――」
警官が叫び切るより早く、その重厚な家具は「暴走」を開始した。
凄まじい推進力を得たダブルベッドは、まるで獲物に突進する猛牛のごとき速度で室内の空気を切り裂き、最前線にいた警官の腹部を正面から撥ね飛ばした。
「ぐはっ……!?」
撥ねられた警官をその天蓋の上に乗せたまま、ベッドは止まらない。勢いそのままに、レンガ造りの壁を紙細工のように突き破り、二階の窓から外へと放り出された。
「クソッ! 撃て! 奴を逃がすな!」
残された捜査官たちが、開いた大穴から身を乗り出し、庭に落下してなお猛スピードで走り出した「家具」に向けて拳銃を乱射した。
銃弾は木製のフレームを削り、マットレスに穴を開けるが、意思を持つベッドは撥ねた警官を振り落とそうと左右に蛇行しながら、公道へと飛び出した。
「こちら捜査官ヘンリー! 化け物……というか、ダブルベッドが警官一名を拉致して北のグラウンド方面へ逃走中! 繰り返す、飛翔する家具だ!」
無線に吹き込みながら、彼らは階段を駆け下り、自分たちの車両に飛び乗った。
撥ねられた警官は途中で道路に放り出されたが、それを後続のパトカーが回収し、病院へと急ぐ。
一方で、禁酒局の車両はアクセルを床まで踏み込み、時速六十マイル以上で低空飛行を続ける「飛ぶベッド」を猛追した。
五月の爽やかな風を切り裂き、狂った家具が向かう先は、今まさに熱戦が繰り広げられている野球場だった。
試合は九回裏、二死満塁。
スコアは五対五の同点という、これ以上ない劇的な局面を迎えていた。
マウンド上で肩で息をするスネークアイズの投手と、バッターボックスで不敵にバットを構えるイレギュラーズの助っ人。
観客席の男たちは身を乗り出し、喉が枯れるほどの怒号を浴びせ、審判の神父は極限の緊張から「主よ、早く終わらせてください」と祈るように十字を切っていた。
西アーカムの空が燃えるような朱色に染まり始めた、その時だった。
グラウンドの入り口、本来ならパトカーが整然と並んでいるはずの公道の向こうから、凄まじい風切り音と、狂ったようなエンジンの回転音が響き渡った。
「なんだ、あの音は!?」
アルが椅子から立ち上がった瞬間、グラウンドの外野フェンスを紙細工のように突き破り、それは現れた。
それは、夕陽を反射して高速で飛来する「巨大なダブルベッド」だった。
もはや家具としての形状を保ちつつも、その挙動は獲物を追い詰める捕食者のそれだ。
低空を滑走しながら砂煙を上げ、真っ直ぐにダイヤモンドへと突っ込んでくる。
その後ろからは、禁酒局の黒塗りの車両がタイヤを悲鳴させながら猛追し、窓から身を乗り出した捜査官たちがトンプソン短機関銃をバラまいている。
「 散れ! 全員伏せろ!」
グラウンド周辺に待機していた警官たちが一斉に叫び、同時に腰のホルスターから銃を抜いた。
無線での連絡はとうに回っていたのだ。
ベッドは三塁ベースを時速六十マイルで掠め、逃げ遅れたランナーの鼻先をかすめてマウンドへ。
「ひいぃぃっ!?」
投手がマウンドから転げ落ちるのと同時に、外周を固めていた警官隊と、追跡してきた禁酒局、さらには観客席に混じっていた「武装した関係者」たちによる、一斉射撃が開始された。
―――ダダダダダダダダッ!!
夕暮れの静寂を切り裂く、凄まじい集中砲火。
トンプソン、スプリングフィールド、ウィンチェスター、エレファントガン……現代兵器の奔流が、意志を持つ狂った家具へと集中した。
飛翔するダブルベッドは、弾丸の雨を浴びてマットレスから羽毛を撒き散らし、木製の天蓋を粉々に砕かれながらも、なお空中をのたうち回った。
しかし、警官隊が撃ち込んだ散弾の一撃がその脚部を粉砕すると、ベッドは力尽きたように本塁の数ヤード手前で地面に激突し、土を散らしながら滑走して、ようやく沈黙した。
静寂が戻ったグラウンドに、硝煙の匂いと羽毛が雪のように舞い落ちる。
「……アウト、かな?」
バックネット裏で最後のアスパラガス・フライを口に運んでいたヒナタが、首を傾げて呟いた。
「いや、ノーゲームだろう。……こんな状況でスポーツを続けられるものじゃない」
カニンガム教授は、眼鏡を拭きながら、変わり果てた姿になった「かつての寝具」の残骸を眺めた。
騒然とする会場の中で、アルとスネークアイズのボスが歩み寄った。
二人は、穴だらけになったベッドと、それを包囲してなお銃を構え続ける「重武装の公権力」の異様な光景を見つめ、同時に溜息をついた。
「なあアル、今年の勝負はこれでおしまいだ。これ以上やったら、あいつらに俺たちまで射殺されかねん」
「……全くだ。ベッドが空を飛んでくるなんて、とんでもない話だな。
まあ、撥ねられた警官以外に死人が出なかっただけマシとするか」
二人のボスは、互いの健闘を称えるように、というよりは「この狂った街で生き残っている」ことを祝い合うようにがっしりと握手を交わした。
そして、禁酒局のヘンダーソンが血走った目でベッドの残骸を検分し始めるのを尻目に、用意していた「上等な酒」の栓を抜くべく、足早に撤収を開始した。
帰り道。カニンガム教授のフォードが、夜の帳が下り始めたアーカムの街を走る。
車内には、遊び疲れと満腹感に満ちた平穏な空気が漂っていた。
「ダブルベッドが空を飛んで人を襲うなんて……。
アーサー君、君の手帳にはそんなことまで書いてあったのかい?」
○○○がハンドルを握る教授の隣で尋ねると、後部座席のアーサーは満足げに手帳を閉じた。
「書いてないですよ。あんな物、聞いた事もないです」
「僕は、あのベッドのマットレスの中身が気になったな。
あんなに撃たれても動くなんて、変な魔術でもかかってたのかな」
ヒナタが○○○の肩に頭を預けながら、眠たげに呟く。カイもその隣で、静かに頷いていた。
「……何はともあれ、怪我人が一人で済んで良かった……これが最後だと良いのだが……」
カニンガム教授の言葉を最後に、車は霧の立ち込める西アーカムの市街地へと滑り込んでいった。
Q.なんでベッドが飛んでるんですか?
A.クトゥルフ神話TRPGのサンプルシナリオ「悪霊の家」ネタです。
ネタバレですが、ベッドが襲いかかってきたりします。




