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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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81/83

物分かりが良くて助かるよ

 四月の幕開けは、祝福というにはあまりに湿り気の強い雨と共にやってきた。


 ワシントン州南部沿岸の春を象徴する、重く、低く立ち込めた霧雨。

それがアーカムの街全体を、古いセピア色の写真のように灰色に塗り潰している。


 ミスカトニック大学西アーカム分校の人類学研究室では、カニンガム教授がデスクに広げた新聞の端を、手持ち無沙汰に指でなぞっていた。


「……ミシシッピの大洪水に、中国のクーデターか。

世界はどこもかしこも、水の底に沈むか血の海に浮かぶかのどちらかのようだね。まだまだ荒れそうだ」


 教授は眼鏡の奥の瞳を細め、冷静に世界の混迷を見つめていた。

だがその心中は、遠く離れた上海の政変よりも、数日前にこの研究室で起きた「アーサー・ペンドルトンの取り調べをきっかけとした西アーカム禁酒局の方針転換」という、あまりに飛躍した国内情勢の整理に追われていた。


 そこへ、雨の雫を弾くレインコートを羽織った男が一人、丁寧なノックと共に姿を現した。

イレギュラーズのボス、アルの使いだ。


「教授、ボスからの言伝です」


 差し出されたのは、上質な厚手の紙に記された、場違いなほど優雅な招待状だった。


 内容はこうだ。


 禁酒局が方針を劇的に転換し、「メタノール入りの毒酒を出す不届き者」のみを優先摘発対象に切り替えたことへの祝勝会を執り行う、というもの。

つまり、毒物など混ぜず「本物」を扱うイレギュラーズにとって、これは事実上の『西アーカムにおける営業公認』を連邦政府から勝ち取ったに等しい、実質的な勝利宣言であった。


 会場は西アーカムでも指折りのイタリアンレストラン「ラ・ステラ」。アルが店を丸ごと貸し切ったという。


「……イレギュラーズはアイリッシュ系の組織のくせに、どうしてわざわざイタリアンレストランでパーティーをやるんだ?」


 招待状を覗き込んだ○○○が、素朴な疑問を口にした。


 一般的にアイリッシュ・マフィアの祝宴といえば、煙たいパブでエールを煽り、ジャガイモ料理を突っつくのが相場だ。


 カニンガム教授は、どこか遠くを見るような目で答えた。


「ああ……それについては、いくつかイタリアンレストランを傘下に収めて以降、彼がそこのシェフの腕にすっかり心酔してしまってね。

最近は『酒を美味く飲むためのツマミ』としてのイタリア料理に目がないんだよ」

「マフィアのボスがパスタにハマった、と……」


 ○○○は微妙な表情を浮かべたが、すぐに納得したように肩をすくめた。


「まあ、イレギュラーズは元々『美味い酒を飲むこと』に命をかけてる連中ですからね。

より酒が進む味を見つけたなら、伝統を捨ててそっちに転ぶのも、彼ららしいっちゃ彼ららしいか」

「そういうことだね。

……さあ、アーサー君が手繰り寄せた『とんでもない奇跡』の味を確かめに行こうじゃないか。

毒のない最高級の酒が待っているよ」


 教授は引きつった笑みを隠すように立ち上がり、雨具を手にした。


---


 会場となる「ラ・ステラ」は、西アーカムの喧騒から少し離れた落ち着いた通りに佇んでいた。


 普段は厳格な予約制を敷く高級店だが、今夜は「貸切」の札が掲げられ、その軒先にはヒナタが配ったあの「鉄製の風鈴」が吊るされている。

海風を孕んだ四月の雨が風鈴を揺らし、チリン、と澄んだ音を立てるたびに、招かれざる「邪念」を霧の向こうへと追い散らしているようだった。


「やあ、教授! よく来てくれた!」


 店内に一歩足を踏み入れると、芳醇なガーリックとオリーブオイル、そして何より「本物の酒」の香りが一行を包み込んだ。


 出迎えたのは、いつも通り仕立ての良いスーツに身を包んだアルだった。

その表情は、禁酒局という巨大な重圧から解き放たれた開放感で、いつになく明るい。


「アル、素晴らしい趣向だね。それにこの賑わいは……まるで禁酒法が明けたみたいじゃないか」


 カニンガム教授が感嘆の声を漏らすのも無理はなかった。


 店内には、研究室の面々だけでなく、ゲストとして招かれた海洋生物学研究室のコーエン教授と、その教え子たちも顔を揃えていた。

彼らは普段の潮の香りがする作業着を脱ぎ捨て、若者らしい華やかな装いで、テーブルに並んだシャンパングラスを掲げている。


「街もひどいお祭り騒ぎですよ、教授」


 ○○○が窓の外の景色を振り返って言った。


 霧雨に煙る路地のあちこちからは、祝祭のジャズが漏れ聞こえてくる。

禁酒局が『毒酒の摘発』と『怪異の調査』へとリソースを完全にシフトしたことで、良質な酒を出す店には束の間の平穏が訪れていた。

市民たちはその「緩和」を敏感に察知し、あちこちの軒先に効果も知らないまま偽物の「鉄鈴」を吊るし、堂々と祝杯を挙げているのだ。


---


 一方で、この平和を支えている「正義の味方」たちはといえば、今夜も元気に出動していた。


「おい、そこをどけ! 連邦禁酒局だ!」


 路地裏では、ヘンダーソン率いる捜査官たちが、メタノール入りの安酒を売っていた「底辺スピークイージー」の扉を斧で叩き割っている。


「いいか、こんな不純物を売る不届き者が怪物を呼び寄せるんだ! 徹底的に叩き壊せ!」


 かつての執念をそのまま「公衆衛生」と「怪物退治」に転換した彼らは、文字通り不眠不休で街の膿を出し続けている。

同時に、アーサーの手帳にあった『地下水道の奇妙な足音』の噂を確かめるべく、懐中電灯とショットガンを手に暗い排水溝へ突入していく姿も見られた。


---


「……禁酒局が警察と一緒になって重火器を振りまわすようになっちゃうなんてね……」


 窓越しに、店の前を通り過ぎたパトロール車両を見送り、ヒナタが貝のワイン蒸しを食べながら呟いた。


「そうだね……矛先がこっちに向かなくなっただけでヤバさは桁違いに上がってるよね……」


 カイも同意するように頷く。


 その光景を見ながら、カニンガム教授だけは、冷えたシャンパンを喉に流し込んでも、胃のあたりの落ち着かない感覚が消えることはなかった。


 マフィアと市民視点では取り締まりが緩くなり、生活が比較的楽になったが、治安維持組織が過剰火力を振りまわすのは本来おかしい事なのだ。


「……問題の根幹は元から存在してたから、責任を感じる必要は無いか……」


 アーサーがコーエン教授の学生たちの待つ賑やかなテーブルへと進んでいく様子を見ながら、カニンガム教授は物事が物騒な方向に転がっていく予感から現実逃避した。


---


 給仕たちが恭しく運んできたのは、今朝がたコロンビア川の冷たい激流から引き揚げられたばかりの、最高級のスプリング・チヌーク(キングサーモン)のカルパッチョだった。


 薄くスライスされた身は、春の陽光を透かしたような淡い薄紅色を放ち、その表面には繊細なサシが真珠の粉のように散っている。

口に運べば、体温でとろける濃厚な脂の甘みが、上質なオリーブオイルの青い香りとレモンの酸味に引き立てられ、舌の上で春の目覚めを告げた。


「これは驚いた。これほど瑞々しいサーモンを食せるとは……!」


 コーエン教授が、フォークを置いて溜息をついた。

彼の隣では、海洋生物学を専攻する学生たちが、まるで餓えた若魚のように料理を平らげている。


「それだけじゃないぞ。次はこれだ」


 アルが満足げに顎をしゃくると、大皿に盛られたリゾットが運ばれてきた。

立ち昇る湯気と共に、ナッツに似た芳醇で土の香りがテーブルを満たす。四月の雨が育んだ森の宝石、モレル(アミガサタケ)のリゾットだ。


 米の一粒一粒に染み込んだキノコの出汁とバターのコクは、暴力的なまでの多幸感を演出し、招待客たちの理性を心地よく削ぎ落としていった。


 「……ところで、カニンガム教授」


 コーエン教授が、三杯目の白ワイン――ラベルこそ剥がされているが、そのキリッとした辛口はフランスの銘醸地のものに相違ない――を喉に流し込み、声を潜めた。


「一体、どんな魔法を使ってあの禁酒局(エリート共)を飼いならしたんだ?

大学の評議会じゃ、君がワシントンに強力なコネを持っているだの、実は大統領の私設顧問だの、とんでもない噂が飛び交っているよ」


 カニンガム教授は、フォークを握ったまま引きつった笑顔を浮かべた。


「いやあ、コーエン教授……実は私じゃなくてアーサー君のお手柄なんだ。

彼がオカルト絡みの噂を集めているのは知ってるだろう?

禁酒局の連中、それをスピークイージーや密輸関連の噂だと思い込んだらしくてね。噂の場所を当たって行ったんだ。

その結果、最初に〝本物〟を引いてしまって西アーカム警察の〝お仲間〟になったという訳さ」

「……半魚人以外にも、その手の連中がいたのかい?」

「残念ながら、実在する。

去年の9月頃、アーサー君が襲われてね。○○○君、ヒナタ君、カイ君の3人に助けられたそうだ。

カイ君曰く、そこまで強くないって話だったが、禁酒局の中から死者が出てしまってね。

私が街中で語られてる噂やイレギュラーズの面々から集めた〝その手の怪物〟の情報と引き換えに警察から摘発や検問の情報を貰ってた事もあって、イレギュラーズ関係の人間は見逃して貰える事になったのさ」


 視線の先では、アーサーがコーエン教授の学生たちに囲まれ、英雄のごとき熱量で演説を打っていた。


「……つまり、法というものは『共通の恐怖』の前では形骸化するんです。

彼らは今、酒よりも恐ろしいものを知った。

そしてその『敵』を教えたのは、他ならぬこの僕の手帳というわけです!」


 学生たちが「さすがオカルトマニア」「政府を動かすなんてホームズ越えだよ」と囃し立てる。

アーサーはさらに上機嫌になり、胸を張ってシャンパンを煽った。


 「南部の洪水はひどい被害が出ているらしいですね」


 ○○○が、隣の席の学生と当たり障りのない世間話を始めた。


「ええ、ミシシッピ川が泥海になっているとか。

上海の方も、蒋介石とかいう男がクーデターを起こして血の雨が降っているそうです。

世界中がひどいことになっている」

「……そうですね。それに比べれば、この街の雨はまだ『マシ』なのかもしれません」


 ○○○はそう答えながら、リゾットの中の黒いモレルを見つめた。


 外では今も、ヘンダーソンたちが懐中電灯を振り回し、闇を穿つ銃声を響かせているだろう。

世界を揺るがす洪水やクーデターのニュースさえ、この店に漂う芳醇なキノコの香りと、禁酒局という名の番犬に守られた「歪な安らぎ」の前では、遠い銀幕の出来事のように現実味を欠いていた。


「……おかしな話だと思わないかい、コーエン教授」


 カニンガム教授が、半分ほど空いたグラスを見つめて呟いた。


「我々学者が、マフィアの奢りでイタリア料理を楽しみ、その門を禁酒局が守っている。

これが近代アメリカの、それも知性の府であるはずの大学のすぐ傍らで起きていることだとは。

……あまりに美味しすぎて、毒でも入っているんじゃないかと疑いたくなるよ」

「ははは! 毒なら禁酒局が摘発したはずだ。

今はただ、この狂った四月の味を楽しもうじゃないか、カニンガム君」


 コーエン教授の豪快な笑い声に、カニンガムは力なく微笑み、再び「現実逃避」という名の美食へと逃げ込むしかなかった。


---


 メインディッシュが下げられ、テーブルには大ぶりの鍋から溢れんばかりの「レイザークラムのワイン蒸し」が運ばれてきた。


 ガーリックと白ワイン、そしてバターの芳醇な蒸気が立ち昇り、絶妙な火入れによって殻からするりと外れる肉厚の身は、春の海の豊かさをそのまま凝縮したような弾力と旨味を備えている。


「うーん、やっぱりこの時期の貝は最高だね!」


 ヒナタが器用にフォークを使い、プリプリとした身を口に運んで満足げに目を細めた。


「そうだね。こっちの貝も凄く美味しい!」


 カイも頷き、白ワインのグラスを傾ける。


 二人の周囲には、海洋生物学研究室の学生たちが、親愛と畏敬が入り混じった表情で集まっていた。


「なあ、ヒナタさん、カイさん。実はちょっと相談があるんだが……」


 ワインで顔を赤くした男子学生の一人が、意を決したように身を乗り出した。


「僕たち、次にリュウグウに行った際に本気で日本人の女の子を口説いてみたいと思ってるんだけど……何かコツとか、好みのタイプとかないかな?」


 その問いに、他の学生たちも一斉に耳を傾ける。

2月の海底都市旅行以来、彼らは「人智を超えた存在」への恐怖以上に、その神秘的な美しさに魅了されてしまっていた。


 だが、ヒナタとカイは顔を見合わせると、同時に深い溜息をついた。


「……やめておいた方がいいよ、本気で」


 ヒナタが、貝の出汁にパンを浸しながら、冷ややかな、けれど真実味のあるトーンで釘を刺した。


「一昨年の日本人が人間じゃないって報道とか、色々あったでしょ?

バレたらお互いタダじゃ済まなくなるよ」


「そうそう」とカイが言葉を継ぐ。


「僕達については今ほど問題になる前からの付き合いだから奇跡的に残ってるけど、今からのお付き合いは辞めたほうが良いよ……」


 二人の視線が、一瞬だけカニンガム教授の隣で黙々と食事を続ける○○○に向けられた。

その無言の圧力に、学生たちは「ああ……なるほど……」と、がっくりと肩を落として納得せざるを得なかった。

目の前の○○○が、今どれ程厄介な状況にいるのかを察してしまったからだ。


「……そっか。やっぱり、僕らには高嶺の花……じゃなくて、深海の底の宝石みたいなもんなんだな」

「物分かりが良くて助かるよ」


 ヒナタが悪戯っぽく笑い、ワイングラスを掲げた。


 ○○○は、酒に酔い、笑い合う学生たちの姿をぼんやりと眺めている。


(……言われて見れば、俺って結構とんでもない事をやってたな……)


 ○○○はヒナタとカイとの関係がどれ程厄介な物なのかを改めて感じながら、この狂騒的な四月の晩餐を、どこか夢の中の出来事のように噛み締めていた。


---


 宴も終盤に差し掛かり、最後の一口のドルチェが運ばれてくる頃、店内の喧騒はどこか微睡むような心地よさに包まれている。


 アルは上機嫌でコーエン教授と握手を交わし、「これからは密輸品を運ぶルートも、我々の『友人』が安全を保障してくれるだろう」と、暗に禁酒局との奇妙な共生関係を誇示してみせた。


 レストランの重い扉を開けると、そこにはモノクロームの夜が広がっていた。


 四月の雨は止む気配もなく、アスファルトを濡らす水たまりが、街灯の鈍い光を反射して怪しく揺れている。


「ふう、お腹いっぱい。○○○、帰ったら一緒に少し運動しない?」

「僕は、温かいお茶を淹れてゆっくりしたいかな」


 ヒナタとカイが、それぞれ○○○の腕に絡みつき、当然のように帰路を共にする。


 カニンガム教授は、学生たちが霧の中へ消えていくのを見送った後、傍らに立つアーサーを振り返った。


「……アーサー君。君のおかげで、今夜のワインは実に見事な味がしたよ。

だがね、私はまだ、この状況を素直に喜ぶ気にはなれんのだよ」


 教授は、遠くの暗闇を見つめた。


 そこでは、パトライトを消した禁酒局の車両が、雨に打たれながら不気味に低速で巡回している。

彼らは今この瞬間も、アーサーの手帳にある「オカルトの残滓」を求めて、この街の深淵に手を突っ込んでいるのだ。


「警察も禁酒局も、暴走し続けている……

この世界には我々の想像が及ばないとんでもない何かがあるのは確かとはいえ、不可抗力でも彼等が暴走するきっかけを作ってしまったのは後々大変な事になりそうな気がしてね……」


 教授の予言めいた呟きを、冷たい雨音が静かに塗り潰していく。


 アーサーはいつもの不敵な笑みを崩さず、上等なステッキを軽く振ってみせた。


「大丈夫ですよ、教授。

不可抗力である以上、誰にも責められないですし、業務内容からして遠からず彼等は怪物達と衝突してましたよ」


 一行は、各々の家や寮へと続く道を歩き出す。


 西アーカムの空を覆う深い霧は、上海の動乱も、南部の洪水も、そしてこの街に根を張る底知れぬ恐怖も、すべてを等しく灰色に飲み込んでいった。

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