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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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79/81

さあな。霧が出てきたせいだろう。

 三月下旬。


 西アーカムの高級ソーダファウンテンの一角で、アーサー・ペンドルトンは不機嫌そのものの顔でストローを噛んでいた。


 「カニンガム教授の協力者」である事を自認する彼には、今、かつてないほどの不自由が課せられていた。

新設された禁酒局が「大学と裏社会の癒着」を疑い、学生たちの動向に目を光らせているため、ペンドルトン家からも「カニンガム教授のような、疑惑の絶えない人物との接触を当面控えて外出を減らすように」と厳命されていたのだ。


「……信じられない、この街の謎にまだ全然触れられてないというのに……」


 向かいに座る友人は、アーサーの愚痴を「金持ちの道楽」と聞き流しながら、街で流行っている妙な噂を口にした。


「なあアーサー、例の噂を聞いたか?

摘発を免れている幸運な酒場には、不思議な『鉄のベル』が吊るされているらしい。

捜査官が踏み込もうとすると、鈴が鳴った瞬間に彼らの目が曇って、入り口を見失うんだとさ」


 友人は「おまじない」の効果だと笑ったが、アーサーの目は違った。


(……間違いない。ヒナタ卿か、あるいはカイ卿の仕業だ!)


 アーサーは、自身の膨大なオカルト知識と彼らとの付き合いから来る経験を総動員して確信した。

それはただの噂ではない。認識阻害の魔術具だ。カニンガム研究室で共に過ごしたあの日々――常識を超えた光景を何度も目にしてきた彼には、それが現実であると即座に理解できた。


(ヒナタ卿は僕のいないところで面白い『アーティファクト』を試しているらしい。

あの中に僕がいないなんて……)


 アーサーは歯噛みした。

今自分が研究室に駆け込めば、背後についている家の監視役が、カニンガム教授をさらに窮地へ追い込む材料を見つけてしまうだろう。

自分が行けないからこそ、あの頼もしい人外達が、教授や○○○を守っている。

その事実に安心しつつも、オカルトマニアとしての知的探求心が、彼を内側から焼き焦がしていた。


「……おい、アーサー? どこに行くんだ」

「気分転換に、アンティークショップでも回ってくるよ。……『ベル』を売っていないか、確かめにね」


 アーサーは席を立ち、名残惜しげに大学の方角を一度だけ見つめた。


 しかし、彼がその「魔除けの鈴」の価値を理解している一方で、街の低俗な盗人たちは、それを単なる「汚職の免罪符」だと勘違いし始めていた。


---


 深夜の西アーカム。


 街灯の届かない路地裏に佇む「理髪店」の前に、一人のこそ泥が忍び寄った。


 彼の狙いは、店の看板でも金庫でもない。

軒先に無造作に吊るされた、あの奇妙な鉄の風鈴だ。


(……へへっ、これさえありゃ、俺の馴染みの店も摘発されずに済む。

禁酒局の『見逃しサイン』をこんなところに放置しておくなんて、イレギュラーズも焼きが回ったぜ)


 男は汚職の証拠、あるいは魔法の護符を手に入れるつもりで、脚立代わりの木箱に足をかけた。


 だが、彼が風鈴に手を伸ばそうとしたその瞬間、店の扉が音もなく開き、巨大な「岩」のような影が立ちふさがった。


「……おい、ガキ。今、何をしようとしていた?」


 低く唸るような声の主は、スピークイージーのバウンサー(用心棒)だった。

 禁酒局が血眼になって店を探している今、店側も神経を尖らせている。

特にヒナタから「お酒を飲みたい人にしか入り口が見えなくなるおまじない」として譲り受けたこの風鈴は、今や店にとって命綱以上の神聖な備品だ。


「あ、いや、これは……その、汚れを拭いてやろうかと……」

「そうか。じゃあ、その手も『掃除』してやるよ」


 バウンサーの太い腕がこそ泥の襟首を掴み、路地裏へと引きずり込んだ。

 静かな夜の闇に、ゴスッ、バキッという肉と骨がぶつかる鈍い音と、情けない悲鳴が響き渡る。


「大切な方からの貰い物なんだよ、それは。

傷一つでもつけてみろ、ボスに報告する前に俺がてめえを樽詰めにしなきゃならねえ」


---


 翌朝。


 禁酒局の監視を避けるため、カニンガム教授、○○○、ヒナタは大学の研究室に籠もるか、酒の密造に関係のない事をして証拠を掴ませないように立ち回っている。

当然、スピークイージーで起きた小競り合いの報告など届くはずもない。


 一方で、ボコボコにされて路地裏に転がされたこそ泥の姿を見た野次馬たちは、さらに尾ひれをつけて噂を広めていった。


「聞いたか? あの変なベルを盗もうとした奴は、顔の形が変わるまで打ち据えられるらしいぜ」

「あのベルはなにやら大物からの贈り物だから、盗んだ奴と取られた店は死んだ方がマシな目に遭うって聞いたぜ」


 魔術的な「知覚の壁」と、物理的な「バウンサーの暴力」。


 その二つが混ざり合い、ヒナタの風鈴はいつの間にか、アーカムの裏社会で「決して触れてはならない呪物」へと昇華しつつあった。


---


 三月の終わりが近づくにつれ、アーカムの裏社会には「入り口にベルの付いた店は見逃される」という確信めいた信仰が蔓延していた。


 事の本質を理解できない同業者たちは、本物の風鈴を盗むのが不可能だと悟るや否や、次なる行動に出た。――模倣である。


 鉄工所にはヒナタの風鈴を真似た「鉄のベル」の注文が殺到し、街中の怪しい理髪店、クリーニング屋、果てはただの空き家の軒先にまで、急造の「偽風鈴」が吊るされるという奇妙な光景が広がった。


 彼らは信じていた。これを吊るしさえすれば、禁酒局は「ああ、ここは上層部への賄賂が済んでいる店だ」と察して通り過ぎてくれるのだと。


 だが、現実はその真逆だった。


「……ヘンダーソン、見ろ。まただ」

「ええ、課長。今日だけで十二個目です。馬鹿の一つ覚えみたいに、どいつもこいつも小汚い鈴をぶら下げて……」


 禁酒局の捜査官たちにとって、その鈴は「見逃しのサイン」どころか、『ここに違法な店があります』と叫んでいる格好の標識に過ぎなかった。


 ただ、必死に「賄賂を受け取っている証」という架空の敵を追っている彼らにとって、その魔術的な力の無い鈴は汚職を暴くための重要な物的証拠に映っていたのだ。


「叩き壊せ! 鈴を吊るしている店は、一軒残らず徹底的に家宅捜索だ!」


 偽物の鈴が石畳に叩きつけられ、粉々に砕ける。


 直後、斧を持った捜査官たちが雪崩れ込み、偽の安心感に浸っていた密造者たちは、抵抗する間もなく引きずり出されていった。

皮肉なことに、ヒナタの風鈴を模倣したことで、彼らは自ら「隠れ家」の秘匿性をドブに捨ててしまったのである。


---


 同時刻。ミスカトニック大学の人類学研究室。


 禁酒局の目から逃れるため、カニンガム教授は○○○と共に、膨大な資料の整理という「極めて健全な学者らしい仕事」に没頭していた。


「教授、またどこかで摘発があったようですね」

「ああ……ヒナタ君の鈴のレプリカを吊るしてるスピークイージーだろう?

まあ、酒飲み以外を遠ざける鈴なんて、普通に考えてわかる筈が無いからね。

彼等には悪いが、音が鳴る分、逆効果だろうよ」


 教授は窓の外の喧騒を一瞥もせず、ペンを走らせる。


 その傍では、ヒナタとカイが目の細かい布を触手や片手で持ち、資料として保管している石像等を磨いて手入れしていた。


「ねえヒナタ、磨く物ってあといくつあったっけ?」

「倉庫にある分含めて、もう300個くらいはあった筈だよ」


 ゲンナリするカイにヒナタが冷静に答えた。


---


 夕闇がアーカムの街を包み込む頃、禁酒局の捜査官たちは、一日の「戦果」を携えて意気揚々と引き揚げようとしていた。


 彼らの車両の荷台には、没収された偽物の鉄鈴が、まるで無価値なガラクタのように積み上げられている。

ヘンダーソンは、窓の外を流れる景色を眺めながら、満足げに鼻を鳴らした。


「……結局、あんな見え透いた目印を信じるなんて、犯罪者というのは知能も倫理観も欠如している。そう思いませんか、課長?」

「全くだ。だが、イレギュラーズの店だけは、まだ尻尾を掴ませんな……」


 車両が、まさに「カニンガム教授行きつけのスピークイージー」がある路地を通りかかる。


 軒先には、本物の風鈴が静かに佇んでいた。夕風がそれを揺らし、チリン……と、澄んだ、それでいてどこか寒気のする音が響く。


 その瞬間、車内の捜査官たちの脳裏に「そこには何もない」という強固な認識が植え付けられた。

彼らの目には、理髪店の看板も、扉も、窓も映っていない。ただ、どこにでもある古ぼけたレンガ壁が、不自然なほど長く続いているようにしか見えなかった。


「……あれ? 課長、この通り、こんなに長かったでしたっけ?」

「さあな。霧が出てきたせいだろう。

……急ごう、今日中に仕上げる報告書が山ほどある」


 法の猟犬たちは、獲物の鼻先を悠々と通り過ぎていった。


---


 一方、研究室では、カイが最後の石像を磨き終え、派手な溜息をついて椅子に沈み込んでいた。


「終わった……。もう一生分磨いた気がするよ……」

「お疲れ様、カイ君。おかげでこの蒐集品コレクションも、しばらくは輝きを保てるだろう」


 カニンガム教授は万年筆を置き、窓の外を見つめた。


 アーサーがいないせいで情報の巡りは少し悪くなっているが、それでも、この「魔除けのベル」を巡る狂騒劇は、今のアーカムを象徴する喜劇として刻まれている。


 三月の終わり。


 凍てつく冬の名残と、狂信的な正義が吹き荒れるアーカムで、その鈴の音を聞き取れる者は、皮肉にも「酒という毒」を愛する不届き者たちだけだった。

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